第10話『シロツメクサの約束を』

 走るのが得意じゃない琴音だったら、すぐに追いつくだろうと思ったのがまずかった。走るのが遅くても、これだけの人数がいれば見つけるのに苦労しないわけがない。右も左も人ばかり。常に動いているのだから尚更見つけづらい。一縷いちるの望みを賭けて電話をかけてみるが、当然でるわけがない。折り畳みのパンフレットを広げて全体図を見下ろす。

 オレが今いるのがセントラルパークで、そこから琴音が向かいそうな場所は……。

 冬の花がある「冬の世界」か? それとも特別展示の辺りか? もしかすると、もう帰ってしまってここにいないのかもしれない。どこだろうかとアタリをつけようとするけれど、どれも琴音がいそうな場所とは思えなかった。いや、琴音が行きそうな場所が分からないのだ。

 思えばいつも琴音はオレの側にいた。なのに、オレは琴音が何を好きなのか、どんな所が好きなのか全く知らなかった。

 いや、違う。知ろうとしなかったんだ。いつも一緒にいるから、知らなくてもいいんだって高を括ってたんだ。そんな自分に歯噛みしてしまう。琴音に甘えてた自分を殴ってやりたかった。だけど、こんなところで足踏みしている暇はない。本当に帰ってしまったら、もう何もかもが終わりになってしまう。オレが今までしてきたことも、狼月と喧嘩してまでやろうとしたことも、何もかもが泡となって消えるだろう。

 オレはパンフを乱暴にポケットに押し込んで走り出す。とにかく行かなきゃ。虱潰しでも探さないととオレはまず冬の世界へと向かう。

 冬の花が展示されている「冬の世界」は、薄い青色の壁に覆われた肌寒い部屋だった。通る人が皆、少し寒そうに腕を擦ったり震えながら気持ち早足で進んでいる。オレはその波のような人を掻き分けるように、辺りも見渡しながら進んでいく。

 冬が終わり、パークは秋へと戻る。先程の寒色に包まれた世界とは違って、淡いオレンジの壁は夕暮れを思わせる。部屋の気温もさっきに比べる少しだけ暖かい。けれど人の多さは変わらずで、オレは布を走る糸のように人と人の間を縫いながら進んでいく。時折茶色いウェーブのかかった髪が視界に入る度、体が反応して声をかけようとするが、着ている服や顔がみんな違って足が止まる。

 秋が終わり夏へと変わるために差し掛かる通路で脇道がある事に気がついた。『しあわせのはらっぱ』『ハーブのにわ』と誰でも読めるような字と共に上向きの矢印が書かれた看板が貼ってある。

「原っぱ……」

 そこから続く道を確かめるために、くしゃくしゃに押し込んだパンフレットを再び取り出す。ドームの外にはハーブで出来たアーチがあり、その先に大きな緑の広場が描かれていた。

「みてみてママー。原っぱでお花の冠作ったの。ママにあげるね」

「あら、ありがとう千枝ちゃん」

 パンフを見ていたオレの横を女の子とお母さんが通っていった。女の子の手には手作りの白い花が沢山あしらわれている花冠が大事そうに握られており、お母さんは幸せそうに笑いながら女の子の前にしゃがんだ。そのお母さんの頭に、そっと自分が作った花冠を優しく被せてあげる。

「ママ、すごく綺麗。王女さまだよ」

「ホント? じゃあ千枝ちゃんは素敵なお姫様ね」

 そう言って笑い合う二人。そんな幸せそうな二人が手を繋いで歩くのを最後まで見届けてふと気付いた。

「花冠……原っぱ」

 何かその二つが頭の中で引っかかりぐるぐると頭の中で回って回って一つの記憶を呼び起こす。

「そうだ……シロツメクサの花冠」

 それは昔、オレと小さい頃の琴音が出会った時のこと。まだ小さかった琴音と山の一番上にシロツメクサが一面に咲いた場所でよく遊んでいた。そこはオレだけが知ってる秘密の場所で、そこから一望できる桜木町の景色に琴音も大はしゃぎしていた。初めて連れて行ったときから琴音はそこをすごく気に入ったらしく、思えば連れて行ってからずっと毎回そこへ遊びに行った気がする。琴音はいつもその原っぱでシロツメクサの花を結んで花冠を作っていた。誰に贈るのかは知らないけれど、小さな手で一生懸命、真剣な表情で茎と茎を結んでる姿をオレはいつも隣で眺めていたけれど、なかなか上手く作れなくて花冠は毎回よれよれな見栄えになってしまっていた。ギュッと握り続けていたから花びらも潰れて結びも緩かったのかぷらんぷらんと解けかかっていてお世辞にも綺麗とは言えそうにない冠。それは琴音自身も分かってたらしく、琴音はできた冠を見て、泣きそうな顔をしていた。悔しさと悲しさが一緒になったようなしかめっ面で、目尻に輝いている粒を今にも決壊しそうなほど溜め込んで。そんな琴音をオレは微笑みながら頭を撫でてあげたっけ。また次作ればいいじゃないか。この前よりは上手だぞ。って言いながら。何度も何度も琴音は花冠を作り続けて失敗し続け、そして結局成功出来ないままオレと琴音は疎遠になったんだ。

 オレはパンフレットをポケットに入れて、脇道へと足を向ける。ガラス張りのドアを開けて外へ出ると、爽やかな匂いが風と一緒にオレの顔を通り過ぎた。もう時間は昼を過ぎ、頂点に達していた太陽はゆっくりと西の方角へと傾き始めていた。

 真っ直ぐ歩くと、つる性のハーブがいくつも絡まり綺麗なアーチとなってずらりと並んでいた。通る度、爽やかさや甘さといった色んな香りが鼻腔をくすぐる。どれもいい香りで自然と心が落ち着いて、同時に焦りかけていた頭にも余裕が生まれた。アーチを抜けて開けた場所へと出ると、眼前には一面の緑色が広がっていた。遮蔽物なんて何もない。そんな原っぱには、子ども達に何かを教えている人、レジャーシートを敷いてお弁当を食べている家族、並んで日向ぼっこのように寝ているカップルと様々な人たちが楽しんでいた。そんな光景を見ながら原っぱを歩く。

 ここに琴音がいる。なんて確証はなかった。花冠の事はただそんなこともあったなぁ。という感じで思い出しただけに過ぎない。でも、どうしてか足はここへと向かっていた。まるで、呼ばれているように。誘われているように。一体誰に? 考えたのは一瞬。しかしその答えをオレは求めなかった。人が集まっている所から少しだけ離れた場所で、見覚えのある服と髪をした後姿が腰掛けているのを見かけたのだから。

 一歩、一歩、落ち着いて距離を詰める。何度も深呼吸して、緊張する気持ちを落ち着けてからオレは口を開く。

「……琴音」

 瞬間、ビクッ。と琴音の肩が上がり、ゆっくりと首がこちらを向いた。

「こー君……」

 目を丸くしているその表情には、どうしてここに。という言葉が顔に貼られているように見えた。

「いきなりいなくなるからだろ。電話にも出ないでよ」

 小さくため息をこぼして、自然な流れで隣に腰掛けるけれど、体ごと後ろを向かれた。どうやらまだオレと天楼さんの事を誤解しているらしい。仕方なくオレは琴音の背中に向けて話を続ける。

「なんでいきなり帰ろうとしたんだよ」

「……だって、こー君。天楼さんと楽しそうだったし」

「どう見たら楽しそうに見えたんだよ」

 どちらかというと遊ばれてたに近いんだけど。それに楽しそうにしてたのは天楼さんだけだと思う。

「天楼さんの胸、当てられてにやけてた」

「別ににやけてないぞ」

「でも、えっちな顔してた」

 さすがにその言葉に反論ができなかった。軽い言い合いに敗北したオレが黙っていると、琴音がぽつりと口を開いた。

「私もいたのに、二人で楽しそうに話してて……ずるい」

 つん。と怒ったような口調に少しだけ驚く。琴音は自他共に認めるおっとりのんびり少女で、大体のことには寛容だ。だから怒ることなんてほとんどなく、この一年間……いや子どもの頃ですら怒ったところを見たことはなかった。でも、今の琴音の口調は間違いなく怒っている口調だった。厳密に言えば拗ねているといった感じだろうか。仲間外れにされたから怒ってどこかへ行ってしまった。まるで子どもが親の気を引くような行動をした琴音に気持ちが昂ぶった。今までそんな感情を見せなかった琴音が自分からそう言った行動をとったのがすごく嬉しくて、今すぐ後ろから琴音をギュッと抱きしめて、大声で可愛いと叫びたい気分だった。当然そんなことをする気はなく――というか出来なくて、オレはその気持ちをぐっと飲み込んだ。

「……ごめんな。せっかく一緒に来たのに。」

「ううん。私も大人気なかった」

「じゃあまた一緒に見なおすか」

 そう言って立ち上がろうとしたら、くい。と小さな力がオレの服の裾を引っ張った。視線をゆっくりと向けると、琴音が視線を明後日の方向へ逸らしたまま服の裾を握っていた。

「どうしたんだよ、琴音」

「座って、こー君」

 相変わらず視線を逸らしたまま琴音は言う。理由を問いたいけれど、きっと答えてくれなさそうなので大人しく言うとおりにその場に再び腰掛ける。

「目、つぶって……」

「え?」

 その言葉に思わず声がこぼれる。それってもしかして、お互いの唇と唇を合わせる準備ってことか? でも、オレ達はそんな関係にはなってないわけで、それは流石に速すぎじゃないだろうか。いやオレはそれが嫌ってわけじゃないし、どちらかというとどんと来い。というか、待ってました。というか、とにかく準備万端でもちろんその先もいいわけで……ああもう、考えと妄想が湧き上がる温泉のように溢れて止まらない。

「目つぶってよ、こー君」

 頭の中が暴走状態になっていて、動きを止めていたオレに琴音がもう一度同じ言葉を口にする。やっぱり聞き間違いじゃなかった。

「わ、悪い」

 謝ってギュッと力を込めて目を閉じる。人間は五感の一つが機能しなくなると、他の感覚がそのなくなった感覚を補うように色んなところが鋭敏になる。目を閉じて視覚を遮断した事によって、心臓の音がいつもより大きく聞こえるし、空気や身じろぎの音で琴音の動きがなんとなく分かってしまう。琴音の体が動いて止まる。多分、オレの正面に体を向けたのだろう。闇の中で琴音の腕が動く気配がする。彼女の一挙一動に神経が過敏になっていく。期待がドンドンと高まるにつれて心臓の音もまた大きくなっていく。ドクンドクンと膨らんでは縮んで、膨らんでは縮んでいく。そっと、何かが頭の中に置かれた感触がして、

「目、開けていいよ」

 琴音の言葉にゆっくりと目を開け、頭にのけられたものに触れてみる。硬くてちょっぴり柔らかい。触っただけじゃ分からなくてそれを手に取ってみる。

「これって……」

 オレの頭にかけられていたのはシロツメクサの花冠だった。綺麗な白い花が均等に並んでおり、茎の絡み具合もしっかりしていて解けることなく形を維持していた。

「なんで、これを?」

「あそこでね、教えてくれたの。作り方」

 琴音が指差したのは子ども達に何かを教えている女性。どうやらあれは花冠の作り方を教えていたらしい。

「それで作ったのか?」

 小さく琴音は頷いて、あと。と呟き、

「なんかね、昔これを作ってた気がするの。覚えてないんだけどなんとなくそう思って」

「オレに、くれたのは?」

「綺麗に出来たから。こー君に見てほしくって……。どうかな?」

 上目遣いでオレを見てくる琴音。その表情と可愛さに、押さえ込んでいた気持ちが再び高鳴る。琴音は昔の事を覚えているわけじゃない。これだってただ綺麗に作れたのを見てほしくてオレに渡しただけ。だけどオレにとって琴音から貰ったこの花冠は別の意味になる。

 何かがオレの中で起き上がる。それはやる気というか、決意というか、そういう真っ直ぐな強い意思。シロツメクサの花冠を持つ手から流れるようにそれは体全体へと伝わり、オレは目を閉じ、深呼吸。体の内側で猛る炎のようなそれを落ち着けて、でも火は消さないままにして目を開ける。なかなか答えをくれないオレを不思議に思ったのか、琴音はきょとんをした目でオレを見ていた。

「こー君?」

「……琴音」

 ガシッ。と琴音の肩を掴む。突然の事に琴音の体がビクッと揺れるけれど、無視してオレは言葉を続ける。


「琴音、好きだ」


 今まで言うのに苦労していたその言葉は、意外な事にするりと、いともたやすく口からこぼれた。オレの唐突な言葉に、琴音はパチパチと大きく瞬きをして、

「う、うん。私もこー君のこと好きだよ、大事な友達だから」

「違うんだよ。琴音」

 掴んでいた手を少しだけ強める。琴音の柔らかい肌が強張って硬くなるのを手が感じ取る。 

「オレの言ってる好きは、そっちの好きじゃないんだよ」

 琴音から目を逸らさずに、気持ちを逃さず伝えるように一拍置いて、

「一年間、ずっと琴音といたけどさ、お前のこと可愛いって思ってたんだよ。お前のふわふわした髪とか可愛いしさ、ほんわかな感じも可愛いし、少し天然なところも可愛いってずっと思ってる。今でも思ってる。琴音は可愛い、超可愛い!」

「こ、こー君?」

 捲くし立てるようにオレは琴音の可愛いところを語っていった。対して琴音はオレの言葉に瞬きを忘れたように目を丸くしていた。そんな琴音を無視して、勢いのまま本当に言いたい事を伝える。

「そんなお前だから、オレは琴音の事を愛――」

 言葉が切れた。

 突然視界が明るくなったり暗くなったりを繰り返すようにぼやけていき、体が鉛のように重くなる。さっきまでオレを突き動かしていた覚悟の炎が体からこぼれていくように力がなくなっていく。

「こ――君――じょう――?」

 声が遠くで聞こえる。視界の明滅は止まらず、平衡感覚までおかしくなったのか、世界がぐるぐると回って見えた。

 この感覚は覚えがある。体の中の全てがどろどろと流れていく感覚。それは昔、オレの神性が穢れて存在が消えようとしたした時に似ていた。

 その場に蹲る。オレの前にいる誰かが体に触れて揺さぶってくるけれど、それに応えることも出来ない。

 時間が経つほどに体の中にあるものがどこかへと流れていく。どこも怪我なんてしてないのに、流れていく穴なんてないはずなのに何故かオレの神性はオレの体の外へと流れ出していく。

 誰かがオレの名前を呼びながら手を握ってきた。暖かくて柔らかい手。オレはその手の持ち主を安心させるように握り返す。だけど力なんて全然入らなかった。

 心配すんな。

 そう言おうとするけれど、口も上手く動かなくて、うめき声が出た。

 オレを呼ぶ声が遠くなる。柔らかい手の温もりも遠くなる。視界がゆっくりと黒く塗りつぶされる。

 あ、ダメだ。この温もりも、声を失ってはいけない。繋ぎ止めるように力を込めるけれど、するりとそれはオレからこぼれていき、虚脱感から解放されたオレの意識は深い闇に包まれたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る