第149話耳元で鳴り続ける、朝焼けの幻

 蚊は進化した。


 効率よく血を吸うために、とある能力を得た。


 特殊な羽音で脳に幻覚を見せ、油断した対象から血を吸いとる。


 相手には幻が見えているから、蚊は安全に食事を済ませることができるのだ。


 そして今日も僕は、その犠牲者の一人となる。


「これで何度目だろう……」


 プーンという耳元にまとわりつく不快感。


 起床にはまだ一時間も早い枕元に、ヤツはやってきた。


「ふふ、おはよう」


 ――薄く微笑んで窓際に立つのは君だった。


 白いワンピースをはだけさせ、透き通った素肌が露わになる。


 傍らにそっと腰を下ろした君は、ただ静かに僕の腕に口をつけた。


「…………」


 まただ。


 僕はまた許してしまう。


 これは現実の君ではなく、脳が見せている幻。


 蚊の放つ羽音によって、人は異性を具現化してしまうのだ。


 相手が蚊だとわかっていても、これじゃあ殺すことができない。


 腕を這う唇はやがて僕の首元へと辿り着く。


 ああ、されるがままだ。


 また鏡の前で赤い腫れ痕をなぞる羽目になる。


 ぼーっと天井を見上げていると君と目が合った。


 こちらを嘲笑うかのように、口元に微笑を湛えている。


 このままでいいのか?


 これ以上好きにさせてたまるものか。


 僕だって――。


 気付いたら幻を押し倒していた。


 君はとても驚いた様子だった。


 蚊が見せた幻が驚くなんておかしな話だが、ここまでくるとさすがに真実が見える。


 そう、現実を認めるしかない。


 ……つまりだ。


 進化した蚊なんて、はじめからいなかったんだ。


 蚊の幻覚という言い訳を作り出し、君との接触を拒むための口実を作りだしていたのは僕自身だ。


 全てが終わるころ、君は鏡の前で首筋を晒す。


 蚊に刺されたような赤い模様を指でなぞって、鏡越しの僕に嬉しそうに微笑んでいた。


 僕は思わず自分の唇に手を当てる。


 自分らしくないなと思いながらも。


 朝焼けの空を眺めながら。


 耳元にまとわりついた羽音が、すーっと消えていった――。

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