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 夜の路地裏に響く男の鈍い呻き声。闇と同化する黒い服を纏う夏木伶は地面に突っ伏す男に馬乗りになり、体重をかけて男の首を締め上げた。


もがく男の両手を抑えつけているのは前畑亨太。伶が手に持つロープを男の首から引き抜くと、前畑は動かない男の顔を恐る恐る覗き込んだ。


『……死んだか?』

『脈もない。死にましたよ』

『……ははっ。凄いや。本当に殺したんだな……』


 男の死亡を確認したとわかるや否や、前畑はその場に崩れ落ちる。眼鏡を外して涙を拭いながら笑う前畑の心境が伶には理解不能だった。

前畑の目の前で伶がたった今殺した相手は前畑の主である伊吹啓太郎だ。


『やった。これで僕は自由だ。やっと自由になれた』


 いまだに地面に尻をつけて伊吹啓太郎の死体を眺める前畑を横目に、伶は路地の片隅に放った自分のリュックから封筒とUSBメモリを取り出した。


『例の動画のデータと少しばかりの報酬です』

『ありがとう。どうやってもあの動画のフル映像は手に入らなかったんだ。大和くんのスマホから盗もうと思ってもなかなか上手くいかなくてね』


前畑の目当ては望月莉愛のリベンジポルノのフル動画。USBメモリと現金入りの封筒を嬉々として受け取った前畑の無防備な背後に伶は忍び寄る。


『……ぐっ……』


 前畑の身体に押し付けたスタンガンが放電すると、前畑の身体はぐらぐらと揺れて、彼は伊吹啓太郎の死体の横に倒れ込んだ。


『ご協力ありがとうございました。あなたは用済み……というよりが依頼内容なんですよね』


 前畑が握り締めた手から抜き取ったUSBメモリの中身は空。最初から彼にフル動画のデータを渡すつもりはなかった。


 共犯関係を結ぶにあたってこちらが動画を持っていることを匂わせるために、瀬田聖のスマホからコピーしたリベンジポルノの動画の一部は前畑に見せている。


残りの楽しみは計画が終了した報酬にとでも言えば、前畑は簡単に餌に食い付いてきた。


 どうせ前畑は莉愛の強姦動画を閲覧できない運命だ。

死人にはスマートフォンもパソコンも扱えない。そもそも殺された人間には娯楽の権利すら与えられない。


 気絶した前畑の襟元に蛇のようなロープがしゅるりと、巻き付けられた。


        *


 ビジネスホテルの小さな窓に地方都市の夜景が光る。寝心地の悪いシングルベッドに占領された狭い部屋でひとり、彼は味の薄いコーヒーを飲んでいた。


ローカル局のニュース番組がこの地方の気象情報を伝えている。見慣れない地形と土地の名前が並ぶテレビ画面で彼はついつい東京の文字を探してしまい、思わず苦笑いが溢れた。


 ──【あなたの復讐は完遂されました。アプリを脱会してアンインストールしてください。】──


 先ほど〈agent〉アプリに届いたこのメッセージを彼は何度も黙読する。復讐は完遂された。

これで望月莉愛の復讐は終わった。


彼はメッセージに従ってアプリの脱会の手続きとアンインストールを行う。すっかりホーム画面から消え去った〈agent〉を彼が利用する機会は二度と訪れない


 彼が〈agent〉に復讐代行を依頼した人数は六名。

莉愛を集団強姦した瀬田聖、増山昇、伊吹大和、彼らと繋がりを持って強姦を仕向けた小柴優奈、示談金を積んで息子の罪を隠蔽した悪徳弁護士の伊吹啓太郎と伊吹の秘書の前畑亨太。


 リベンジポルノの示談についての話し合いで前畑亨太が現れた時の莉愛の凍り付いた顔を彼は今も覚えている。


澄ました表情で示談の話を進める弁護士秘書は、何度も莉愛を出待ちしては盗聴器や隠しカメラ付きのプレゼントを押し付ける悪質なファンだった。


 前畑の行動は次第にエスカレートし、出待ちだけでは飽き足らなくなった前畑は莉愛の後を付け回すストーカーとなった。ストーカーがなに食わぬ顔で示談の話し合いの席に現れたのだ。

莉愛はさぞ怖かっただろう。


 ホーム画面に並ぶアイコンから彼は画像フォルダのアイコンをタップする。フォルダには彼と莉愛が過ごした優しい思い出の結晶が詰まっている。


彼と莉愛は愛し合っていた。互いの立場上、おおやけにできる関係ではなかったが、二人は人知れず愛を育んだ。


 莉愛を見出だしたのは彼だった。関東地方のダンスコンクールを観覧していた彼はコンクールの出場者で一際輝く少女を見つけた。


スラリと長い手脚に小さな顔、恵まれたスタイルもさることながら抜群のリズム感にチャーミングな笑顔が可愛い少女はコンクールで総合三位と健闘していた。

その少女こそ、当時十五歳の高校一年生だった望月莉愛だ。


 彼はすぐさま莉愛をスカウトした。彼女はダイヤの原石、磨けばどこまでも光輝ける。


 彼の想像を越えて莉愛はまばゆい輝きを放つ唯一無二の存在となった。

約束されたスターへの階段を二人三脚で駆け上がるうちに、彼が莉愛に心奪われ、莉愛の彼への想いが信頼から恋心に変化するのも時間の問題だった。


 愛の告白は莉愛からだった。彼は莉愛の将来と己の立場を考え、最初は彼女の想いを受け入れなかった。

もちろん彼も同じ気持ちでいた。莉愛を女性として愛しく感じていた。


けれど自分の存在が莉愛の足枷あしかせになることを恐れ、いつか莉愛が自分から巣立つ時に彼女を手離せなくなるかもしれないと怖くなった。


 マネージャーとタレント。その一線は越えてはならないと、彼は莉愛に言い聞かせた。

それでも莉愛は彼を愛し続けた。

彼もまた莉愛を愛し続けた。


 彼が莉愛と心と身体を結んだのは莉愛の十八歳の誕生日の夜。

あの日に初めて彼と莉愛はキスをして身体を重ね、同じベッドで朝まで眠った。堂々とデートはできなくても莉愛の部屋で落ち合い、二人は甘い時間を過ごした。


 しかし公私ともに順調とはいかなかった。2016年5月にフルリールの一員としてデビューしたものの、莉愛を悩ませたフルリールのメンバーとの確執。


親友の高倉咲希以外の三人は莉愛への嫉妬にまみれて執拗に莉愛をいじめていた。


 さらには彼と莉愛がキスをしている現場を優奈に目撃され、最も知られたくなかった優奈に秘密を握られてしまった。


このままでは莉愛の才能も夢も潰されてしまう。莉愛のために事務所からの独立を考えていた矢先、あの集団強姦事件とリベンジポルノ事件が起きた。


 指先ひとつで人は殺せる。それを理解している人間がこの腐った街にどれだけいる?


 ねじ曲げられた真実、拡散するリベンジポルノ動画、世間からの罵詈雑言の誹謗中傷。

ある者は面白がり、ある者は罵り、ある者は後ろ指を指し、ある者は笑顔で陰口を囁く。

それによってひとつの儚い命が消えた。


 壊された幸せ、壊された二人の夢。

ひとりきりになった彼は莉愛の墓前の前で決意する。莉愛を自殺に追いやった者共に復讐を、制裁を。


 指先ひとつで人を殺せる。それをこの手で証明してやる。

そうして彼……国本和志は人の心を捨てた。


 莉愛のいなくなった世界は薄汚れた灰色の世界。こんな世界で生きていても意味がない。


 これからどこに行こう。

東京から遠く離れたこの街の夜景は東京に比べればちっぽけで光も弱々しい。

でもこの街で国本の顔も素性も知る者は誰もいない。今はそれがとても心地よかった。


 明日のことは明日考えよう。

この命が尽きるその日まで、莉愛の歌声を心に響かせ彼は目を閉じる。


今宵、夢で会えたらいい。最愛の君と。

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