2-13

 千代田区のビルの狭間から木崎愁は空を見上げた。

頭上の空は月も星もない濁った暗色。夕方から降り出した雨は降ったり止んだりを繰り返している。

満月に近付いて膨らんでいるはずの月は今宵もその姿を見せてはくれない。


 東紺屋町歩道橋の階段を上がる。わざと遅くした歩みは沸き上がる怒りを制御するために必要な時間。

東紺屋町歩道橋は橋の一部が首都高に食い込む形で設置されている。首都高と接する部分はトンネル式になっており、歩道橋を渡る者は下の道を行く人々の視界から一瞬だけ消える。


 相手が指定した時間まで5分早いが、隠れ蓑の橋のトンネルには男が立っていた。

こちらの顔は確認済みということだろう、男は愁が名を名乗らなくても勝手に口を開いて喋り始めた。


『君の話は舞からよく聞かされているよ。ずいぶんなつかれてるようだね』

『舞とはいつから会っていた?』


愁がねめつける相手は雨宮冬悟。伶と舞の血の繋がった伯父だ。


『あの子が中学三年生の時に街で声をかけた。もちろん偶然を装ってね。舞は素直に育ったねぇ。あの子は僕を“優しい吉田さん”だと思い込んでいるよ』

『その優しい吉田さんが自分の裸の動画を隠し撮りして養父に送りつけていると知ったら舞はどう思うだろうな』


 欄干らんかんにもたれかかる雨宮は鼻で笑った。舞が紫音に似ているのだから紫音の兄の雨宮の面差しが舞に似ているのも必然。

特に人を小馬鹿にする意地の悪い微笑は舞が時折見せる表情にそっくりだ。顔だけなら舞は夏木よりも伯父の雨宮に似ている。


これは遺伝子の悪戯。舞と重なる雨宮は愁にとって対峙したくない相手だった。


『君は舞に本当のことは言わない。今日も舞とはメッセージのやりとりをしたんだ。僕が舞の裸が見たいと言ったら喜んで裸の写真を何枚も送ってきた。素直で従順で、馬鹿な子だ。顔は紫音に似ていても舞はやはり育ちがいけないのかな』


 今の発言で確信した。雨宮は舞に少しも愛情を抱いていない。伯父としての愛情も男の愛情も、彼の言葉には舞への愛情の片鱗すらなかった。

紫音の身代わりに舞を欲する点では夏木も雨宮と同類だ。誰一人、舞自身を必要としていない。


だから舞は必要とされたくて考えなしに男に身体を差し出す。そうすれば誰かに必要とされると彼女は知ってしまったから。

確かに舞は馬鹿だ。けれど未成年の姪に手を出した最低な男に舞を侮辱されたくなかった。


『夏木会長の自宅に案内する。下で車を待たせている。一緒に来てもらおう』

『本当は直接そちらに伺ってもよかったんだがね。僕が訪ねたところで門前払いされるだけだろう?』


 こんな男と肩を並べて歩きたくもない。愁は今度はわざと歩を速めて歩道橋のたもとまで向かう。

階段を降りる時に背後を一瞥すると雨宮は愁の後ろを遅れてついてきていた。


 待機させていた車に乗車しても尚、後部座席の上座に座る雨宮はくどくどと紫音の話を語って聞かせた。


紫音がどれだけ思慮深く優しく、器量も良い女だったかを陶酔の眼差しで語る雨宮は愁からすれば気持ちが悪い。

妹を称賛するにしても度が過ぎている。雨宮の紫音への情愛は家族の領域を超えていた。


 右耳から入る雨宮の話を聞き流していた彼が初めてまともに雨宮の相手をしたのは話題が舞に及んだ時だった。


『君はなぜ舞の好意を受け入れなかった?』

『好意に応えることが本人のためになるとは思えない。未成年なら尚更だ』

『君が舞を愛していれば、あの子は僕を求めなかった。そうは思わないか?』


雨宮も夏木会長と同じことを言う。すべては愁が舞を女として愛さなかった結果だと言いたげな口振りに苛つきが増す。


『あまりくだらない御託を並べるなよ。お前の借金は調べがついている。舞の動画を条件に会長に金を都合させるつもりだろう?』

『話が早いな。少々まずい連中から金を借りてね。金と、できればそちらで連中と話をつけてもらえると助かるな。可愛い娘のためなら夏木会長はそれくらいお手のものだろう?』


 愁は返答しなかった。後の話は虎ノ門の夏木邸に着いてからだ。

愁と雨宮を乗せた車は虎ノ門のタワーマンションの地下駐車場で停車した。日頃、夏木の自宅を訪ねる時と同様に愁は住民専用のエレベーターに雨宮と共に乗り込んだ。


『一介の秘書に自宅の合鍵まで渡しているとは、夏木十蔵に相当信頼されているんだね』

『ただの年寄りの世話係だ』


 最上階の夏木邸では家主の夏木十蔵ともうひとりの秘書の日浦一真が待ち構えていた。二十畳あるリビングに敷かれた毛の長いカーペットを踏み締めて雨宮冬悟は夏木に会釈する。


『ご足労いただいて申し訳ないね』

『僕こそ不躾なメールを送り付けて大変失礼致しました。快く迎えてくださって恐縮です』


夏木も雨宮も表面上は笑顔を取り繕っている。

自宅まで呼びつけたことも不躾なメールも両者の本心からの詫びではない。腹の中に一物抱えている者同士、水面下の攻防戦は始まっていた。


 日浦は茶の用意で離れている。愁はジャケットのポケットに両手を突っ込み、立ったまま壁に背をつけた。

ソファーで対面する夏木と雨宮はまだ笑顔を保っている。


『金の用意はできているが、舞の動画の元データと交換だ。まずデータを渡してもらおう』

『わかりました。……こちらです』


大理石のセンターテーブルの中央に小さなUSBメモリがひとつ置かれた。


『データはこれで全てか?』

『ええ、全てですよ。ここで中身を確認いただいても構いません』

『そんな不粋な真似はしない。……日浦、あれをここへ』


 コーヒーを運んできた日浦に夏木は次の仕事を命じる。頷いた日浦は部屋の片隅で待機するアタッシュケースを運んできた。ケースの中身は現金一億円だ。

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