第7話『敵わない彼女』

 真神まかみが人間に化けないのには二つ理由がある。一つは単純に人間が嫌いだから。誰しも嫌いな物になろうだなんて思わない。もう一つは、人間では神性を保てなくなるから。オレ達真神は食事をしなくても、清らかな空気に含まれる神性を糧に生きていける。よくマイナスイオンとかパワースポットなんかで気持ちが落ち着く。と言うのはその神性のおかげなのだ。しかし、人間はそれを感じる力が低い。神性を糧にすることが呼吸と例えるなら、人間に化けることは、呼吸が満足に出来ない状態になることを意味している。常に酸欠一歩手前の状態になろうなんて物好きは普通存在しない。そう、普通なら。


 *****


「それで、あの子が例の子?」

 オレの部屋にあがった天楼さんは、勝手知ったる我が家のようにずかずかと歩き、いつもの所定地である窓のへりに足を組みながら腰掛ける。

「誰のことですか?」

「とぼけないでよ。狗牙が人間になってまで会いたかった女の子なんでしょ? 琴音ちゃん、だっけ?」

 オレは内心くそう。と後悔しながら、客受け用のコップにお茶を注いでいた。出来るなら彼女に琴音の事を知られたくなかった。実際この一年間、何とか天楼さんと琴音を引き合わせないように会う場所をずらしたり、琴音の姿を隠すように天楼さんの前に立ったりと努力をしたのだ。浮かれていた自分を殴りに行きたい。お前が浮かれてたせいで今までの努力が無駄になったんだぞ。と思い切り殴ってやりたい。

「……狗牙。もしかして、ずっと隠してたのにバレてしまった。オレの今までの努力が無駄になってしまった。って思ってるでしょ」

「え! な、そんなこと、ないですよ?」

「そんなあからさまな動揺したって無駄よ。私、知ってたわよ。アンタがここに来てからずっとあの子を見せないように立ち回ってたの」

「……マジっすか?」

「マジのマジ。大マジ」

 うん。と天楼さんは神妙に頷くと、すぐに小悪魔のような笑みへと変わり、

「甘いのよ、アンタは。私に隠せると思ったら大間違いなの」

 にっしっし。と笑う彼女にやっぱりオレは敵わないとため息をこぼした。

 天楼さんはオレと同じ『真神』だった。けれど、住処を追い出され一匹で生きている。その理由をオレは知らないが、みんながいうには昔仲間を食べた。とか強力な呪いや神通力を持ったから。人間の姿をした真神になったから。とたくさんの噂があって、どれが本当なのか分からない。

「神性の方はどう、苦しくない?」

「はい。おかげさまで」

 良かった。と頷き、オレから受け取ったお茶を一口傾ける。ただの安っぽいガラスコップに、安い麦茶を飲んでいるだけなのに、その姿はとても絵になった。ふぅ。と息を吐く横顔はまるで化粧品のポスターに抜擢されるくらい綺麗で、首筋のラインから見事な曲線が胸から腰まで描かれている。第二ボタンまで開かれたYシャツから除く肌色に、オレンジ色の光が差し込む影が湖を作っていた。真っ白の髪は蜂蜜を吸い込んだような色へと変わり、窓の縁からこぼれるように毛先が床に触れている。すらりとした足を組み替える度に、ちらりとタイトスカートからガーターが一瞬だけ顔を出し、何だか見てはいけない物を見てしまった気持ちになって、思わず顔を逸らしてしまう。

 やっぱり、天楼さんには敵わない。口を開けば人をおちょくったり、笑ったりするのに、時折こんな風にオレの身を案じて、自分のことのように安心してくれるのだ。

「たまに思うのよね」

 麦茶の入ったコップを軽く揺らしながら天楼さんは呟く。

「狗牙を人間にして良かったのかなってさ」

 まるで後悔を孕んだような言葉。それを裏付けるように、天楼さんの眉が少しだけ下がっていた。

 オレを人間にしてくれたのは、天楼さんだった。最も、完全の人間ではなく、人に極めて近い状態に化けさせ、神性の消費を極力抑えている。といった方が近い。

「狗牙も知ってるでしょ。真神と人間は共存できないって。お互いに深い溝があるのはもちろんだけど、生きてる時間も違うのよ?」

「そうですね。人間の一生なんてオレ達にとっては瞬きみたいな長さですし」

「それでも人間と共存しようなんて思うの?」

 続けての質問に、オレは頷く。

「人間のこと、大好きですから」

 オレの返答に、天楼さんはしばらく沈黙した後、小さなため息をこぼして、

「人間……じゃなくて、あの子が大好きなんでしょ?」

「あ、いや。それは……」

 狼狽えるオレを見て、天楼さんはふふっ。と笑う。

「やっぱりあんた、変わってるわね」

「天楼さんほどじゃないですよ。天楼さんも人間が好きだったんでしょ?」

 だって、そうでもなければ人間の姿を保つことなんて出来ない。オレの言葉に、天楼さんはしばらく黙った後、

「まぁそうね」

 と小さく頷いた。

「それより、話は戻るけど。あの子とはどこまで行ったのよ。もうキスまで済ませた? もちろん済ませたわよね?」

 グラスと窓の縁に置いて、得物を追い込む獣のようにじりじりと天楼さんが迫ってくる。思わずたじろぎ、後ろへ下がって距離を置き続けるも、すぐに壁に背中がぶつかって逃げ道がなくなってしまう。

「ほらほら、白状しなさいよ。どこまで進んだの?」

「え、えっと……」

 床についていた天楼さんの手がゆっくりとオレの腰から上へと登っていく。細くて白い指がくすぐったくて体がゾワゾワする。指は胸を通り過ぎ、首筋を伝い、アクセサリーのチョーカーを通って、顎でピタリと止まった。

「黙っちゃダメでしょ?」

 指をくい。と上へと動かすと、顎が簡単に上を向いた。オレを見下ろしている天楼さんと視線がバッチリあう状態になる。

「教えてくれないと、お仕置きしちゃうわよ?」

 蟲惑的な表情と、全身が甘い快感で震えるような声。こちらを見下ろしている天楼さんの瞳に吸い込まれているみたいで抜け出せない。逸らせない。体の力がゆっくりと抜けて緊張で張っていた筋が緩んでいく気がする。

 しかし、そんな天楼さんの動きがぴたり。と止まり、ゆっくりと整った綺麗な顔がオレから離れて明後日の方向へと動いた。オレも倣うように顔を動かす。向けた先は玄関で、そこには何故か少しだけ開いた鉄製のドアからこちらを窺う女の子の顔がちらりと見えた。

 ……誰だ? 

 敵意をふんだんに籠めた視線がこちらに突き刺さる。が、それはどうやらオレではなくて、何故か天楼さんの方に向けられていた。天楼さんの知り合いだろうか。と首を傾げるオレを他所に、天楼さんは全てを知ってるかのような余裕の笑み浮かべる。

「残念。今日は帰らないとまずそうね」

 はぁ。とため息をこぼして、天楼さんの指がオレの顎から離れる。

「え?」

「また近いうちに来るわ。その時には聞かせてもらうわよ」

 状況についていけないオレを置いて、天楼さんは立ち上がって、スタスタと玄関の方へと歩いていく。ピカピカのハイヒールを履いて、ギィ。と扉を開けると、こちらを覗いていた女の子の姿が露わになった。

 歳は中学生くらいだろうか。首までかかった髪の色は薄いピンク色で頭には大きなベレー帽を被っていて頭頂部は完全に隠れていた。可愛い顔立ちは不機嫌そうに歪んでおり、頬を膨らませ、くりっとした目は眉間に皺が出来るほど天楼さんを睨んでいる。けれど、天楼さんはそんな少女とは対照的に友好的な笑顔だけ返して帰っていった。

 カンカン。とヒールが階段を降りていく音が遠くなり、やがて聞こえなくなると、その少女の標的が天楼さんからオレへと変わる。

「う……」

 真正面から見てもやっぱり可愛い顔をしていた。怒っているのが勿体ないと思うほどだ。黄色い瞳とか、トパーズみたいで綺麗だし、髪だって手入れがよく行き届いているのか、さらさらで時折風が吹くと揺れるように靡いていた。

「えっと……。誰かな?」

 オレにこんな幼い子の知り合いなんていないし。もしかして隣の人の子供かなと思ったけれど、オレの隣の部屋は、一人暮らしの大学生だったのを思い出してその考えを消した。

 少女の視線が一層強くなり、怒りが孕んでいるのをびしびしと感じる。もし視線に質量があったとしたら、確実にぐさりと深くまで突き刺さるだろう視線を受けて誰なのかと考えていると、

「――さんの――カ」

 少女が顔を俯けて呟く。

「え? 何か言った?」

「兄さんの、バカぁぁぁぁ!」

 叫び声と同時に、少女がその場からロケットのように真っ直ぐ飛んでくる。飛ぶ最中、少女の体が光に包まれ、小さな体躯が見覚えのあるフォルムへと変わり、どしん。と重い衝撃を受け止めきれず、そのまま後ろへ押し倒される。

「お、桜華!? 何で人間の姿になってたんだよ」

「兄さんが言ったんじゃないですか! 今度狼の姿で来たら、一生口きいてやらないからって。だから私、イヤだったけど人間に化けて来たんですよ」

 あぁ、確かに言ったな。そんなこと。

「それなのに兄さんは全く気付かないなんて……」

「ご、ごめん……」

「今日は兄さんが帰ってきたのを確認してきたのに……」

「ごめん……」

「ちゃんと兄さんの頼みどおり飛び掛って嘗め回してないのに、彼女には許してるんですか」

「ごめん……いや、許してないから」

 流れ的に謝ったけど、そこだけは譲れずに否定を入れた。

「胸ですか。人間の胸に弱いんですか? あの二つの無駄にでかい脂肪に弱いんですか!」

「誤解だ! あれは天楼さんが勝手に迫ってきただけで」

「もういいです! 兄さんのいう事なんて聞きませんから!」

「うわ、やめろ、桜華。やめろって!」

「いやです! 止めません! というか兄さんの言う事なんて聞きませんから」

 オレの制止を無視して、桜華がオレの体を舐め始める。ザラザラした舌触りを顔全体に感じながら顔のいたるところがべたべたになっていく。振りほどこうとしてもやっぱり人間の姿であるオレが狼を振りほどける事はできなくて、結局、桜華が満足するまでオレはその場で舐められ続けるのだった。

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