3-10

 文京区小日向に建つ三階建てのマンションに列をなして雪崩れ込む警察関係者を付近の住民達が不安げに見つめる。


 伊吹啓太郎の秘書、前畑亨太の自宅はここの二階だ。

前畑の給料が低いのか単に住居に金をかけない主義だったのかは知らないが、東京弁護士会副会長秘書の肩書きのわりには質素なマンションの一室に足を踏み入れた小山真紀と杉浦誠はしばし言葉を失った。


「なにこれ。部屋中が莉愛だらけ……」

『なんだか薄気味悪い狂気を感じますね』


 1LDKの室内は望月莉愛一色だった。

壁や天井にまで莉愛のポスターが貼られ、書棚には莉愛の写真集、フルリールのライブDVDにCD、雑誌の切り抜きをファイリングしたファイル、莉愛を模した等身大フィギュアまで飾られている。


「アイドルのファンの部屋をガサ入れした経験はあるけど、ここまで壁も天井も部屋中がアイドルのグッズまみれだった部屋は初めて」

『俺もですよ。この等身大フィギュア、高値で取引されていた望月莉愛の違法フィギュアですよ。莉愛の所属事務所から販売されたものではなく、美大生のファンが自主製作した人形を販売して問題になっていました』


 等身大だけあり、フィギュアの大きさは莉愛の身長と同じサイズ。


瞳はガラス玉、髪や肌はさすがに本物そっくりとは言えないが、胸の膨らみやウエストのくびれ、臀部でんぶから太ももまでの曲線、膝下の長さなどのスタイルは写真集に載る莉愛の水着写真と比べても大差なく作られている。


「スリーサイズまで把握して作り込んでるよね。衣装を脱がすと女の裸になって気味が悪い」


 着脱可能な衣装の下は中心部が桃色に着色された胸部がお目見えする。特に精巧に作られた下半身を目にした真紀は顔をしかめた。


「やだ、性器の見た目や内部まで凝ってるくせに下の毛は生えてないじゃない。莉愛は生理が来てない子どもじゃないのよ?」

『アイドルは陰毛が生えないとでも思っているんでしょうか。それにこのフィギュアは自慰専用ですよ。人形の下半身のここに男性器を挿し込めるようになっていますし』

「ああ、そういうことか。これを作った製作者もそれを買って自慰してる前畑も気持ち悪い……。前畑が莉愛にファン以上の感情を抱いていたのは確定ね。犯人に協力する動機としては充分」


 真紀の手で再び衣装を着せられた莉愛の等身大フィギュアも捜査員の手で外に運ばれていく。


真紀には幼い二人の息子がいるが、彼らが思春期から大人になる過程で芸能人に陶酔する時期があっても構わない。


 所謂いわゆるオタクと呼ばれるカテゴリーに属したとしても、人に迷惑をかけず、応援している芸能人の人権や心を踏みにじる行いをしなければいいだけ。


虚像と実像は違う。幻想を抱いて欲の捌け口に利用した虚像にも心がある。

芸能人も心があるひとりの人間であることを息子達には忘れないでいてもらいたい。


『神田、大丈夫でしょうか。かなり落ち込んでいましたね』

「フォローしきれなかった私達にも責任はある。今度、神田さんと九条くんも誘って皆でいつものラーメンでも食べに行きましょ」


 杉浦と共にマンションの階段を降りた真紀はマンションの集合ポストの前で立ち止まる。

住宅街に揺らめく人影を見つけた。影の正体は彼女には自明だ。


「杉浦さん、先に車戻っていて」


 先に杉浦を車に返し、真紀は影に一歩近付く。影の方も真紀に近付いてきた。


「さすがに情報が早いですね、桑田さん」

『身元がわかっていれば自宅を突き止めるのは朝飯前だ』


前畑のマンションの前に潜んでいた影の正体は週刊ルポルタージュの記者、桑田真隅。


『前畑はクロだったか?』

「桑田さんが仰っていた莉愛のストーカーに関してはおそらく、クロですね。でも捜査情報は話せませんよ」

『ケチくせぇな。せっかくお嬢ちゃんだけに特別なネタを持ってきてやったのに』

「特別なネタ?」

『及川果林と坂元凛々子の枕営業のスクープ。あれは匿名のタレ込み電話があったんだ』


 真紀と桑田は近くの公園に移動した。枯れ葉の舞う公園の木の下に二人は佇む。


『うちはスクープ挙げられるなら儲けモノ。情報提供者が誰か興味もねぇが、事務所移籍なんて極秘の情報を知るのはフルリールに近い人間だろ?』

「果林達の枕営業の情報提供者はフルリールの所属事務所関係者……」


 怪しい男がひとり浮上する。フルリールのマネージャーを務めていた国本和志。

国本ならば果林と凛々子のスケジュールの把握は容易い。彼女達が仕事の合間を縫って移籍のための枕営業にいそしんでいることも知り得たはずだ。


『事務所の関係者が果林達の移籍話をポシャりたいとしてもわざわざ俺らにタレ込む理由がわからねぇ。咲希はエスポワールに拾われ、稼ぎ頭のアイドルグループはいなくなった。あの事務所の経営自体が危うくなるだろうな』


国本マネージャーは高倉咲希の移籍会見の直後に芸能事務所を退職した。住んでいたマンションも引き払い、現在は行方が知れない状態にある。

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