僕はただ追いかける

まりる*まりら

僕はただ追いかける

「あのう、よろしかったら詳しくご案内しましょうか?」

 いきなり声をかけられたので、僕は飛び上がるほど驚いた。まあ実際には飛び上がったりはしない。そんな人がいたら見てみたい。

「すいませんっ、驚かせてしまって」

 振り返った先にいたのは小柄な女性だった。制服を着ているから、この博物館の職員だろう。にしても、若い。学生のアルバイトなのかもしれない。

「あ、えっと……?」

 僕が戸惑っていると、彼女はにっこり笑った。

「私、当館の案内係をしております、重倉と申します」

 と言って、首からぶら下げたカードに手を添えた。

「お客様があまり熱心にご覧になっているので、興味がおありなのかと思いましてお声がけしたのですが、こちらの展示についてご説明いたしましょうか」


 それは、ひとつの小さな絵だった。

 開いて置かれた分厚い冊子の、右隅に描かれている。

 女性。

 芸術的な絵ではない。何百年も前の茶色くなった紙に、簡単な墨の線で描いてある。素人目にもたどたどしい筆致だとわかる。

 ただ、絵の横に書かれた筆跡はすばらしく美しかった。芸術的すぎて、何が書いてあるのかさっぱりわからない。

 それは日記ということだ。この地方の有力者だった家の者が、毎日の出来事を書き記している。つまりメインは記述の方で、絵はただのカットのようなものだ。

 しかし、僕にとって重要なのは、絵の方だ。


 僕が返事をしないでいると、重倉さんは勝手に話し始めた。

「これは河原家日記と呼ばれるもので、江戸時代のものです。河原家はこの辺りの村を取り仕切っていた庄屋なのですが、確認できる限りでは1700年頃から1800年の半ばまでの記録が日記として残っています。全体では103冊にもなるんですよ。展示してあるのは、そのうちの5冊だけですけど」

 そんなことは、どうでもいいんだ。というか、その情報は展示の説明書きにすべて書いてある。

 僕が知りたいのは。

「これ。この女性」

「はい?」

 重倉さんは、僕が指さしたのを見て、ようやくその意味がわかったようだ。

「ああ、ええと……」

「この文章には、なんて書いてあるんです?」

 重倉さんが軽く頭を傾ける。

「さあ……なんて書いてあるんでしょうね」

「あなた、読めないの?」

「はい。私には読めません」

 えへへ、と彼女は笑った……


「こちら、古文書の担当の者です!」

 重倉さんは意気揚々とそう告げた。そのまま回れ右をして行ってしまった。彼女の役目はこれで終わりということか。

「ええと、どの文章でしょうか」

 白髪交じりのその人は、ひたすら真面目そうで感情が読み取れなかった。

「これです。この女性について、なんて書いてあるんですか?」

「河原家日記ですか」

 その人は、しばらく文字を見つめていた。

「……身なりなどが奇妙な女性だと書いてあります。橋付村という村の者が連れてきて、しばらくの間、河原家に滞在していたようですね」

「奇妙」

「ええ。書いてあるのは、それくらいです」

「たったそれだけ? なのに、絵まで描いた?」

「……そうですね。そういうことになります」

 その人は、頭を少し傾けて考えた。それはさっきの重倉さんとまったく同じ姿勢だったけれど、たぶんそこに流れている情報は質が違うだろう。

 僕は期待して待った。

「……羽衣伝説をご存じですか?」

 と、その人は言った。

 僕は嬉しくなった。

「ええ、大体のところは」

「この河原家のあった地域の一帯には、昔話として、そのような話が伝承されています。これは私の推測になりますが、河原家日記に書かれたこの出来事が、元からある羽衣伝説と融合して伝承されている可能性があるのではないかと」

「羽衣伝説……天女か……」

「そうですね。この絵の女性は、天女かもしれませんね」

 感情の読み取れない顔で、その人は言った。そして、懐から名刺を取り出した。

「河原家のある町にも、ここより規模は小さいですが博物館があります。地元の昔話のことならそこでわかります」

 僕は名刺を受け取った。

 重倉さん。

 その人はにっこりと笑った。さっきの彼女と同じ顔をしていた。


 僕は小さな町に来た。

 駅前でタクシーも拾えないような田舎の町だ。山があって、たんぼがある。空が広い。

 無人駅の前に小さな商店がある。

 博物館へ行く道をきくために、その店に入った。

「歩くかね」

 と、老人は驚いたように言った。

「そんなに遠いですか?」

「さあー、どれくらいかかるもんかなあ。30分か1時間か。普通は車で行くもんで」

「まあ、行ってみます」

 酔狂なものを見た、という目で見送られた。

 実際、その通りだ。

 僕ほど酔狂な人間もいないだろう。

 たった1時間くらいなんということはない。これまで、どれほどの時間をかけてきたことか。

 彼女に会うために。


 規模は小さいと言われていたが、田んぼの中に建つのは立派な建物だった。箱物行政はこんなに小さな町にもしっかりと根付いている。いや、田舎だからこそなのかもしれない。

 建物は立派だが、見学者の姿はない。

 受付にも誰もいない。ベルを押して人を呼ぶシステムだった。

 奥からくたびれた作業服を着た初老の男性が出てきた。

 僕はチケットを買って、重倉さんの名刺を見せた。

「ああ、はいはい。重倉さんね。聞いてます。書庫にご案内しましょうか? それとも展示を見てからにしますか?」

「羽衣伝説的な展示はあるんですか?」

「うーんと、一応、地元の昔話を集めたコーナーっていうのがありますんで、その中にもありますね」

 作業服を着ているから施設の設備の人かと思ったが、展示の内容をちゃんと把握している。学芸員のようだ。

 僕は展示を一通り見て回ることにした。

「じゃあ、後でまた声をかけてください」

 彼はついてこない。説明が好きじゃない人のようだ。

 僕は順路の矢印をたどった。


 矢尻や土器の破片、住居跡の写真や想像図や、ジオラマや人形を使った生活シーンの再現やら、そんなものを展示した部屋を通り抜けると、ガラスケースが現れた。さまざまな古文書が展示してある。

 例の河原家日記はここにもあった。このコーナーのメインの展示のようだ。ただし、天女の部分はあっちの博物館にあるから、僕にはもう用がない。

 次の部屋には、もう少し新しい時代のものが展示してあった。生活や仕事で実際に使われた道具などで、ここでも河原家の持ち物がたくさん展示してあった。

 さらに時代が進んで、現代になった。地場産業や名産品の紹介。昔話のコーナーはその一角にあった。


 昔、橋付村にひとりの天女が現れた。

 山仕事のために一人で山に入った次助という男が、山中で天女に会った。天女は道に迷ったと言い、次助に助けを請うた。

 次助は用心深い性格で、見知らぬ人間に容易に関わったりはしないのだが、天女のあまりの美しさに我を失って村まで連れ帰った。

 天女は、鈴が鳴るような清らかな声で、美しい長い髪と滑らかな白い肌を持っていた。

 村へ連れてきたものの、次助は途方に暮れてしまった。天女を招くのに相応しい家が、橋付村にはない。

 村の年寄りに相談すると、庄屋の河原家に頼めばいいのではないかということになった。

 河原家は、橋付村を含む近隣の五つの村を束ねる大庄屋だった。天女は河原家に迎えられることになり、大層なもてなしを受けた。

 天女は毎日気の向くままに歩き回ったり、人と会ったりなどして、愉快に暮らしていたという。だが、次第にふさぎこむようになった。

 理由を聞いた当主に、そろそろ戻らなければいけない、と天女は言った。

 ある日、天女は橋付村の次助の元へやってきた。

 目を白黒する次助に向かって、天女は助けてもらったお礼を言った。

 そして、もうひとつだけ願いをきいてもらえないかと言う。村の端に一本の木を植えて欲しいというものだった。それはいずれ大木になって村を守るからと。

 次助は必ず守ると約束をした。

 すると天女は次助に髪飾りの玉をひとつ渡した。そのまま山へ入り、天へ戻っていった。

 次助は約束通りに村の端に桂の木を植えた。そしてもらった玉を売って、その木のそばに祠を建てた。

 木があり続けるかぎり村は大きな災いに合うことなく、安泰なのだという。


 これが物語のあらましだった。

 いかにも地方の昔話らしい、特にクライマックスもカタルシスもない話だ。

 展示室を出て、最初の受付に戻った。

 学芸員のおじさんは、手に鍵を持って廊下で待っていた。

「あ、どうも」

「では書庫にご案内しましょう」

 このおじさんは愛想が良いわけではないのだが、何事にも無駄がなく、感じが良かった。

「羽衣伝説を調べていらっしゃるんですか」

 と、おじさんが言う。

「ええ、まあ」

 僕は曖昧にこたえた。

「地元の学生さんもね、毎年何人か来るんですよ。ここの昔話は、昔話とはいえ、比較的新しいので珍しいんです」

「時代ははっきりわかっているんですか?」

「すいません、私は専門じゃないので。でも、そういうことも含めていろいろ資料はあります。これまで研究された学生さんたちの論文もありますから、御覧になってみてください」

 ラッキーかもしれない。ここで詳しいことまでわかれば好都合だ。

 おじさんは書庫のドアを開けた。ぷん、と濃厚な古い書籍の匂い。

 壁のスイッチを入れると、スチール棚が整然と並んでいる。思ったよりも広い。

「閉館は17時です。こちらの棚は自由に見ていただいて構いません。終わったら下でまた声をかけてください」

「ありがとうございます」

 バタン、とドアが閉まる。

 誰もいないが、そこここに人の気配があった。ちゃんとした意思を持って管理されているからだ。

 番号を見ながら該当しそうな棚を探す。

 彼女に近づいている。

 僕は鼻歌をうたいたいくらいだ。

 日記を書いた河原家の人にも、昔話を編んだ人にも、学生さんにも、重倉さん親子にもおじさんにも感謝したい。

 みんなみんなありがとう。



 さて。

 山の上にいる。

 思ったよりも時間がかかってしまった。正確な日時を特定するには、やはりそれなりに時間がかかるものだ。しょうがない。

 僕は辺りを眺めた。

 深い山ではない。山の裾には田んぼや畑があって、ぽつぽつと集落が見える。麓の村からは、細い煙が幾筋も立ち上っていた。のどかな農村風景だ。

 ガサガサと音する。近づいてくる。

 僕は拳を口に当てた。思わず声を上げないように。

 ガサガサ。ガサガサ。

 来る。

 彼女が。

 目を丸くしている。

 そして、笑う。

「見つけた」

 僕が言うと、彼女は僕に飛びついてきた。

「うれしい!大好き!愛してる!」

 僕も、ぎゅっと彼女を抱きしめる。

「ちょっと遅くなったかな、ごめん」

「来てくれたから、いいの」

「じゃ、帰ろうか」

「うん。そうね」

 と言いながら、彼女は上目遣いに僕を見た。

 いたずらっぽい目つきで。


 ああ……

 わかってる。

 彼女はきっと、また行ってしまう。

 なぜなら、そうせずにはいられないからだ。

 そして僕はまた追いかけるんだ。

 いつまでも。

 どこまでも。

 どんな時間でも。



 旧橋付村の村はずれには、樹齢300年を超える巨大な桂の木がある。

 傍らには祠。

 小さな地蔵尊。

 由来は地域の神社に記録が残っていた。

 彼女が残した僕のための道標。 

 どんな小さくても、僕はそれを見つける。


 さて、行くか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕はただ追いかける まりる*まりら @maliru_malira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る