第4話『私のお家は貴方の胸の中』


 オレの家は琴音の家とは反対側で、校外の住宅街にあるアパートの一室だ。家賃は安く、1Kで和室の8畳。バスとトイレ、洗面台が独立してるのはありがたい。

 カンカンとサビの入った階段を昇って、一番奥にある部屋へと入る。

「ただいま」

 誰もいないのに自然とこぼれる言葉を呟きながら扉を閉める。しゃがんで靴を脱いでから、まっすぐ続く廊下を歩き、和室の入口にある電気のスイッチに手をかけたところで何かがオレの部屋にいる気配を感じた。一人暮らしをしていて誰もいないはずの部屋に感じる、何か。スイッチに手をかけたまま、ゆっくりと顔を部屋の中へと向ける。

 カーテンのない窓から蜂蜜のようなオレンジ色が畳を浸している部屋の中央に、それはいた。


 そこにいたのは、一匹の狼だった。


 目を引く桜色の毛並み。中型犬より少し小さめで、部屋の真ん中に我が物顔で居座っていた。

 オレがその存在に気付くのと同時にあちらも気づいたようで、狼の体がゆっくりと動き始める。一歩、一歩と畳を踏みしめながら桜色の狼はオレを見つめたまま迫ってくる。鋭い瞳は金色の輝きが宿っており、思わず見惚れてしまう美しさにオレは動けずにいた。

 その間にも狼はオレとの距離を詰め、そして、次の瞬間、その距離を一気に縮めるように狼が畳みに爪を立てて跳躍してきた。見事なフォームで弧を描きながら狼の顔が迫ってくる。

「うわっ!」

 その行動を受け止めれず、飛び掛ってきた狼に押し倒されてしまった。どすん。という音と共に、近くにあった机が揺れ、プラスチックのコップがカタンと畳の上へと落ちる。

 覆いかぶさる狼を見上げると、白く輝く牙に目がいく。どんな肉でも簡単に引き裂くような強靭きょうじんな牙。もし噛み付かれたものなら大怪我だけじゃすまないことは見ただけで分かってしまう。

 狼がゆっくりと口を開く。綺麗に並んだ凶悪な牙が見えてオレはごくりと唾を飲む。しばらくオレと狼のにらみ合いが続いたかと思うと、狼がその顔を勢いよくこちらに近づけて――

「兄さああああん!」

 はっきりと聞き取れる高い声と共に、思い切りオレの顔を嘗め回してきた。

「ちょ、ちょっと、待て、おい、ちょっと!」

 べろべろと舐められて、言葉が上手く繋がらない。ざらざらとした感触と、ねっとりとした粘り気が気持ち悪くて、止めさせようとしても人間のオレの力では狼の力には到底勝てなかった。それでもなんとか止めようと、オレは舐め回している狼の口をがっしりと掴んで、

「落ち着け、桜華おうか! 落ち着け! ハウス! ハウス!」

「嫌です! 私の家は兄さんの胸です!」

「何わけのわかんねぇこと言ってんだよ!」

 とても流暢な日本語を口にしながら、オレの顔を嘗め回し続けているの桜華を押さえ込もうとするオレの力は全く及ばなくて、一時間は舐められ続けていたのだった。

「それで、落ち着いたか?」

 舐められ続け、唾液でべとべとになった顔を拭くオレに、桜華はしゅんと反省するように縮こまっていた。

「……はい。ごめんなさい、兄さん」

 と申し訳なさそうに頷いた。オレより少し大きな体をしていたけれど、その姿は飼い主に叱られた犬にしか見えなくて、狼の威厳なんて全く感じられなかった。

「別に怒ってはないけど毎回帰った直後に飛び乗られて嘗め回すのはやめてくれ。オレは見ての通りか弱い人間なんだから」

 タオルで顔を拭き終えたオレに、桜華はまたごめんなさい。と小さくこぼす。

「でも、心配だったんです。兄さんが人間の世界で生きていけるのかが」

「心配すんなって。これでも一年間は生きてきたんだぞ。それに、ほぼ毎日桜華だってオレの様子を見に来てくれるじゃないか」

 安心させるように言うけれど、桜華はでも。と食い下がってくる。

「やっぱり人間になった兄さんが心配なんです」

「だから大丈夫だって。今のオレはなんだからさ」

 不安そうな表情で訴える桜華の頭を優しく撫でる。桜色の毛並みは思ったより柔らかくて触り心地が良かった。

「それより桜華。お前、最近その姿で帰ってるだろ」

 びくり。と撫でていた桜華の頭が揺れる。

「な、何のことですか? 私にはよく分からない話ですね……」

「嘘つけ! 思いっきり動揺してるじゃねぇか!」

「……やっぱり、私は兄さんが心配なんです!」

「話を戻すな! その話はもう終わっただろ!」

 桜華は目を泳がせており、必死にオレと目をあわせようとはしなかった。しかしオレはばっちりと彼女の鋭い目を見つめる。しばらくの沈黙が部屋を包む。アパートの外では車の排気音が鮮明に聞こえる。桜華は未だに沈黙を貫いている。

「…………だって、疲れるんですもん」

 絞り出すように答えた頃には、カップラーメンが出来るくらいの時間だった。開き直ったのか泳がせていた目をこちらに向けてその表情は若干怒り気味につり上がっていた。

「兄さんも知ってるじゃないですか。が人間になるのってすごく大変なんですよ」

「まぁ知ってるけどさ……。お前の姿を見かけたって噂が最近多いんだよ。もう少し気をつけないと――」

 言葉を最後まで続ける前に、桜華の巨体がオレの目の前に飛び込んできて、ずっしりと押しつぶされた。

「嬉しいです! 兄さん、私のことを心配してくれてるんですね! 私の姿を他の人間に見られたくない。っていう事なんですね! もう、兄さんったらそんな恥ずかしいこと言わないでくださいよ」

 恥ずかしさを隠すのと、嬉しさを表すようにぺろぺろと桜華が再びオレの顔を舐めてくる。ざらざらとした彼女の舌がまるでオレの皮膚を削ぐようで普通に痛い。

「そうじゃなくて、ちょっと、だからやめろって、やめろ桜華! ハウス、ハウス!」

「やっぱり私のお家は兄さんの胸なんですよ!」

「だから、意味わかんねぇこと言うなっての!」

 好物を貪る犬のように暴走している桜華を止めようとしたけれど、やっぱり人間に化けている今のオレではである彼女を止める程の力は持っていなかった。


*****


 ニホンオオカミ。

 イヌ科。イヌ属。体調は95から114センチ。その歴史は縄文時代からあり、縄文犬と呼ばれて猟犬の役割もしたらしい。他にも畑から猪や鹿を退治してくれる事から守り神として祀られることもあり、『オイヌさま』『真神まかみ』『大口真神おおかみまかみ』と呼ばれてたりもしていた。しかし、1732年から狂犬病を持っているということで害獣とみなされ数多くのニホンオオカミは殺された。他にも様々な要因が重なり、1905年の1月23日に彼らは絶滅した。

 というのが、人間が残しているニホンオオカミの歴史だ。だけど実際はそうではなく、ニホンオオカミはまだ生きている。『オイヌさま』『真神』と呼んで神格化しているこの桜木町で神性と永劫の命を得て。人間が足を踏み入れることのない山奥でひっそりと生きている。オレ、大和狗牙やまとこうがもまたその仲間の一匹なのだった。


「じゃあ、ちゃんと人型になって帰れよ」

 時間はもう夜の八時を過ぎた頃。部屋を蜂蜜色に染めていた夕日はとっくの昔に消え去って、安っぽい電灯の光が代わりに部屋を照らしていた。

「えー……」

「えー。じゃねえよ」

 明らかに不満を全面に押し出している桜華の頭を軽く叩いてやる。もふ。とした柔らかさがオレの手に包まれた。

「あ、兄さん」

 桜華が何かを思い出したように顔をこちらへと向ける。

「お父さ――狼月さんに何か伝えとくこととかありますか?」

「ねぇよ」

 自分でも驚くほど低い声が出た。自然と眉根が寄る感じもして、そんなオレを見て桜華が小さくため息をこぼした。

「まだ怒ってるんですか?」

「怒ってる……というか、そもそもオレは、もうあそこを出ていった身だから……」

 狼というのは仲間意識が強い。狩りにおいては相手がどれだけ大きかろうと群れで追い詰め、確実に獲物を捕まえる。それは神性を得た『真神』になってもその意識は変わらない。

 その世界から出て行ったオレから伝えることなんて何一つない。

「兄さん……。やっぱり戻りませんか?」

 おずおずといった感じで桜華がオレを見る。トパーズのような黄色の二つの宝石は、どこか不安そうな弱々しさを宿していた。それを見ただけで、罪悪感がチクリとした痛みとなってオレの胸を刺す。

「わりぃ。それは無理だわ」

 苦笑いと一緒に申し訳なさそうに答える。桜華の二つの宝石が少しだけ潤みをおびたように揺れた気がした。

「ホントに好きなんですね……人間のことが」

「まぁ……な」

 ぽっ。とあいつの屈託のない笑顔が頭に浮かんだのが何だか恥ずかしくて。思わず頬を掻きながら桜華から視線を逸らす。

「まぁ、私には人間の魅力なんて、ぜんっっっっっっっぜん! 分かりませんけど!」

 メチャクチャ溜めて力強く否定して桜華は窓を器用に前足で開けて勢いよく外へと飛び出していった。

「あっ! おい桜華! ちゃんと人型になって帰れって言ってるだろ!」

 ワンテンポ遅れて気づいたオレだったが、桜華は近くの家の屋根から屋根へと見事な跳躍を決めながらその姿を徐々に徐々に小さくしていった。

「今度その姿で来たら、一生口きいてやらないからな!」

 悔し紛れに思いっきり叫んでやるけれど、桜華に届いたのかすらも分からず、何事かと窓を開けてくる人達に気づいて急いでオレは窓を閉めたのだった。

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