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 動画データがあのUSBメモリだけとは思えない。他にもコピーが作られている可能性は夏木も愁も承知している。


『約束の物だ』

『感謝します』

『こんなはした金のために手の込んだイタズラをしたものだ。舞に近付いたのも舞が私の養女と知ってのことだろう?』

『雨宮紫音をご存知ですよね。あなたが無理やり我が物にした僕の妹です』


 金を受け取っても雨宮は腰を上げない。

利口な人間は金を持って黙って立ち去る。それが最善だと利口な人間は心得ているからだ。

馬鹿な人間はどうしても世間話をしたがる。むしろ雨宮の目的はここからが本番だろう。


『無理やりとは失敬だな。紫音さんは確かに存じている。私がビジネスで付き合いのあった明智くんの奥方だからね』

『その前からあなたは紫音と面識がありましたよね。……これは紫音の日記です』


雨宮はA5サイズの古びたシステムノートをバッグから取り出した。


『紫音が自殺した後、明智に頼まれて僕が紫音の荷物を埼玉まで引き取りに行ったんです。この日記は明智家で紫音が使っていた部屋で見つけました。ここに真実が書いてあります』


 紫音の名を表す紫のカバーのシステムノートは表面がわずかに剥げている。紫音が長年使い込んでいた証だ。


『あなたと紫音が知り合ったのは紫音が明智家に嫁ぐ前、あの子がまだ高校生の頃だった。雨宮分家主催の生け花の展示会であなたに声をかけられたと書いてありますよ。その後もあなたとは個人的な交流があったとも』


遺族であっても死んだ者の日記や手紙は閲覧を躊躇う。せいぜい遺品の整理で流し読みする程度が常識の範囲内。

雨宮のように妹の日記を懇切丁寧に持ち歩いて事細かに日記の内容を把握するのは如何なものか。


『その頃、あなたはすでに結婚していましたよね。なのに紫音を口説いていた。僕は妹が妻のある男にたぶらかされているなんて全然知らなかった』

『君は誤解をしている。その頃の私と紫音は深い関係にはなかった。茶飲み友達とでも言うのかな。紫音を愛しく感じてはいたが、彼女の未来を私は優先したんだ』

『紫音の未来を考えて手を出さなかったと?』

『当然だろう。悪党だのゲスだのと罵られる私でも、いくらなんでも未来ある未成年に不倫はさせない。私は君とは違うよ』


 これは夏木からの雨宮への最大の皮肉だ。皮肉の意味を悟った雨宮は反論の言葉を喉を鳴らして呑み込んだ。この話題はが悪いと判断したようだ。


『だが、紫音の未来は幸福なものではなかった。嫁いだ相手が悪かったんだ』

『それについては同感です。縁談の話は明智家から持ち込まれました。僕は反対したんですがね。明智からのしつこいアプローチでこちらは大事な妹を嫁がせたのに、明智は紫音に暴力をふるっていた』


 代々不動産業を営む明智家の長男、信彦は埼玉のホテルで行われた資産家のパーティーに招待されていた。そこで同じく雨宮分家の長女として出席していた雨宮紫音を見初める。


東京まで通いつめて紫音を口説くも紫音からも雨宮家からも良い返事はもらえなかった。最後は多額の金と引き換えに念願叶って紫音を妻に迎えたが、明智が本性を現したのはそれから間もなくのこと。


『明智の暴力が酷くなった原因はあなたにもありますよね。紫音の日記には舞が生まれてからさらに暴力が酷くなったと。伶も虐待に遭っていたようですが、生まれたばかりの舞にも明智は手をあげそうになったと書かれています』

『赤子まで虐待しようとは、恐ろしい男だな』

『本当に恐ろしいのはあなたと明智のどちらでしょうか? あなたは明智との生活に疲れていた紫音に優しくするフリをして紫音を自分のものにしたんだ。舞は明智の娘じゃない。あなたが嫌がる紫音を犯してできた罪の子だ』


 雨宮の瞳が鋭く光った。雨宮と夏木、両方の顔色を観察できる位置にいる愁は紫音を巡る二人の男の言い争いを冷めた眼差しで傍観する。


『また君は誤解しているね。紫音との関係は認めるよ。だが、紫音の方から私を頼ってきたんだ』

『そんなはずない。紫音は……』

『人の話は最後まで聞きなさい。君の言うように紫音は明智との結婚生活に疲れていた。明智の実家には馬が合わない姑がいる、雨宮の分家が明智家に融資を受けていた関係で離婚したいとも言い出せない。あの頃の紫音の立場は非常に辛いものだった』


 夏木と紫音の関係の始まりを愁は夏木から聞かされている。伶を出産後、初めての育児、癇癪かんしゃく持ちの夫から吐かれる暴言や暴力、あげくに義実家との関係に紫音は疲れていた。


 埼玉の明智家まで紫音を見舞った夏木に紫音はすがりつき、抱いて欲しいと懇願したそうだ。

伶はまだ生後10ヶ月だった。昼寝をする息子の隣で夫以外の男に自ら望んで抱かれる母親の光景は想像を絶する。当然、伶は何も知らない。


夏木と紫音の不倫関係は以降も長く続いた。当時、既に夏木コーポレーション社長の立場にあった夏木は多忙な仕事の合間を縫って埼玉に通い、明智の目を盗んで夏木と紫音は逢瀬を重ねる。


『私はできることをしたまでだ。初めて出会った頃から紫音がいとしかった。私の愛を彼女は受け入れてくれたよ。紫音と愛し合った結果、生まれたのが舞だった』


 時には紫音が東京の夏木の自宅を訪ねることもあった。幼い伶を雨宮の実家に預けている間、紫音は夏木の自宅で一時の女の時間をたのしんだ。


妻の朋子が家にいても堂々と夏木と紫音は身体を重ねた。

朋子は昔話を愁に語る際、たびたび紫音をしたたかな小悪魔と罵るが、それも致し方無い。


愛のない夫婦だとしても悪びれず愛人を自宅に招き、自分の目の前で紫音を愛する夫の裏切りに堪えきれなくなった朋子は鎌倉に家を購入、夏木夫婦は別居の道を選んだ。


 朋子と愁の肉体関係もこの辺りから始まった。朋子の愁への寵愛は若い愛人を可愛がる夏木への当て付けの意味も含まれていた。


『舞をあなたと紫音の愛の結晶扱いしないでください。舞を産んだことで紫音はもっと苦しめられた。日記には自殺する前日までの紫音の心境が書いてあります。死を選ぶ直前の紫音は何かに怯えていた。外出も怖がっていた節がある』


 紫音の自殺には複雑な事情が絡んでいる。


 冷えきった夫婦仲でも明智と紫音には定期的に夫婦の営みがあったと言う。けれどそれは性暴力同然の行為、夫との交わりでは身体も心も紫音は満たされなかった。


妊娠のタイミングを考えれば夏木と明智、どちらの子か紫音にはわかる。やがて生まれた娘が自分の種の子ではないと気付いた明智の紫音への束縛と暴力は一層激しくなった。

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