第5話『それが初めての気持ちだった』
オレ達『真神』は人間に対して良い感情なんて欠片も持ち合わせていない。そりゃ当然だ。勝手に神だのなんだのと持ち上げたかと思えば、害になると分かった途端、例外なく殺戮の限りを尽くされたのだ。こちらからしてみれば人間の勝手さに振り回されただけでしかない。けれど、オレ達は人間に復讐しようなんてこれっぽちも思わなかった。中には人間達に同じ恐怖を味合わせるべきだと叫ぶ同胞もいた。けれど、それをオレ達の長である『真神』はこう言ったのだ。
『人間に関わるからあの歴史が生まれた。ならば人間とは関わるべきではない。奴等は遠くない未来、勝手に滅んでいくのだから。我等はそれを遠くから観賞し、嘲笑すればいい』
その言葉に仲間達は賛同した。人間は馬鹿だ。愚劣だ。
オレもまた、その中の一匹だったわけだ。
神性を得た狼だったけど、その時のオレはまだまだ子どもで周りの狼に育てられていたから、刷り込み。というか、そういった一種の洗脳教育を受けていたのだ。
人間は愚劣。
人間は大愚。
人間と関わってはいけない。
だから、オレ達が住んでいる山奥から外へ出ることは基本禁じられていた。山の外には人間がたくさんいる、そんな奴等と関わるだけで神性が
しかし、当時のオレは結構やんちゃで好奇心旺盛でもあったのだ。有り余った神性パワーとやらを発散するように山の中をひたすら走り回ったりもしたし、大木なんかも爪で引っ掻きまくって折ったりしたこともあった。何をやってもやっても底をつかない好奇心と力は止むことなくオレの体を駆け巡り、次第に山の中だけでは解消することが出来なくなった。
……まあ要するに飽きたのだ。
山を駆け回っても見える景色は一緒だし、木を倒したら後でメチャクチャ怒られるし。そうなってくると、オレの溜まりに溜まって発散されないでいる好奇心が山の外へ向けられるのは当然の流れだった。もちろん、人間と関わる危険性もある。だけど、当時のオレにとって、その危険性はむしろ、好奇心を刺激する絶妙なスパイスとなっただけだった。
そしてオレは周りの目を盗んで山を降りた。みんなが寝静まった夜で、煌々と輝く月が昇っていたのを今でも覚えている。
緑だらけの世界を抜けて、オレはまだ知らない世界を見るんだ。そう思うだけで、好奇心と心臓がリンクしたようにばくばくと大きくなり、山を駆け下りるスピードは速くなる。速く、速くと気持ちが自然と急かされ、走るスピードも比例して上がっていく。もっと、もっと、もっともっと。ただ前だけを見て、山を降りていた。が、それが一番マズかった。そう、オレは前を見すぎていたのだ。
多分結構のスピードだったと思う。風が強くオレの顔に当たって気持ちよかったし、むしろ風になったかのような感じもした。だから、全く気づかなかったのだ。オレの進む前方に道がなく、急斜面になっていたことに。
え? と不思議に思った時にはもうオレの体は宙に浮いており、そのまま斜面を転がるようにして落下。天地がひっくり返ったり戻ったりを延々と繰り返しながら体の至る所に痛みが走る。何分、いや何十分転がされ続けたオレの体にトドメを刺すように何かがグサリと突き刺さった。
「うぐっ」
回転し続けた体が止まり、揺れていた視界が痛みによって焦点を得ていく。
薄ぼんやりとした月の光に照らされて、オレの体には細長い赤茶色の鉄パイプが腹に突き刺さっていた。身じろぎするけれど痛みで簡単には抜けない。腹からじんわりとした痛みが広がり、それと同時に虚脱感がオレを襲う。
それを堪えるようにオレは何とか、刺さったパイプから抜けるように体を動かし、地面に倒れ込む。
よろよろと起き上がり、辺りを見渡す。さっきまで緑の景色だったものは、がらりと変わり、そこにあるのは古びた鉄が無造作に捨てられている荒れ地だった。それを見た瞬間、あぁ。なんて人間は愚かなんだろうと思ってしまった。
自分で作った物を自分たちで処理できず、こうして捨て去り知らん顔して生きている。それはオレ達も同じだった。人間に祭り上げられるために神様という立場を作られ、あっさり捨てられた。なんて愚かで愚劣で愚物なんだ。
「うぐ……」
痛みが思い出したかのようにオレの体を刺激する。神性によって長寿を得た『真神』にとって、怪我なんて無縁の存在だ。どれだけ高いところから落ちようが、木の枝が突き刺さろうが、岩に押しつぶされようがすぐに治るし、それで死ぬ。なんてことにはならない。しかし、人が作り出したものに関してだけは例外だった。神性を否定するように作られた人間の創造物で傷つけられた場合、
鉄パイプが刺さったところから、どろどろと体の中のものが溶け落ちているような感覚に襲われる。どろどろ、どろどろと流れていく。
これ、さすがにヤバいかも……。
ふらつく足で何処へ行くのかも分からず歩く。山へ帰ろうにもここがどこかも分からない。足がもつれてその場に倒れる。
「くっ……」
起き上がろうと力を込めるけれど、起き上がろうという気力すら湧かなくなっていた。
死。という文字が浮かんだ。もしここで目を閉じてしまえばオレはそのまま目を覚まさないんだろうなぁ。なんてことを考える。あ、『真神』に死はなくて消滅なんだっけ。確かそんなことを周りの奴等が言ってたな。なんてことも考えていると、ゆっくりと視界の上から闇の帳が降りてきた。
あぁこんなにも呆気ない終わりだったのか。こんな人間の作ったもので終わるなんてな。と皮肉に笑いたかったけれど、もう笑う力も残ってなくて、オレは静かに、闇の帳の中へと落ちていったのだった。
*****
消滅。というのは一体どういう感じなのだろうか。
存在していたものがぽっかりとなくなる。というのは分かるんだけど、ならば今オレが思っていることの行き先は何処になるのだろう。気づかないうちに、それこそ弱々しい火が消える時のように、ふっ。と突然終わるのだろうか。それとも、延々と同じことを考え続け、それが世界の一つのように疑うことなく思い続けることになるのだろうか。
そんな解決の出口がないことを考えながら、オレの意識は未だに落ち続けている。
死んだ時、魂は上へと昇っていくのに対して、消滅は下へと落ちていくんだ。そしてこのまま、どんどん沈んでいき、這い上がれないほど深くまで落ちて消えていくのだ。そう思いながら流れに身を任せていたら、
「――ぇ――ん」
静かな世界に突然波紋が広がった。
「ね――。わ……ちゃ――」
声は休むことなく降り続け、波紋が伝播して大きくなっていく。体が小刻みに揺れて、気づけばオレはゆっくりと目を開けていた。
「あ、おきた、おきた」
まず視界に入ったのは、真っ青に染まった空と人間だった。幼い顔で背も小さいのですぐに子どもだと分かった。茶色い柔らかそうな髪に、真っ黒い大きな瞳は垂れており、のろまで鈍くさそうな感じ。羊みたいなやつだな。と思った。髪のふわふわとした感じが尚更そう思わせるのだろう。
「ワンちゃーん。どうしてそんな所で寝ているの?」
つんつん。とオレの体をつついてくる。もちろん痛みはない。どちらかというとくすぐったい。よくは分からないが、どうやらオレはまだ消滅まで至ってはいないらしく、ただこの場で一夜を過ごしただけらしい。だからといって痛みがなくなったわけでもなく、依然刺されたところからはどくどくと血が流れるような痛みが続いている。
「ねー。わんちゃん。ねーえ」
動かないオレを子どもは不思議そうにつつき続ける。それが非常に不快で、だけど足一つ満足に動かせないオレは、子どもを強く睨みつけ、
「触るな、人間め……」
オレの声に、子どもの動きがピタリと止まり、驚いたように目を見開いた。よし、これでこの子どもも何処かへ行ってくれるだろう。と思ったのだが、
「うわー! ワンちゃんがしゃべってるー」
開かれた瞳は爛々と輝かせ、遠くへ行くどころか、さらに近づいてきた。
「すごいすごーい! ワンちゃんがしゃべったー」
もういっかい。もういっかい。と、今度は前足を上下に振り始める子ども。さっきよりも不快な気持ちがどんどん溜まっていく。積み重なるようにのし掛かった不快感はやがて大きな怒りにまで進化し、
「食い殺されたいのか! この
牙を見せるように大きく口を開け吠える。その声量の大きさに子どもはぽかんとマヌケそうな顔をして固まった。怒号一つで動きを止めるなんて人間の肝はなんて脆弱なんだろうか。早く前足を掴んでいる手を離せと脅すように引き続き子どもを睨んでいると、奴はゆっくりと首を傾げてこちらを見ていた。
「たい……ぐ? ちがうよ。私、そんな名前じゃないよ」
全くオレの咆哮に驚いている様子もなく、見つめてくる子どもに驚きを隠せなかった。
なんで怖がらないんだよ。どうして泣き叫ばないんだよ。そんな疑問が頭をよぎり、そして、ずきん。と先ほどより強い痛みが全身を駆け抜け、痛みを紛らわすように体を丸くするように動かす。
「ワンちゃん、大丈夫? どこか痛いの?」
心配そうな表情でオレを見る子ども。その対応が、またオレの中の疑問の一つに加わって頭の中でぐるぐると回っている。
「お前……怖くないのか?」
気付けばオレはそんなことを聞いていた。明らかに自分よりも大きな体と、鋭い牙を持った獣が目の前にいるというのに、どうしてそんな泣きそうな顔で近づけるのか。人間の子どもは、ふるふると何度も首を横に振って、
「だって、ワンちゃん辛そうだもん。ここ、痛いの?」
そう言ってそっと、パイプに刺された場所に手を置かれた。刺すような痛みに顔をしかめると、
「いたいの、いたいの、とんでけー」
傷ついた場所をさするように撫でて、その手を上にあげる。
「なに、してんだよ……」
「おまじない。こうやったら痛いのなくなるの。おじいちゃんやお母さんが私によくしてくれるの」
説明しながらも、彼女は何度も同じように傷をさすっては上へと手をあげる。薬を塗るのでも、傷を縫合するわけでもないその不思議な儀式だったが、どういうことか、さっきよりも痛みが引いてきた気がした。気のせいだと思った。でも、時間が経つにつれて、全身を蝕んでいた痛みが引き潮のように小さくなっていき、次第にその痛みすらも感じなくなった。地面を踏みしめることすらできなかったはずの力が戻ってきて、オレはゆっくりと地面に爪を立てて起き上がる。
「ワンちゃん、もう大丈夫なの?」
「……あぁ。全然痛くない」
確かめるように体のあちこちを動かしてみる。どこも痛みを訴える場所はなく、ここへ来る前の状態に戻ったようだった。
「でもどうしてだ……」
死にそうだった傷と痛みが嘘みたいになくなるなんて、あり得ないはずなのに。そんな疑問に頭を傾けていると、
「よかったぁ。ワンちゃんが無事で」
は~。と、大きな息をこぼして子どもが安心する笑みをこぼす。その表情にオレはもしかして。と一つの答えが浮かんだ。
神とは信仰心。崇められたり、敬われたりすることでその存在を維持できる。それは大事にされたりしても同じらしく。この子の、オレを助けたい気持ちが、どうやら信仰心と捉えられたらしく、オレの傷を癒やしたのだ。
まさか、オレが人間に救われるなんてな……。仲間に知られたらなんて言われるだろうかと思わず苦笑いが浮かぶ。
「ワンちゃん、笑ったね」
えへへ。と彼女が笑う。垂れ下がった目と大きく開いた口。その眩しいほど優しい笑顔に、思わずドキン。と心臓が高鳴った。なんだ、今の音。
「ワンちゃんじゃねえよ。オレは真神の狗牙だ」
先ほどの音の正体を突き止めるのをやめて、オレはぽん。と子どもの上に前足を乗せる。
「まかみ? ……こうが?」
「そうだ。すごい神様なんだぞ。ワンちゃんなんて呼びかたするんじゃないぞ」
オレの言葉に、彼女はうーん。とよく分かってなさそうな難しい顔をして、
「じゃあ、こーちゃんだね」
「こ、こーちゃん?」
「こうがだから、こーちゃん」
開いた口がふさがらないとはこういうことを言うのだろうか。自信満々にそう言った子どもに、オレはしばらくぽかんとした後、体の奥底から何だか暖かいものが、むくむくと、膨らむように大きくなって、そして、オレは気づけば大きな声で笑っていた。
「狗牙だからこーちゃんって、お前、変わった奴だな」
涙が出るほど笑うオレに、彼女もまたえへへ。と笑い、二人の笑い声が重なって山の麓を包んだ。
「お前、名前はなんて言うんだ?」
しばらく笑い続けて、はぁはぁ。と乱れた息を整えながら聞いたオレに、子どもはにっこりと笑みを見せて、
「私、未谷琴音だよ。ねぇ、一緒に遊ぼ。こーちゃん」
まるで太陽が弾けたような笑みと共に差し出されたその手をオレは迷うことなくとった。
人間に関わると穢れてしまうという言葉なんてもう頭から消えてしまっていた。ただこの人間と遊びたい。一緒にいたい。その気持ちだけしかなかったのだ。
これがオレと琴音が初めての出会いで、そしてオレが琴音に恋をした瞬間だった。
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