第2話

「お嬢様、マリサお嬢様!」

 まっすぐ屋敷に帰って両親に事の顛末を報告し、自室に戻ったマリサを慌ただしく出迎えたのは側付きの侍女であるミーナだった。

「婚約破棄って!」

「皇太子様から直々にお願いされたのだから、お受けしないわけにはいかないでしょう」

「お嬢様には何の非も無いのに!」

「……そうね。変に濡れ衣を着せられた上で破棄を迫られるようなことがなくて良かったわ」

 そういう意味でも本当に悪意がない。それだけは救いだった。周囲が驚くほどあっさりと引き下がったのはその恐れもあったからだ。

 ひどく落胆している年老いた両親の姿を見るのはさすがに心が痛かった。けれども両親もまた、娘に何か落ち度があったわけではないことを理解している。これまでよくやってくれたと、父親からの労いの言葉は嘘偽りのないものだとマリサには感じられた。

 本当の娘では無いのに、露頭に迷っていたところを拾われた恩義だけで長いあいだ皇太子の婚約者を、貴族の令嬢を演じてきたのだ。

「私に非があるとすれば、真実を黙っていたことでしょうね」

「……政略結婚に本当の出自なんて大した問題にはならないと思います」

「貴女も言うわね、ミーナ」

「だってお嬢様があまりにも」

「かわいそう、なんて言わないでね。絶対に」

 それは自分自身が許せないから。

「ああ、でも、本当になんて皮肉なのかしら。異世界から来た少女ですって」

「異世界から」

「そう。あの魔王を倒した勇者と、勇者の伴侶になった者と同じ異世界からの来訪者」

 あの少女がもう少し早く来ていたら、勇者の伴侶は彼女になっていたのだろうか。いや、それはないでしょうとマリサは自分で否定する。だってあの時、勇者に彼を引き合わせさせたのはマリサの言葉だ。

 一年前の騒動を思い出しながらミーナの淹れて来た紅茶に手を伸ばす。あの時は罪滅ぼしのつもりだった。同郷の青年が奴隷として虐げられているの知っていながら、自分の身を守るために黙して、見なかったフリをし続けたことに対する償い。その程度で許されるとは自分でも思っていないけれど。

 ならば今回のことは、真実を黙っていたことへの罰なのだろうか。



 祝賀会での一件以来、皇太子の元婚約者は侍女一人を連れて、王都から少し離れた場所にある別邸へ引き籠ることが増えていた。

 かつて社交界の華と呼ばれた彼女も今ではすっかり腫れ物に触るような扱いを受けている。それを厭ってのことだったが、周りは傷心のためだろうとますます憐みの目を彼女に向けていた。

 このまま自分も隠遁してしまおうかと、王都から遠く離れた村外れの家を魔王討伐の褒賞に望んだ元勇者のことを考える。今は伴侶と共に小さな畑を耕しながら、静かに暮らしていると聞いた。

 自分にそんな生活ができないことは、誰よりも自分自身がよく承知している。けれどもこのまま一人で、誰にも真実を知られないまま生きて死ぬのだろうか。

 誰も自分のことを知らないこの異世界で、誰にも知られることのないまま。

 真実を黙っていることを、選んだのは確かに自分自身だ。たとえばそれが生きのびるために仕方のないことだったとしても。

「そういえばお嬢様。祝賀会の供をしていた従僕が、リズリサとはなんでしょうかと首を傾げていました」

 ふと思い出した様子で侍女のミーナに問われたマリサは表情を曇らせた。感情に任せて必要のないことを言ってしまった。自分らしくもない、唯一の失態だ。

「なんでもないわ。服の種類のことかしら」

「その異世界から来た少女には似合ってて、お嬢様には似合わないと?」

「そうね。似合わないし、趣味ではなかったかもしれないわ」

 かつて、同級生たちが楽しげに選んでいるのを、密かに羨ましく思いながら眺めたことはあったけれど。

「わたくしの着るものはいつもお母様が選んでくださったから」

 今も、昔も。そういえば自分で服を選んで買ったことなど一度もなかったと思い出す。選んでもらった服はとても自分に似合っていたし、趣味に合わないわけでもなかったけれど。そもそも自分で選んだことがないのだから己の趣味などわかるはずもなくて。

「私はだいたいジーユーです。あとユニクロです」

「そうなの。……え?」

 他のことを考えていたのでうっかり聞き流しそうになってしまったが、今この侍女は何と言った?

「ほんとはビンテージの古着もちょっと好きで、原宿のお店とかよく行ってたけどあの時のお小遣いではほとんど買えなくて。あ、でもこのメイド服も結構気に入ってます。スカートが長くて可愛いですよね」

「待って、待ってミーナ」

「マリサお嬢様はきっと、"元の世界"でもお嬢様で。私なんかじゃまったく相手にもならないかもしれなくて。でも、でもね、お嬢様」

 顔を真っ赤にして、ひんやりと冷たくなってしまっているマリサの白い手を、あたたかい両手で包み込むように握って。

「私が、マリサお嬢様のそばにいます。今までのように、これからもずっと」

「ミーナ、あなた、」

「美奈、です。東雲美奈。お嬢様のお名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「……勅使河原茉莉沙」

 もう、何年も口にしていなかった本名を小さな声で告げれば、美奈はきょとんとした顔で茉莉沙の顔を見つめた。

「お名前からもうなんか、すごいですね」

「テストの時にね、名前を書くだけでひどく時間がかかったのよ」

「ふふっ」

 まるで知り合ったばかりの同級生のように笑う声。それを聞いただけで、胸の中で固まっていた感情がほろほろと崩れていくようだった。

 何もわからないままこの世界へ来てからずっと、一人で気を張っていた。真実を隠したまま立ち続けていた。歩き続けて来た。たぶん、もう、自分で思っているよりもずっと疲れてしまっていた。

 倒れる寸前だったのかもしれない。その手を取って握りしめてくれたのは、とてもあたたかな指先で。

 真実を告げることで彼女という存在を得ることができたのならば、自分が選ぶべき相手もまた彼女なのだろう。

「探していた幸せの青い鳥は、気がつかないだけで、実はずっと近くにいたと言うけれど」

「……もしかして、私のことですか?」

「そうだったらとても良いのに」

「が、がんばります!」



 本当に幸せの青い鳥であったかどうかはわからない。けれども、異世界から来た令嬢の最後の日々は、穏やかではないがとても満ち足りたものだった。

 勇者にも皇太子にも選ばれなかった彼女の隣には常に、一人の侍女が寄り添っていたという。


 反乱軍によって王都が墜とされる、その日まで。



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