第8話
久しぶりに母親と話をした気がする。
今日は日曜日で、予定も何もない。リビングのテーブルで、母親と向かい合わせに座っている。コーヒーのいい香りがリビングに充満している。母親はコーヒーが好きで、毎回、豆から挽いて、コーヒーを淹れている。僕は苦い味が嫌いなので、コーヒーは好きではない。でも、母親が淹れるコーヒーの香りは大好きで、母親がコーヒーを飲むときは、僕も砂糖をたくさん入れて、一緒に飲むことが多い。
「カナちゃんが、急に倒れて入院しているのよ。わかるでしょ、名古屋のカナちゃん」
母親はコーヒーをせわしなくすすりながら、神妙な表情で僕の顔を見た。
「うーん、誰だっけ?会ったことあるっけ?」
僕は素っ気なく答えた。甘い…コーヒーに砂糖を入れすぎたかもしれない。
「小学生に入る前に会ったきりだから、覚えてないのかしらね。あんたのいとこよ」
僕にはいとこがたくさんいるので、よくわからない。しかも、いとこ同士が大勢で祖父母の家に集合してワイワイ話す、といった典型的な経験がない。平たく言えば、親族関係が疎遠なのだ。とはいえ、母親は定期的に特定の親族とは情報交換をしているようで、たまにこの手の話題が出てくる。
「社会人になったばかりなのにねぇ。まだ、意識がないみたい。明日までに意識が戻らなければ、私もお見舞いに行くから、あんたはパパと留守番だからね」
母親はコーヒーをそそくさと飲み干し、キッチンで何やらし始めた。相変わらず、せわしない人だ。この人、本当にコーヒーが好きなのだろうか。
それにしても、意識がない、というのはかなりの大ごとだ。しかも、社会人になりたてという若い世代の人が、である…
僕は甘すぎるコーヒーを飲みながら、ふと昨日のことを思い返した。
仮想世界の対戦型ゲームで「ヒメ」という名前の相手を辛うじて倒し、500アクタスを獲得した。まだ、倒す直前の相手のキャラクターの目が脳裏に焼き付いている。ゲームのキャラクターの目ではなかった。人間の目としか思えなかった…思い出すだけで、口の中が苦くなる。
僕は、対戦を終えた後、すぐに、ゲームセンターの出入口に向かって歩いた。疲れ切ってはいたが、目的は現実世界に戻ることだ。祈るような気持ちで出入口に向かって歩いた。ゲームセンターのドアに手を触れて、目を閉じてからゆっくりと開けた。そして、右足をそっと前に踏み出した。
急に、閉じたままの目の前が強烈な光に包まれた。
「やった…」
目を閉じたままではあるが、これから何が起ころうとしているのか確信ができた。
少しづつ辺りの光が落ち着いていきた。僕はそっと目を開けた。
僕は、再び現実世界の神社の鳥居の下にいた。
コーヒーの香りが残るリビングで、スマホを取り出し、黒い鳥居のウォレットアイコンをタップした。
<現在のレート 1アクタス=600円 お客様の日本円換算評価額 419,940円>
金額にギョッとした。こんな金額は見たことがない。いや、正確に言えば、昨日も対戦直後にウォレットは見ている。でも、昨日はそれどころではなかった…自分のお金なのだ。昨日の対戦で獲得した500アクタスで増加していることに加えて、さらに1アクタスが600円とレートも上がっている。
これまでは、僕のスマホに住みついている気味の悪いウォレット、という印象しか持っていなかった。日本円換算評価額が記載されているとはいえ、使えるお金という意識はほとんどなかった。おもちゃのお金、単なる数字の羅列、といった認識だった。
しかし、タツヤに連れられて、仮想世界の中華料理屋でラーメンと餃子のセットを1アクタスで食べた。食べることができた。そこから、見方が変わった。
お金なんだ、という意識が芽生えた。これは実際に使えるお金なんだ。
そう考えると、何故、仮想世界で対戦型ゲームに勝つだけでお金がもらえるんだろうか? という疑問がより強くなってくる。何のために… そして、何で日本円とのレートが存在しているのだろう…
翌朝、母親に起こされた。
「アキラ! カナちゃん、意識戻ったって!良かったわね」
寝ている僕に話しかけて、そのついでに起こそうとしている。
「んっ…」
僕は目を閉じたまま、母親の方に顔を向けた。
「昨日言ったカナちゃんよ。今朝早く意識が戻ったのよ。体力は落ちているけど、元気みたい」
朝早くから、よく通る声で母親は話し続けている。
「あぁ。そっか…」
僕はまだ目ぼけている。体も起こせていない。
「不思議なことにね、お医者さんも原因がわからないんだって。カナちゃん、まだ若いから回復が早いのかもね。まぁ、良かったわ。今日名古屋に行く必要も無くなったしね。早く起きなさいよ」
寝ている息子に一方的にしゃべり、言うことが終わったら、さっさと部屋から出て行ってしまった。こういう人をちゃきちゃきした人と言うのだろうか…
僕はゆっくりと起き上がって、壁にかけている時計を見た。もうすぐ7時になる。そういえば、今日は月曜日で学校の日だった。仮想世界に長時間いたので、時間の感覚が麻痺している。いや、長時間だったのだろうか? そもそも仮想世界にどのくらいいたのかさっぱりわからない。少なくとも、体感だけは長時間だった。
僕は、制服に着替えてから、カバンを持って、リビングに向かった。
これが、現実世界の僕の、ごく普通の日常だ。
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