2-15

 舞が1歳の誕生日を迎えた直後、紫音はこの世を去った。

部屋で首を吊る紫音を発見したのは6歳の伶だった。紫音の命を奪った凶器は彼女が趣味の園芸で使用していたロープだと以前に伶は話していた。


『あなたの嫁か愛人か知らないが、紫音はある女に嫌がらせされていたらしいじゃないですか。明智も舞が自分の娘ではないと薄々気付いていた。それがビジネスパートナーのあなたの子だと明智は思っていなかったようですが、結果的に明智とあなたのせいで紫音は死んだ。あの子は不倫なんかできる子じゃないのに……すべてはあなたが紫音をたぶらかしたせいだ』


 もうひとり、紫音を苦しめていたある女の存在。その女の顔が脳裏によぎると愁はいつも頭が痛くなる。


『君は紫音を清楚な女だと勘違いしていないか? 私は君以上に紫音を知っている。私に抱かれている時にのみ、紫音は女に戻っていた』

『うるさいっ黙れっ! 人の妹を魔性の女のように……! 僕の紫音は清らかで控えめで、清楚な子だ』


 自分のフィルターを通して見える理想の妹を偶像崇拝する哀れな兄は、妹に家族以上の歪んだ愛情を抱いている。

嫉妬に狂った化け物に成り果てた雨宮は立ち上がり、薄ら笑いを浮かべて絶叫した。


『じゃあこっちも教えてやる。舞の初めての男は僕だ。あんたと紫音の愛の結晶は僕がぐちゃぐちゃに汚してやった。舞はもっともっとって自分から股を開いて何度も誘ってくる女だ。舞の身体にセックスの快楽を植え付けたのはこの僕だっ!』

『君はまだ勘違いをしているね。それが私への復讐になるとでも? 私が紫音以上に舞を愛してると思っているとしたら勘違いも甚だしい』


 雨宮の盲点は夏木に対する復讐になると思い込んでいたところだ。

舞を傷付けても夏木には痛くも痒くもない。血を分けた娘も夏木十蔵にとってはビジネスの道具でしかないのだから。


雨宮は何も言えなかった。考え抜いた復讐の一手が夏木にかすり傷も与えられなかったショックが彼を魂の脱け殻の棒人形に変えてしまった。


『舞を狙って私の弱点をついた気になってさぞ気分が良かっただろう。そうして舞を人質にいつまでも私から金をむしりとろうとしていたのだとすれば考えが甘い。……愁、後は任せる』


 くだらない小競り合いを延々と聞かされていたこちらの身にもなれと、愁は夏木を睨み付ける。結局、最後に手を汚すのはいつだって愁だ。


スーツの懐に忍ばせていたワルサーがシャンデリアのライトの下にお目見えする。セイフティが外された銃口は真っ直ぐ雨宮を向いていた。


『俺に明智信彦の殺害を命じたのが誰かわかるか? そこにいる夏木十蔵だ。強請ゆする相手を間違えたな』


 雨宮は声も出せず、震える足を動かして銃口から逃げ出した。紫音の日記帳も一億円のアタッシュケースも持たずに広い室内を逃げ惑う雨宮の頭に無慈悲に弾丸が放たれる。


ぐにゃりと床に崩れ落ちた雨宮の頭部から流れる赤い血がカーペットを汚く濡らす。それを見た夏木は大袈裟に肩をすくめた。


『カーペットを新調せねばならんな。これをすぐに処分しろ。目障りだ』

『……会長、木崎さんの様子がおかしいです』


 日浦の視線の先には大の字に伏して絶命した雨宮を見下ろす無表情の愁がいる。愁はもう一発、さらに一発、動かない雨宮の全身に銃弾を撃ち込んだ。


夏木邸の壁も床も防音仕様だ。サイレンサーをつけていない愁のワルサーからは、けたたましい銃声が響いている。


『……愁、すぐに処分しろと言ったのが聞こえなかったのか?』


 夏木の言葉を無視して愁はまだ雨宮を撃ち続けた。死体を蹴り飛ばして仰向けになった胸部に五発目、腹部に六発目、七発目を撃ち込んだ。


『木崎さん、そのくらいに……』

『心配しなくても正気は保ってる。本音は最後の一発をあんたの頭にぶちこんでやりたいですよ。……会長』


 止めに入った日浦の手を払い除け、雨宮に向けていた銃口は夏木十蔵に向いた。ワルサーに残る弾はあと一発。

銃を向けられても愉快に微笑する夏木の顔が憎らしい。血の臭いがたちこめる部屋で愁と夏木の視線が交差した。


『私を殺したいか?』

『殺したいですよ。聞きたくもない口喧嘩を黙って聞いていて俺も確信しました。舞を紫音さんの代わりにしているのは会長も同じですよね。雨宮もあなたも同類だ。あなたには舞への愛情の欠片もない』

『自分は舞への愛情があると言いたいようだな』

『会長よりは舞の内面を見てきたつもりです。会長は母親と顔が似ている舞の外面しか見ていない。あなたはファムファタールの亡霊に今も喰われ続けている』


 夏木も雨宮も紫音の面影を通してしか舞を見ない。紫音のフィルターを通してしか舞の話をしない。

舞が本当は何を欲しがっているのか夏木は理解する気もないのだろう。


舞が欲しいのは自分をちやほやしてくれる男でも愁が与える愛情でもない。人生に極端に欠落してしまった“親の愛情”だ。


 日浦が呼び出した部下達が雨宮の死体処理をする間、夏木は別室で悠々と真夜中の晩酌を楽しんでいる。


傍らに控える愁も夏木に付き合って酒を呷る。12年前に母親を殺した時でさえ愁の心は静かだった。

どうしてこんなに怒りに震える?

感情を制御できなくなる殺人は初めてだった。


『あの女とまだ会っているようだな。伶と舞に会わせたと聞いた』

『プライベートをどう過ごすかは俺の自由でしょう』

『私が命じればお前は神田美夜を殺せるか?』

『刑事を殺すとなると色々と下準備が必要ですよ。殺せと言われてもすぐには無理です』


 わざわざ今、美夜の話題を持ち出す夏木は愁を試している。夏木とは出会った頃から常に腹の探りあい。

本心を明かさない自分達も所詮しょせんは同類だ。


『お前が神田美夜を殺らないなら伶に殺らせるまでだ』

『伶にジョーカーを継がせるつもりですか?』

『そのためのエイジェントだろう。伶の方がお前より優秀なジョーカーになるかもしれんな』

『伶も舞も会長の手駒にはさせません。あんたの手駒になるのは俺ひとりで充分だ』


 空になった琉球りゅうきゅうガラスのぐい飲みをテーブルに残して愁は夏木邸を辞する。


 秋の夜長の風は湿気ていた。雨は止み、赤坂まで歩いて帰るにはちょうどいい涼しさだ。

愁は濡れたアスファルトに寂しげに佇む。曇った夜空の磨りガラス越しにぼやけた月が浮かんでいた。


 街の喧騒と真夜中の静寂。湿った空気に乗る膨らみかけの月。辺り一面、影しか見えない深い闇。

心に住み着いて離れてくれない女と同じ名の夜が、愁を包んでいた。



Act2.END

→Act3.月夜の原罪 に続く

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