2-12

 落ち着かない秋の天気に振り回されてテラスの植物達も元気がない。伶の母と同じ名を持つ紫苑の花も花瓶に残るのは最後の一輪になってしまった。


 花の手入れを済ませて夏木伶が室内に戻ると、妹の舞はリビングの大きなテレビを独占していた。

舞は高倉咲希の移籍会見の生中継を観ている。毛嫌いしていた咲希が本当は望月莉愛の友人であり、推しだと称して応援していた小柴優奈は薬物中毒だった。

その小柴優奈を手にかけた犯人が兄だとは夢にも思うまい。


「咲希って良いとこどりだよね。咲希だけが自分の思い通りの結果になって悔しいって言うかぁ、納得いかないって言うかぁ……」

『それがビジネスってものだよ。ビジネスとして考えれば高倉咲希の移籍の判断は妥当だと思う』

「ええー、なんか気に入らなぁい。UN-SWAYEDも好きだったけどぉ、一気に嫌いになりそう。舞は、嫌いな人間が仲良くしてる人のことも嫌いになっちゃうタイプだもん」


 舞は伶が手作りした紅茶のクッキーを尖らせた口で貪っている。片手にクッキー、片手にスマホを携えてソファーに怠惰に寝転がる舞は、動物に例えるならナマケモノだ。


『スカートめくれてパンツ丸見え。少しは気を付けなさい』

「お兄ちゃんしかいないのに気を付けなきゃいけない意味がわかんない」

『お兄ちゃんしかいなくても寝転がった時のスカートの裾くらいは直せよ』

「はいはい」


 注意をすればすぐに口答え。伶の言うことをまるで聞かない舞はリビングに入ってきた愁を見た瞬間に髪とスカートを整えて跳ね起きた。

凄まじい変わり身の速さだ。だらしない姿は兄の前では見せられても、好意を抱く男に対する羞恥心はかろうじて失ってはいないらしい。


 愁は昨晩も帰宅が遅かった。あと少しで正午になる時間にやっと起き出した愁は鈍重な動きでリビングを横切る。


「愁さん愁さんっ! あのね、ミッドタウンに新しいお菓子のお店が出来てね……」

『悪い。頭が痛いんだ。遊び行きたいなら伶に頼んで』


彼は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本取り出し、抱き着く舞をやんわりと振り払った。伶にも舞にも一瞥をくれずに愁はまた部屋に引きこもってしまう。


「……愁さん、最近機嫌悪いよね? 舞とも目を合わせてくれないの。舞、何かしたかな?」

『仕事で色々あるんだろ。体調も良くないようだから今はそっとしておきな。舞が悪いんじゃない』


愁に拒まれたショックが相当大きかったのだろう。舞の瞳には涙が滲んでいる。


 愁との同居生活も長い。愁は舞の前では裏の一面を見せないように努めている。

会長秘書とジョーカー、二つの顔を使い分ける愁はそのどちらも家には持ち込まない。

仕事とプライベートの切り替えのできる人だった。だからこそ最近の愁の様子は確かにおかしい。


「仕事が忙しくてもきっと神田さんとはデートしてるんだよ。最近、帰りが遅い日が多いもん」

『あの人のことは気にしないって言ってなかった?』

「そんなの無理だよぉう。だって……けっこう美人で、愁さんとお兄ちゃんの難しい話にもついていけるなら頭も良いんでしょ?」

『確かに頭の回転は速い人だったね』


 神田美夜の容姿は芸能人と並んでも引けをとらない。整形と化粧で作り上げた小柴優奈の顔と比較しても美夜の顔立ちは天然の造形美と言える。

結構美人と言い表したのも舞なりの強がりだろう。


加えて美夜の出身大学は東京大学と同レベルの国立大学法学部だと、夏の美夜との会食の世間話に知った情報だ。その経歴に恥じない程度には美夜は思慮深い人だった。


 初めて味わう劣等感に舞は苦しんでいる。

不動産会社社長の娘に産まれ、今は長者番付常連の夏木グループ会長の娘。


美夜とは種類の違う可愛らしく整った顔立ち。残念ながら成績は優秀とは言えないが、成績不振から生じる諸々の問題は親と金の力で解決してきた。


 人生を負け知らずで歩んできた舞にとって神田美夜は初恋の恋敵にして最大の障害物なのだ。


 愁の機嫌の悪さと美夜への劣等感に落ち込む舞が喜ぶように、昼食は舞の好きなフルーツサンドイッチ。具はサワークリームに無花果いちじくと巨峰とマスカットを挟んだ季節のサンドイッチと、苺だけを挟んだサンドイッチの二種類。

あとの一種はノーマルなタマゴサンドを作った。伶はサンドイッチを持って愁の部屋を訪ねた。


『愁さん、入りますよ』


 応えが返らない無言の扉を開け、愁の部屋に入室する。部屋はカーテンが締め切られていて薄暗い。黒で統一されたベッドに愁が寝ていた。


『具合どうです? サンドイッチ作ったので、ここに置いておきますよ』

『ああ。……夜から出掛ける。それまでは寝るから夕食はいらねぇよ』

『あっちの仕事の?』

『そうだ』


 ラップに包まれたサンドイッチが載るトレーをデスクに置いても伶はまだ退室しない。愁は伶の視線を鬱陶しそうに避けて寝返りをした。


『……話があるなら早く言え。昼飯届けに来ただけじゃないだろ?』

『会長に神田美夜の素性を聞きましたよ。俺達には区役所の職員だと嘘をついていましたけど、本当は警視庁捜査一課の刑事なんですね』

『お喋りなジジィだな』


ベッドから苛立ちの舌打ちが聞こえた。人型に盛り上がった山が崩れ、上半身を起こした愁が伶をねめつける。


『あの人とまだ会っているんですか?』

『プライベートは俺の自由だ。誰と会おうと指図される筋合いはない』

『でも相手が刑事となれば話は別です。……本気ですか?』

『だったら何?』


 その返答は伶の意表を突いていた。探ろうとしても探らせてくれない愁の腹の内はまったく読めない。


『会長の意向次第では神田美夜は俺が始末します』

『……伶』


 ベッドを降りた素足の足音が伶の目の前で立ち止まる。愁と伶では伶の方がわずかに身長が低く、見上げる形となった愁の形相は夜叉そのもの。


『たかが二桁殺しただけで調子に乗るな。お前は人の行動をネットで監視して支配した気になっている。“殺してくれてありがとう”と言われる側になった自分に酔ってるだけだ』


近付く愁の静かな威圧感にたじろいだ。後退りして壁際に追い込まれた伶は震える唇を必死で動かしても声が出せない。


『いいか。俺達は正義のヒーローじゃない。自分が悪人を裁いているなんて思い上がるなよ。夏木が何を言おうと必要があればあの女は俺が殺す。お前は手出しするな』


 初めて会った春雷の夜と同じ、暗い瞳の男がここにいる。長年の同居で忘れかけていた愁の正体を伶はまざまざと思い知った。


愁は伶の父親を殺した男。

夏木十蔵専属の殺し屋。あのジョーカーなのだ。


 殺されるかもしれない……。10年前の春雷の夜でさえ感じなかった恐れの感情は、愁の部屋を出ても膨らみ続けた。

全身の震えがなかなか止まらなかった。

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