第321話また、戻る

 僕は彼女とケンカした。


 君は怒って部屋を出て行った。


 べつに……止めるつもりはないし。


 だから君の持ち物を片付けはじめる。


 全部ダンボールに詰めてしまおう。


 整理しているとシミのついた本が出てきた。


 僕の大切な本だ。


 君がコーヒーをこぼしたのを思い出す。


 シワになったページに指をかけると、ふと昔のことを思い出した。


 確かにコーヒーはこぼしたけど、君はわざとやったんじゃない。


 寝不足で仕事続きの僕のために、コーヒーを淹れてくれた。


 うっかりつまずいて台無しになった本。


 そのページに鼻を当てて「うん、いい香りがする」って冗談言ったっけ。


「…………」


 僕はもう一度ページをめくり、鼻を当てる。


 すると玄関のほうでガチャリと音がした。


 君が立っていた。


 少し気まずいやりとりのあと、お互い何を言うでもなく、台所に行く。


 コーヒーカップは二つ。


 テーブルの上には、シミのついた本。


「うん、いい香りがする」


 ぼんやりとした湯気のように、とりとめのない昔話は、続く。

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