3-9

 美夜を抱き寄せようとして思い留まった手を額に当てて九条は大きな溜息をついた。大きな手のひらで少し触れた彼女の肩は非常に華奢で、彼女が“女”だと九条に知らしめる。


 九条は廊下の角を一瞥した。刑事のわりにあの男はかくれんぼが下手くそだ。


『出てこいよ、南田。お前に覗きの趣味があったとは初耳だ』

『覗きたくて覗いたわけじゃない。職場でラブコメをやりだす九条が悪い』


曲がり角から現れた同期の南田康春の言葉はもっともで言い返せない。


『残念な知らせだ。神田さんがいない間のお前のバディ代理が俺になった』

『うっわっ……。それは残念過ぎる』

『光栄に思って有り難がれよ』

『光栄でもねぇし有り難くもねぇよ』


 渡り廊下の壁に並んでもたれる二人の男の体格差は真逆だ。

180センチの九条に対し南田の身長は172センチ、それでも成人男性の平均身長だが、九条の身長が高すぎるがゆえに並んだ時の二人のシルエットはデコボコだった。


『好きなら好きって素直に言えばよかったじゃん』

『……は?』

『神田さんに惚れてるんだろ?』


 南田の一言は九条にとって青天の霹靂へきれき。最初は何を言われているかわからず、南田の言葉を脳内で反芻はんすうしてようやく意味を理解した。


『なんでそうなるんだよ』

『まさか無意識? 無自覚? どこまで鈍感なんだ? 抱き締めようとしたその手は何?』


南田が指差す先には美夜の肩に触れた九条の右手が開いている。九条は右の手のひらをまじまじと眺めて、心を乱す歯がゆい想いの正体を知った。


『そう、なるのか……』

『アレはどう見ても好きな女に誕生日プレゼント渡す片想いの男の図』

『だから、プレゼントはバディとしてだって』

『建前はな。でもわかるよ。俺もお前の立場なら惚れてたかも』


 二度目の青天の霹靂は衝撃と焦りの感情が入り交じる。惚れた腫れたの話題の中心があの神田美夜になるとは、バディを組んだ当初は考えられなかった。


『まさか南田って神田のこと……』

『日本人なら日本語をちゃんと聞け。って言ったんだ。神田さんは同僚として信頼してるがそういう目では見てない。第一、俺は彼女いるから』


 三度目はもう霹靂すら起きない。打ちのめされた気分で九条は大柄の肩をすくませた。


『彼女できたなんて聞いてねぇぞ……』

『言う必要ないし』

『お前に彼女いるのがなんか、すっげぇショック』

『失礼な男だな。話を戻すと神田さんって危うい面があるだろ。見ていてほうっておけないと言うか。誰にも弱さを見せないように強がって本心を隠してる』

『南田は観察眼だけはあるよな』

『お前の失礼にいちいち突っ込むのも疲れた。だからそういう人の側に四六時中いると、お前みたいなお節介はほうっておけなくて情が移るんじゃないか?』


 美夜の危うさに気付いたのは意外とバディ結成の最初の頃だ。

春に起きたデリヘル嬢連続殺人の犯人に美夜はある指摘を受けている。その時に初めて精神が揺らぐ彼女を目撃した。


『情か……』

『愛情とも言うし同情とも言うが。神田さんへの気持ちがどっちなのかはお前じゃないから俺は知らない』

『正直、俺もどっちなのかわかんねぇよ。お前の言う通りほうっておけないのは確か。それが恋かと言われると……』


 以降もたびたび、被害者にも加害者にも情を挟まない美夜の感情を揺らす出来事が起きている。


 梅雨の湿気が鬱陶しい時期に頻発したサラリーマン連続殺人の犯人だった高校生にも美夜は何かしらのシンパシーを感じていた。

次に美夜の感情が揺らいだのは夏。管轄外の看護師殺人事件でまたしても彼女は犯人に心を激しく揺さぶられている。


 神田美夜の危うさ。それは犯罪者に同調しやすい心。

ともすれば美夜自身が犯罪を犯してしまいかねない闇を秘めている。闇の正体は九条が知る限りの情報から推察すると10年前に埼玉で起きた美夜の同級生の殺人事件だ。


『神田さんが今夜一緒に過ごす相手がどんな奴か知らないのか?』

『知ってたらこんなモヤモヤしてねぇよ。今まで神田から男の気配なんかちっとも感じなかったんだ。なのに誕生日に休み取ってるし、一緒に過ごす男の存在も否定しなかった。どこの誰だろうって気になって、普段は鉄仮面の神田にあんな悲しい顔させる男に無性に腹立ってる、ナウ』


 九条には美夜の危うさを側で見守ってきた自負がある。危うくなりがちな彼女が闇に落ちないように、彼女の手を握っていたつもりでいた。


けれど本当の美夜を最も近くで見てきたのは、もしかしたら自分ではないと悟った時の苦い気持ち。美夜が本心から己をさらけ出せる相手は自分ではなく別にいる。


『話が長い。一言でまとめるとそれをヤキモチって言うんですよ、九条くん。あと、ナウは死語だと思う』

『偉そうに……。nowってもう死語なの? 昔は皆やたらとナウナウ言ってた気がする』

『今は誰も言わないな。流行り言葉なんてそんなものだ』


 南田のスマホのアラームが鳴った。気の抜けた甲高いメロディに似合わず、アラームを止めた南田の表情は冴えない。


『ゲームの時間か』

『あー、俺もだ。この時間が来ると憂鬱になる』


 九条と南田には上野一課長直々に極秘の任務を受けている。任務内容は毎日2時間、クライムアクションゲーム〈agent〉をプレイすること。


『このゲーム変な中毒性ない?』

『ある。自分の中にしっかりストッパーを持っておかないと引きずり込まれる』


 アプリを開く南田の隣で九条も〈agent〉のアプリを開いた。また今日もやりたくもないゲームの世界に閉じ込められる。


アバターを通したバーチャルな犯罪劇。

ゲームの中では殺人も強盗もいじめも強姦もなんでも許される。この中では悪人こそ正義の世界。


『殺したい奴なんかいないのにゲームの殺人に快感を覚えてる自分に気付いて怖くなった。それがきっと、一課長がこのゲームを注視してる理由だよな』

『俺もヤバくなった時は彼女の写真見て正気保ってる。最後はやっぱり、こっち側に繋ぎ止めてくれる存在が必要なんだよ』


 南田のアバターはナイフを、九条のアバターは銃を持ち、残虐に街で殺戮を繰り返す。

警察官の彼らがゲームの中では犯罪者となって次々に人を殺していく。


殺しのターゲットとの対戦は格闘ゲームで勝った時のスカッとした気分ではない。ドロドロとした、人間の底辺の感情が引きずり出されてくる。


『俺は神田を繋ぎ止めておける存在になれると思う?』

『さあ? でもバディを続けたいなら恋でも情でも、形はどうあれ彼女を手放すなよ』

『わかってる』


 最後に必要なのはこちら側に繋ぎ止めてくれる存在。美夜がもし、この手を必要としてくれるなら絶対に手を離さない。


恋でも情でもこの際、自分の感情はどちらでもよかった。

彼女が隣にいてくれさえすれば。

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