3-5
闇に月が浮かんでいた。明日が満月の月はほとんど綺麗な円形をしている。
追いかけても追いかけても満月に似た月は逃げていく。手を伸ばしても届かない月を追うように、彼女は夜道を走り続けた。
スマートフォンの地図で現在の位置情報を確かめた。位置情報は浜松町二丁目、港町架道橋と呼ばれるトンネルが近くにある。
高架の線路下に作られた港町架道橋は口が狭い入り口から覗くセピア色の内部が夜間に通行するには少々抵抗がある。入り口の側に無人のクロスバイクが放置されていた。
いつでも腋の下の拳銃を取り出せるようにジャケットの懐に手を忍ばせ、意を決して彼女はトンネルに足を踏み入れる。
洞窟のような不気味な雰囲気を漂わせるトンネルの中央にふたつの人影が見えた。
影のひとつがゆらゆらと揺れ、尻餅をついて着地した地面を後ずさっている。
間違いない。地面に近いあの影は伊吹大和だ。
『あ……っ……刑事さんっ! 助けてっ!』
美夜に気付いた大和が震える声で助けを呼ぶが、もうひとつの長い
ふたつの影に近付くにつれて大和を見下ろすもうひとつの影が鮮明になる。黒い背中がこちらを振り向いた瞬間、戦慄の衝撃が美夜を襲った。
「どうしてあなたが……」
トンネルを照らすオレンジの光を背負って木崎愁が立っていた。見慣れた黒いスーツに黒い革靴、ムゲットで相席した春雷の夜と同じ装いの彼の手には、黒革の手袋とサイレンサーを付けた拳銃が重々しく存在している。
愁の足元で
下に散らばる大量の一万円札はざっと数えて二十枚程度。大和はそれを必死でかき集めているが、今はそんなことをしている場合ではない。
崩れそうになる精神を懸命に保ち、美夜は大和の盾となって愁の前に立ち塞がった。じりじりと間合いを詰める愁に後退しつつ、懐から取り出した銃を愁に向ける。
「伊吹さん立って! 早く逃げなさいっ!」
愁の気迫に圧倒された大和は金を握り締めて動けずにいる。美夜でさえも愁が醸し出す殺気には油断すると足がすくむ。
インカムに接続しようと耳元に伸ばした指が固まる。仲間に繋がるこの送信ボタンが押せないのは目の前にいる男が木崎愁だから。
『そいつを
冷たく吐き捨てられた言葉で心が
苦しい、痛い。心が、痛い。
会いたいと焦がれた男に会えたのに少しも嬉しくないのは何故?
何故、互いに銃を向け合っている?
これは夢? 幻? 嘘?
何故、何故、何故?
『自分のやってることが虚しくならないか? そいつが何をしたかわかってるだろ』
「どんな人間でもこの男が悪人でも、人の命を守るのが警察の職務。私には彼を守る責任がある」
『それはお前の本心じゃない』
見透かされた心が泣いて叫んでいる。
正直な気持ちを述べれば大和の命に守る価値はない。
集団強姦、リベンジポルノ、事あるごとに親の権力を振りかざしてワガママ放題な伊吹大和はろくでもない人間だ。
大和のせいで未来ある女性が自ら命を絶った。そんな男を守りたくもない。
『そこの男は莉愛のリベンジポルノのフル動画を金と引き換えに買おうとした男だ』
「フル動画……?」
『世間に流れたのは伊吹らの顔をモザイク加工した短い動画だ。フル動画には伊吹や仲間の顔が映ってる。加工なしの動画を全世界に配信すれば、こいつはどこに行ってもアイドルを強姦した犯罪者扱いだ。それを避けるために、馬鹿正直に金を持ってここまで来たんだよなぁ?』
愁の鋭い視線が直撃した大和が声にならない悲鳴をあげている。
保身のためのさらなる保身。保身のための金。保身のための権力。大和も彼の父親も人間の汚い闇を凝縮させた集合体。
けれど命は命。奪われていい命はないと、本心から綺麗事を吐けるほど美夜は人を信じていない。
人を殺したいと思った自分が
だから選んだ刑事の道は10年前の自分への決別と
「私が刑事だって知ってたの?」
『ああ』
「伊吹の警護をしてることも……」
『知っている』
「どうして……」
一歩一歩、近付く愁に後退する美夜。銃を持つ手は動揺で震え、構える姿勢が崩れかけた彼女の隙を愁は逃さない。
躊躇なく銃口の前に立つ愁の冷たい瞳が泣いているようで、泣きそうな彼の表情に気を取られているうちに美夜は愁に抱き寄せられた。
『じっとしてろよ』
耳元で囁かれた愁の声は不思議と優しい。後頭部を抱き抱えられ、押し付けられたスーツの肩口から愁の香りがしてこんな時でも心が高鳴る。
このぬくもりに会いたかった。
こんな最悪な形ではなく、明日の夜に……。
愁の腕に閉じ込められていた緊迫の数秒間は美夜にとっては地獄の夢。サイレンサーをつけていても銃声は鈍く轟き、彼が銃を撃った際の振動がこちらにも伝わってきた。
しんと静まるトンネル内で動く鼓動は二人分。愁の拘束を解かれても怖くて後ろを振り向けない。
背後には愁に銃殺された伊吹大和がいる。銃声はたったの一発。確実に一発で仕留めるなら頭か心臓、愁はどちらかを撃ち抜いている。
生死の確認をするまでもなく即死だろう。
『俺を逮捕しないのか? 目の前で人を殺したんだ。刑事なら逮捕しろよ』
「全部わかっていて、この状況で……なんでそんなことを言うの……?」
『お前になら捕まってもいいと思った。それだけだ』
先ほどまでトリガーを握っていた彼の黒革の手が美夜の目尻から溢れた雫に触れる。愁の手や袖口から香る硝煙の匂いが、彼が何をしたのか物語っていた。
接触するふたつの唇は熱を帯び、官能を感じるままに男と女はひとつに溶けた。唇を
溶け合ったぬくもりが離れても美夜はそこを動けずにいる。
身を
二十七歳最後の夜に交わした殺人者との口付けは、血と火薬の臭いにまみれた優しい殺戮の味だった。
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