第8話『分からない思い』

 オレの事を舐めるだけ舐めて満足したのか、桜華は上機嫌で帰ると言い出したので、近くまで送るため一緒に歩いていた。勿論、今の桜華は狼の姿ではなく、人間の姿をしてもらっている。

「結局何しに来たんだよ、桜華」

「兄さんの顔を見に来たに決まってるじゃないですか」

「昨日も見たじゃねえか」

 ちっちっち。と桜華は、舌を鳴らしながら人差し指を振りながら首も一緒に振る。

「昨日は昨日。今日は今日ですよ。兄さん」

「はぁ、そうなのか?」

 そんな、当たり前の事聞かないでくださいよ。みたいなニュアンスで言われても全く分からないんだけど……。

「そうなんですよ。兄さんの顔を毎日見ることが私の一日の楽しみなんですから」

「じゃあお前も天楼さんに頼んでオレと同じようにしてもらうか? 神性の消費が少なくて過ごしやすいぞ」

「絶対イヤです」

 キラキラとした笑顔で、全力の否定が返ってきた。

「私がこの姿をしてるのは、仕方なくなんですよ」

 それに。と桜華は一拍置いて、

「私は、あの真神を信じられませんし」

「天楼さんのことか?」

 桜華はこくりと首を縦に動かす。

「彼女は追放された真神ですよ。何か企んでるはずです」

 決め付けるのに近い語調の桜華。確かにそう捉えられてもおかしくはない。天楼さんに人間に化かしてもらった時、オレは特に何も代償は払ってないし、彼女もまたオレに条件を突きつけては来なかった。上手い話には裏があるという言葉を信じれば、天楼さんは何か企んでいてもおかしくはない。

「オレはそう思えないな……」

 でも、オレはそれに頷くことは出来なかった。あの時オレを案じた表情が脳裏にちらつく。それを見てしまったら、何かを企んでいる。なんてことをどうしても思えないのだ。だって、企んでいるならいちいちこちらの心配なんてしないのだから。

 オレの返答に、桜華は納得できないと言いたげに静かにオレを睨みつけてきた。

「やっぱりあの二つの脂肪に惑わされてるんですね……」

「だから違うって」

 ふん。とそっぽを向いて桜華が先へと進む。服の中に隠していた桃色の尻尾は誰もいないからという事で出しており、桜華が歩く度に、ひょこひょこと左右に揺れる。

「もう兄さんなんて知りません。明日から顔を見に来たりなんてしないんですから。私に会えなくて寂しい思いをすればいいんですよ」

「あぁもうゴメンって。そこまで怒ることないだろ」

「脂肪にしか目がない兄さんには分かりませんよーだ」

 つーん。とそっぽを向いてこちらを見ようとしない桜華の反応にどうしたらいいのかと困っていたら、視線を感じて思わず足を止める。まるでチクチクと針で皮膚を突くような視線の出所を探るようにオレはゆっくりと振り向いた。

「兄さん?」

 突然足を止めたオレを不思議に思ったのか、桜華も振り向く。

 外灯の少ない歩道の真ん中に大きな影があった。高さはオレの腰くらいだが、大型犬ほどの大きさがある。夜の闇に溶けるようにまぎれているけれど、うっすらと伸びた外灯がかろうじて何かがいる。というところまで切り取ってくれていた。

 視線を向けていた影が動く。地面を踏む音と共に、その影が街頭の淡い光の元で正体を露わにする。

「……何でお前が、ここにいるんだよ」

 目の前に現れた一匹の狼を見て、自然と言葉がこぼれた。

 雪のように真っ白で、汚れの無いその毛並みはどこか神々しく、街灯の光でも煌々と輝いて見えた。鋭い目は金色で、睨まれただけで身が竦むような感じがして、それに呑まれないように気をしっかり持って睨み返す。

「久しぶりに会ったというのに、その言葉遣いは相変わらずか」

 ふん。と鼻を鳴らしながら、狼は落ち着いた声を出す。

「お、お父さん、どうしたの」

 桜華も彼の登場に驚いたようで、目を丸くしていた。

「桜華。私を父と呼ぶなと何度言えば分かるんだ」

「ごめんなさい……」

 呆れたような口調に桜華が、はっ。気付いて素直に頭を下げる。

「どうして、狼月さんがここに?」

「そうだよ、何であんたいるんだよ。山から出ないんじゃなかったのかよ」

 狼月は真神の長をしている存在だ。人間との関わりを拒絶し、今の真神の生き方を作り上げたリーダー。長をしているだけあって生きている年月も長く、多くの仲間は彼の生き方を見て育っている。だから桜華がお父さんというのはあながち間違ってはいないのだ。そんな狼月がどうしてここにいるのだろうか。人間と関わる事を仲間にやめるよう説いた張本人が、山を降りてくることなんてありえないことなのに。

「警告をしに来た」

「警告?」

「戻って来い、狗牙」

「……なっ」

 狼月の言葉に面食らった。

「なんだよ、いきなり」

「いいから戻って来い。今だったらまだ、お前の気の迷いとして受け取ってやる」

 その言葉に思わずカチンときた。まるでオレの生き方を否定するように捉えている言いかただった。

「気の迷いなんかじゃねぇよ。オレは本当に人間と共存したいんだ」

「時間の無駄だ。人間とお前とでは生きる世界が違う」

「それでも構わないんだよ。オレは人間の――」

 一瞬、琴音の暖かな笑顔が頭に浮かんだ。

「――あいつの隣を一緒に歩きたいんだ!」

 喋っている内に熱がこもっていたのか、自然と握り拳を作ってて、声も初めより大きくなっていた。しんとしていた夜道にオレの言葉の残滓が小さく空気を震わしていた。

「兄さん……」

 桜華が何かを言いたそうな顔をしていたけれど、何も言わずにゆっくりと顔を俯ける。

 そして、狼月はしばらく黙った後、小さく息を抜くような音を出す。それは呆れという感情が如実に含まれていた。

「人間を傷つけたお前に果たしてその価値はあると思うのか?」

「っ!」

 的確に、躊躇なく、ためらいなくその言葉はオレの胸を抉った。

「忘れたわけではないだろう? お前が関わったあの人間の末路を。あの事件を」

 傷口を押さえる暇もなく、狼月はさらに追撃をかけてくる。その言葉と連動するように頭の中であの頃の映像がフラッシュバックのように映し出された。

 オレと一緒に遊んでいた少女。

 一面に咲くシロツメクサの原っぱ。

 そこから一望できる桜木町。

 近くで見ようと歩いていく少女。

 崩れる足場。

 巻き込まれて落ちていく少女。

 助けるために落ちていくオレ。

 受け止めることはできたが、頭に大きな怪我を負ってしまった少女。

 額から流れ続ける赤い水。

 止めようとしても止まらなくて彼女の顔を体を、地面を真っ赤に染めていく。

 狼月に頭を下げるオレ。

 助けてください、お願いします。この子を助けて。

 子供のように何度も頭を下げて懇願するオレ。

 老人と楽しく遊んでいるその少女を見て、オレは彼女から背を向けて山へと戻る。

「兄さんっ」

 まるでスライドショーのような映像が終わり、知らないうちに乱れていた呼吸を落ち着ける。桜華の慌てた声が聞こえた。

「あの追放者に何を吹き込まれたのかは知らないが、お前と人間は共に生きる事はできない。それを理解しろ」

「それでも――オレの考えはかわらない」

 狼月の表情が少しだけ変わった。鋭い目がより尖った視線となってオレに突き刺さる。

「……どうやら、私はお前を甘やかしすぎたようだ」

 はぁ。と目を伏せてため息をこぼし、再びオレを睨みつけてくる狼月。

「っ?」

 その眼に思わず、どくん。と心臓が跳ねた。一瞬にしてオレ達の周りにあった空気が重くなった気がする。プレッシャーだろうか、上から押し潰すような感覚に、呼吸が苦しくなる。

「兄さん、どうしたんですか?」

 オレの変化を察知にしたのか、桜華が心配そうな表情をしていた。どうやらこの重さを感じているのはオレだけらしい。

 狼月は一歩もその場から動いていない。だけどこの重苦しい空気の発生源は間違いなく狼月の神通力によるものだった。

 やっぱり、洒落にならない力だ。流石は真神の長と呼ばれているだけはある。だけど、それで引いて負けを認める気は全くなかった。

 呼吸を落ち着けて、オレはぐっ。と握り拳を作る。狼月と戦うのは別に今日が初めてじゃない。やんちゃをしてた時に喧嘩した時もあれば、天楼さんの所へ行く前にも大喧嘩したこともあった。今までは狼の姿での一騎打ちであったが、今のオレは人間の姿をしている。もちろん、基本スペックは真神である狼月の方が何倍も上だ。何せあっちには神通力が備わっているし、牙や爪だって鋭い。対してオレはそんな超人的能力もなければ、牙や爪もない。でも違う点があるとすれば、身長の高さ。それと狼月が人との戦闘経験がないこと。その二つのアドバンテージを上手く生かすよう頭に入れて、オレは先に仕掛ける。

 地面を蹴り、全速力で狼月との距離を縮める。その間に作っていた拳を後ろに持っていき、勢いを溜める。

「らああああっ!」

 届く範囲に到達した途端、力を込めた声と共に後ろに溜めていた拳を突き出す。狼月の顔面を捉えた拳が勢いよく直進していく。狼月は回避行動が取る前に拳がその顔面にぶつかろうとしたが、

「っ!」

 進んでいた拳がぴたりとその進行を止めた。いや、止まったんじゃない。透明な膜のように柔らかい壁が突然狼月の周りに張ってあってそれによってオレのパンチが止められてしまったのだ。これも神通力によるものだと気付いて歯噛みする。

 オレの攻撃が止まったことで、狼月の目がオレの姿を捉える。

 反射的にバックステップを決めて、狼月と距離を空ける。が、すぐ背後に気配を感じた。

「なっ!」

「遅い」

 声が聞こえたと同時。背中に重い衝撃がやって来てオレは前のめりに倒れる。オレの背中に押さえつけるように前足を乗せる狼月を睨みつける。狼月をどけようと起き上がろうとするけれど、ピクリともオレの体は動かない。まるで岩が乗せられているような重量だ。

 狼月の口が動き、オレの服の襟を突然咥えてきた。まるで子猫を連れて行く母猫の要領で軽々と持ち上げられたオレを、狼月は勢いよく放り投げる。

「ぐ、がっ」

 二メートルは飛ばされただろうか。少しの浮遊感の後、コンクリートの地面にぶつかり、勢いを止めるように体を擦った。

「う……」

 痛みに顔を歪めながら起き上がろうとしたが、それよりも前に再び狼月が一瞬で距離を詰め、今度は服の裾を噛んで放り投げられた。

 数メートル飛んで体を地面にぶつける。起き上がろうとしたら、先に咥えられて投げられる。文字通り手も足も出ない状況だった。

 何回も投げられ、咥えられ、また投げられ、服と体はボロボロになっていて、もうどこか痛いのかも分からない。

「まだやるか?」

 約二十回目の投棄とうきにより体を打ちつけた状態で狼月が尋ねてくる。息一つ乱れてなく、口調も全く変わっていない。

「まだ、まだ……」

 対するオレは息も上がり、体はボロボロ。勝敗なんてもう目に見えている。それでもオレは起き上がる。よろよろと、まるで生まれたての小鹿のような覚束おぼつかない両の足がなんとか地面を踏みしめた。

「兄さんっ。もう無理ですよ! やめてください!」

 桜華の泣きそうな声が聞こえた。しかしオレはその声を無視して走りだす。

「おおおおっ!」

 走りながら握り拳を作って力の限り、その拳を狼月めがけて放つ。しかし、その拳が届く前に狼月はそのまま上へと跳躍。拳は空を殴り、体が勢いに流されて前へと重心が傾く。まるでそこまで見越したかのように、跳躍していた狼月が勢いをつけて落下してきて、前足がオレの後頭部を押し付けて地面に叩きつけられる。

 顔面に激痛が走る。一瞬目の裏で星が煌めいて、次に鼻と額に燃えるような熱さと、痛みが伝わった。

「兄さんっ!」

 桜華が近づいてくる足音を聞こえてオレを起こしてくれた。なんだか鼻の辺りが湿っている気がしてる。触って見ると、気が遠くなるほど真っ赤な色が目に飛び込んできた。

「桜華。狗牙を連れて帰るぞ」

「え? でも手当てが」

「そんなもの後でも出来る」

 行くぞ、と歩き出す狼月。桜華は困ったようにオレと狼月を見比べた後、数秒沈黙して、

「ごめんなさい、兄さん」

 そう言って狼の姿へと戻った桜華がオレを背中に乗せた。ダメだ、このままじゃ……。オレは疲労と痛みで動かしたくない体を鞭打って何とか動かし、桜華の背中から転がり落ちる。

「あ、兄さん! 戻ってきてください!」

 桜華の声を背中に聞きながら、オレは壁に寄りかかって立ち上がり、後ろを振り向かずに逃げ出す。しかし、あれだけぼこぼこにされた状態で体力なんて残ってはなくて、追いつかれたらおしまいだ。

 それでもオレは壁を支えにして逃げる。端から見なくても無様にしか見えない光景だったが、それでもオレはその道を選んだ。

「お父さん、兄さんが!」

 後ろで桜華の慌て声が聞こえる。

「……もういい。行くぞ、桜華」

「え?」

 予想外の言葉に足が止まりそうになった。桜華も意外だったのか、少し声が裏返ってるようだった。

「そいつはもう我らと同じ真神ではない。人間に媚びて堕ちた一族の恥だ。お前ももうこいつと会うな」

「で、でも」

「帰るぞ」

「お父さん!」

「帰るぞ」

 二度も言わせるな。という圧を感じる声に桜華が言いかけた言葉を飲み込み、二つの跳躍音が聞こえた後、しん。と静まり返った世界が帰って来た。

 誰もいなくなった道を見て、オレはその場に座る。体全体が痛い、あちこち擦り傷だらけで服もよれよれのしわしわ。擦れた時の破れもあってもう捨てるしかないくらいボロボロにされている。顔も痛い。鼻は折れてはないけど、流れた鼻血が唇にもやって来て口の中が鉄の味で充満している。体も顔も痛い。それと同じくらい心も痛かった。

 どうして?

 オレの力が、覚悟が、何一つ狼月に届かなかったことが?

 完全に狼月に見限られたことが?

 最後の狼月の声がいつもより少しだけ声が弱くなっていたことか?

「わかんねえよ……」

 膝をくっつける様に曲げて、オレはその場で小さくなる。

 わかんねえ。

 わかんねえよ。ちくしょう……。

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