第一幕「ホライゾン・ブルーに浮かぶ駅」

   1


 トラックを見つけてから四日が経っていた。

 いまだに目標物らしいものは見つからないでいる。トラックで物資を調達できていなければ不安にかられて泣いていたかもしれない。食料と燃料の残りは心の余裕と比例している。

 おまけにヤカンの調子が良くなかった。故障を抱えていると言っていい。何がどう悪いのかが分からないのがますます怖い。

 エンジンが動かなくなるならまだしも、あちこちに蒸気によって圧力がかかっているから、何かの拍子にエンジンが吹き飛ぶかもしれないという恐怖もある。スロットルレバーを開くたびに嫌な手汗を握るほど緊張する。 

 不意にまた、ガガガッと車体が尻を突き上げるように激しく揺れた。とっさにレバーを開くと、ぐんっと速度が上がって、振動は急になくなった。

「……そろそろ、マジでやばいかも」

 今の振動は焦った。早いところどこかに腰を落ち着けたい。

 平原の果てに何か見えないかと目をこらすけれど、相変わらず、長閑な風景が続いているばかりだった。

 さっきまではあれほど背中に緊張を背負っていたのに、こうまで何もない穏やかな景色が続くと、そのうちに気を張っているのも飽きてしまう。

 靴を脱いで、座席にあぐらをかいて、スマホを取り出した。画面をタッチして、すでに飽きるほど聴き込んだ洋楽をBGMにする。こんなことになるなら音楽を山ほどダウンロードしておいたのにな、と詮無いことを考えた。

 この世界に来て初めて、ぼくは車というものを運転した。そうして知ったのは、運転というのはとにかく暇なものだということだ。だって、ハンドルを握る以外になにもすることがないのだから。

 変わらない景色と平坦な道に、穏やかな英語の歌詞。いつの間にか意識はぼうっと揺蕩っていた。

 だから、それが見えた時、しばらく夢か現実か分からなかった。砂漠で蜃気楼を眺めるように、視界はゆらゆらと揺れていた。眠りと覚醒の波の頂点で、はっと意識が戻って、そうやくそれが現実だと気づいた。

 駅だった。

 平べったい長屋のような駅が水上に浮かんでいた。駅の周囲だけが、おおきな水たまりのようになって、空の青と白を反射させている。駅からは線路が二本、左右に伸びていて、一台の黒い機関車が駅から半ばほど飛び出ていた。

 あわてて助手席から地図を取って広げた。地図の中には駅がひとつだけ描かれている。おそらくは、あれだろう。

 どっと肩の荷が下りた。それは安堵と言ってよかった。自分がどこにいるかも分からない状態は、こんなにも神経を疲れさせるのだと初めて知った。

 駅だ。ぼくは、駅にいる。ただそれだけのことが驚くほど嬉しい。

 眠気はあっという間にふっとんだ。スロットルレバーをさらに開けた。ヤカンは無言で、けれどしっかりと速度を早めて駅に向かう。

 やがて水たまりに踏み込んだ。この辺りの地面が広く窪地になっているようで、タイヤの三分の一くらいが水に浸かった。ハンドルがぐっと重くなった。

 ヤカンが進むたびに、水上に波紋が広がっていく。写り込んだ青空と雲を揺らしながら、まっすぐに駅へと向かう。

 ついにそれが間近に見えてきて、駅の出入口のすぐ近くにヤカンを停車させた。

 駅の外観はもともと白かったみたいだけれど、今ではすっかり風雨の汚れにくすんでいた。それでも汚れさえ気にしなければ、駅は変わりなく日常を担うものだった。今にも中から人が出てきそうな雰囲気があった。

 駅は地面からいくらか高く造られていて、水面から浮かび上がるように階段がある。そのおかげで構内までは浸水していないらしい。

 ヤカンの燃料バルブを閉めて、ドアを押し開けた。

 足元には空が広がっていた。靴下を脱いで靴の中に押し込んで、ズボンの裾をまくりあげた。水に足をつけると、ひんやりとした心地よさがあった。

 後部座席のドアを開けて、バックパックを取って背負った。靴を手に、ざぶざぶと水を踏み分けて階段に向かう。一段、二段と上がって、最上段に腰を下ろした。バックパックからタオルを取り出して足を拭いた。靴を履き直して、改めて構内の入り口に立つ。

 中には青い陰がひっそりと敷き詰められている。壁に並ぶ窓から差し込んだ光が、ぽつりぽつりと等間隔に長細い陽だまりを作っていた。

 並んだベンチにも、窓口らしいカウンターにも、人の名残はなにもない。壁に掲示された何枚もの色あせたポスターと時刻表だけが、賑わっていたころの駅の様子をうかがわせた。

 陰の中には鳥肌が立つような冷たい空気が溜まっている。陽だまりにさしかかるたびに、眩しいほどの光が肌を温めてくれた。

 構内はそれほど広くはなかった。窓口を通り過ぎ、廊下を歩き、改札らしい柵を抜けると、その先が黄色く輝いていた。そこがプラットホームになっているらしい。

 屋根を支えるために並んだオレンジ色の鉄柱と、背を合わせた鈍色のベンチと、平原の鮮やかな緑と、それを飲み込みつつある白砂の丘が見えた。黒く大きな機関車。それから。

 きらきらと、銀の糸が風にゆらめいていた。 ぼくは足を止めた。

 ホームを覆う薄い屋根はいくらか崩れて穴を開けつつあるようで、ホームにはまばらに陽だまりが落ちている。

 そのうちのひとつに女の子が立っていた。身じろぎをするたびに、陽光が銀髪に反射した。澄んだ青色のワンピースは空よりも軽やかで、それが余計にむき出しの腕や脚の肌の透明さを際立たせていた。

 女の子は機関車に身体を向けている。三脚のイーゼルを前に、手に持った筆を迷いもなく動かしている。絵を描いているのだとすぐに分かった。けれど、受け入れるには時間が要った。その光景に目を奪われていた。

 青い陰に浮かびあがる木漏れ日のように柔らかな黄色の中で、切り取ったように明瞭な輪郭線で女の子が立っている。非現実的なほどに、それこそ目の前の光景こそが一枚の絵のようだった。

 ふと、女の子が顔をあげた。

 目の前の風景を鋭く見つめていたかと思うと、何気ない素ぶりでぼくに顔を向けた。目が丸く見開かれるのがよく見えた。だからその大きな瞳が、水に反射した空よりも深い蒼色をしていることが分かった。碧眼、というのだろうか。

 ぼくたちは見つめあったままに時を止めていた。

 お互いに何を言うべきか分からないでいたし、戸惑ってもいた。なにしろ、ほとんど人のいなくなった世界だ。こうして誰かに出会うというのは予期できるものでもない。

 ただ、女の子が気づく前から、ぼくは彼女を見ていた。こっちから声をかけるべきだろうかと考えた。

「こんにちは」

 久しぶりに、人に向けて声をだした。それは独り言とはまったく違った喉の部分を使うような感じで、ぎこちない声音で、しかも掠れていた。誤魔化すように咳払いをした。

「……こんにち、は」

 と、小さな声が返ってきた。風があったら簡単に吹き飛ばされそうで、ぼくと同じように掠れていた。

 女の子は口を手で覆って、調子を確かめる猫みたいに喉を鳴らした。

 会話をするには不自然に離れていたので、ぼくは女の子に向かって歩き出した。構内から出ると、気が緩む心地よいぬくもりがあった。三メートル離れたところで足を止めた。女の子の瞳が不安げに揺れたからだ。

「あやしい者じゃないんだ。いや、自分で言うのもおかしいけど」人生でこんなセリフを言うことがあるとは思わなかった。「ずっと道を走ってて、そうしたらこの駅を見つけて、寄ってみたら、きみがいて」

 早口に並べ立てた言葉はどうにも言い訳に聞こえた。会話の仕方をすっかり忘れてしまったみたいだった。言葉を止めて女の子の様子を見る。

「……そう、ですか」

 あ、めっちゃ警戒されてる。警戒されてるのはわかるけど、どうすれば良いのかはさっぱり分からない。

 そうしてふと冷静になると、これじゃナンパだなと気づいた。見知らぬ男に声をかけられて、和気藹々と会話ができる人は少ないだろう。ましてや、こんな世の中じゃ警戒するなと言うほうが無理だ。

 人恋しさから何も考えずに声を掛けてしまったけれど、配慮が足りなかった。

 どうしたものかと頰を掻いてみる。

 もちろん、名案なんて浮かばなかった。

 絵を描いているの? なんて訊いたって、女の子も世間話がしたいとは思えない。

「……ええと、それじゃ、お邪魔しました」

 愛想笑いで誤魔化して、ぼくは踵を返した。その気はなくとも、客観的に見れば人生ではじめてのナンパを大失敗した男だった。

 背中越しに、あの、と声をかけられて、ぼくは驚いて肩を跳ねさせてしまう。振り返ると、女の子も自分の声に驚いたように口を抑えていた。

 また目があって、女の子は視線を落として瞳を揺らした。なにかに迷っているみたいだった。無言の時間を待っていたけれど、

「いえ、何でもない、です」

 と言葉を足元に落として、またイーゼルに向かった。

 会話は終わりだという意思表示を理解できないほど鈍感ではない。ぼくは冷えた青い陰の中に足を戻した。

 駅の構内には他に見るべきものもなかった。受付の奥に駅員室のような小部屋があったけれど、すっかり荒れていた。

 世界が終わると知って、どれほどの人がここで駅員としての業務を続けたのだろう。鉄道に乗ってどこかに行きたいという人は増えたに違いないけれど、その運行管理をしたいという人も増えたとは思えない。

 駅の出入口にまで戻ってきた。一面に沈んだ水の平原に、斜になった太陽の光が投げ掛けられている。

 構内を振りかえる。あの女の子は、まだここにいるのだろうか。

 ずっと座席に座っているのも、ハンドルを握るのも、目印もない平原を走るのにも疲れていた。今日はこの駅でキャンプしたかった。

 けれど、先にいたのはあの女の子だ。そしてぼくは警戒されてしまった。ここに居座るのも気まずく思えた。

 仕方ない。駅から離れて、水気のない場所を探して、今日はそこでキャンプにしよう。

 靴紐を解いて、靴下を脱いだ。ズボンの裾をまくり上げ、裸足で階段を降りる。水がひんやりと足の指にからんだ。

 ヤカンの運転席のドアを開け、靴とバックパックを放り込んだ。足を拭いてシートに座り、スロットルレバーに手を伸ばして、ふと気づいた。

「あれ……?」

 ボイラー内の圧力を示すメーターの針がすっかり下がっていた。駅に入る時、ヤカンは暖機のままにしておいたはずだった。すぐに出発できるように、キャンプ地に駐車するまではそうしておくのが習慣になっていた。

 おかしいな、という思いと、背筋がぞわぞわするような嫌な予感があった。並んだメーターに目を走らせた。

 燃料室の圧力計は暖気状態であることを示していた。しっかり火が入っている。

 改めて燃料室の開閉バルブを開いた。これで燃料室とボイラーを繋ぐパイプが開き、ボイラー内の水を沸騰させてくれるはずだ。

 けれど、いくら待っても、水が沸騰する時のゴゴッという音が鳴らない。

 ボイラー内の圧力計の針も、わずかに震えるだけで、それ以上は動かない。

 ぼくはバルブを閉め、燃料タンクの点火スイッチも切った。そのままハンドルに突っ伏した。

 こめかみのあたりがぎゅうっと締め付けられて、顔から血の気が引いたみたいだった。脳みそがぐるぐると回っていた。ハンドルを握りしめていないとそのまま倒れこみそうだった。

 予想はできただろう、と自分に言い聞かせる。故障の予兆はあったんだから。むしろここまでよく頑張ってくれたよ。ろくに整備もしていなかったのに。

 自分にそう言い聞かせて唇を噛み締めた。

 ドアを開け、また外に出る。飛び降りるようになって水が思い切りしぶきを上げた。ズボンがぐっしょりと水を吸ったが、気にもならなかった。

 ヤカンの前に回ってボンネットを開けた。ヤカンの心臓部である。

 タイヤに動力を伝えるための蒸気ピストンが組み込まれたエンジンと、蒸気そのものを生み出すボイラーが収まっている。

 念入りに、端から端までチェックした。それを三度、繰り返した。

 けれど何もわからなかった。配管に亀裂が入っているとか、オイルが漏れているとか、そういう分かりやすい異常は何もない。

 諦めてボンネットを閉じて、また運転席に戻った。

 もう一度、始動の手順を繰り返す。

 点火スイッチを入れる。これで燃料室の魔鉱石に火が入り、圧力計の針が上がる。

 ボイラー内の水位計をチェックする。問題なし。

 祈るような気持ちで、燃料開閉バルブをゆっくりと開いた。

 腕時計を見る。針が揺るぎなく動いている。一周、二週、三週……。

 ボイラーの圧力計は底値からぴくりとも動かなかった。完全に止まっていた。

 ぼくは燃料バルブを閉じて、点火スイッチを切った。

 これで、今日はおしまいだ。問題なのは、明日があるのか、ということで。

 目の前には廃駅がある。あたりは水浸しだ。それ以外には、なにもなかった。

 

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