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 レンジの前で熱を加えられながら回るチキンナゲットをぼうっと眺めていた伶の耳は玄関の扉の開閉音に反応する。


「ただいまぁ。はぁー、重かったぁ」


 軽やかな足音を従えて妹の舞がリビングに入ってきた。肩や手に提げた大量の買い物袋をソファーに置いた彼女はそのまま荷物の山に埋もれて座った。


『おかえり。今日も沢山買ったな』

「そろそろ冬物も欲しくて、新作のバッグとコートとブーツも買っちゃった。でもちょっと買い過ぎちゃって、ここまで運んでくるの大変だったよぉ」


舞が引き連れてきた紙袋は大きなものから小さなものまで六つある。小さな紙袋の中身はハイブランドのアクセサリーだった。

夏木に渡されているクレジットカードで購入したのだろう。


舞はカードの請求額なんて気にしない。そろそろまともな金銭感覚を身につけさせなければと思いつつ、伶も愁も舞を甘やかしてしまう。


「あー、ナゲットとポテトっ! お兄ちゃん今日はハンバーガー食べたの?」

『夕食作るのが面倒だったんだ。食べる?』

「食べるぅ」


 伶が食べるはずだった残りのナゲットとポテトは妹に渡る。口に頬張ったハッシュドポテトを咀嚼する舞はリビングのチェストに視線を移した。


「今年もいつものお花飾ってる……」

『母さんの誕生日だからね』


 今日は伶と舞の母親、紫音の誕生日だ。伶は毎年、紫音の誕生日に母と同じ名を持つ紫苑シオンの花を生ける。


「お母さんってどんな人だった?」

『舞が母さんの話を聞きたがるのは珍しいね』

「だって毎年、お母さんの誕生日にお母さんと同じ名前のお花を飾るでしょ。お兄ちゃんが知ってるお母さんはどんな人だったのかなぁって。舞、お母さんの記憶ないんだもん」


薄紫の花を咲かせる紫苑の別名はおに醜草しこぐさや、十五夜草じゅうごやそうおもぐさとも呼ばれる。


『母さんは優しい人だった。優しくて料理と園芸が好きで、よくお菓子を作ってくれたよ。シフォンケーキが旨かったな』

「お兄ちゃんが園芸と料理が好きなのもお母さんの遺伝かな?」

『舞には遺伝しなかったけどね。観葉植物を草だと言うのは止めなさい』

「うるさぁーいっ!」


 紫苑の花言葉は追想。伶の思い出にいる母は庭の花の手入れとキッチンに立っている時だけ、楽しそうに笑っていた。


 母の笑顔を曇らせていたのはいつも父だ。泣きながら庭の花を世話する紫音の小さな背中に抱き付く幼い伶の丸い頬には、父に平手で叩かれた赤い跡がくっきり残っている。

ごめんね、ごめんねと、紫音は何度も伶に謝っていた。虐待を受ける伶を守るために紫音が殴られ、彼女の身体はアザだらけだった。


紫苑は優しい思い出と苦い記憶が混雑する追想の花。


「舞のママは京香ママだからなぁ。お兄ちゃんは京香ママあんまり好きじゃないよね」

『そんなことないよ』

「京香ママの話するといっつも怖い顔してる。今も怖い顔になってますぅ」


 無意識に強張っていた口元にチキンナゲットを押し込まれた。伶が半分かじったナゲットは舞の口に消える。


『舞は口にケチャップがついてます』

「んー、ねぇ、お兄ちゃん拭いてぇ」

『しょうがないな』


 舞の唇や口の端についたケチャップをウェットティッシュで丁寧に拭ってやる。冬には十六歳になる舞は、伶と愁の前では甘えん坊だ。

愁の前では女の顔で甘える舞も伶の前では子どもの顔で甘えていた。


伶に口を拭いてもらう間、舞はキスでも待っているみたいに目を閉じてじっとしている。


『……舞』

「なに?」

『舞のファーストキスの相手、実は俺なんだけど覚えてる?』

「ええっ?」


 ぱちっと目を見開いた舞はケチャップが拭われた赤い唇に触れた。ソファーに並んで座る舞のふわふわの髪が伶の指に絡み付く。


「ウソウソ嘘! 嘘だよね?」

『本当。舞が五歳の時かな。お兄ちゃんにおやすみなさいのちゅーしてあげるって言って俺の口にキスしてくれたよ』


赤くなったり青くなったり、顔色を変えて狼狽える妹の様子がおかしくて笑えてくる。


「舞のファーストキスはお兄ちゃん……なの?」

『あからさまにガッカリされるとお兄ちゃんは悲しい』

「ごめんね……。うーん、だけどあの頃のお兄ちゃんはめちゃくちゃかっこよかったから……。もちろん今もかっこいいよ!」


 舞は伶の膝の上にぴょんと飛び乗った。向かい合わせに抱き付いて首もとにすり寄る舞の長い髪を伶の大きな手が優しく往復する。


 伶と舞は大学生の兄と高校生の妹にしては距離感が近い。幼い頃に血の繋がりのある家族が伶だけとなった舞にとって伶は兄でもあり、母親であり父親でもある。

伶のこれまでの彼女達の中には舞との近すぎる距離感に嫉妬した女もいたが、伶と舞の間には純粋な兄と妹の愛情しかない。


「お兄ちゃんのファーストキスも舞?」

『それはどうかな』

「違うの? 小学生でもう彼女いたのぉ? ……お兄ちゃんならいそう……」


 舞は相変わらず伶の膝に乗ってぶつぶつと独り言を呟いている。兄のファーストキスの相手に真剣に考えを巡らせる舞が可愛くて堪らない。


「もしかしてファーストキスの相手は京香ママ?」

『……あの人は母親じゃないか』

「だけど京香ママはお兄ちゃんのこと好きだったよ」


上目遣いに伶を見つめる舞を伶も見つめ返す。また怖い顔になってると指摘されるかと思えば今度は舞も何も言わなかった。


『……なんでそう思う?』

「なんでだろ? 舞は小さかったからよくわかんないけど、京香ママなりにお兄ちゃんのこと可愛がってたよね。それに舞がお兄ちゃんにキスしたくなったのは、たぶん京香ママがパパとキスしてるのを見てたんだと思うの。京香ママとパパって子どもの前でもラブラブしてたでしょ?」


 京香と父は確かに伶や舞の前でも平然とキスをしていた。子どもの前でも性欲を剥き出しにする京香と父は存在自体が気持ち悪い。


伶が精通を経験したのも、夜の浅い時間に行われた京香と父の情事の声だ。小学生の伶がこれまで耳にしたことのない女の甲高い声が、伶の身体を少年から男に変えた。


「お兄ちゃん?」

『ああ……ごめん』

「お風呂入ってくるね。ナゲットとポテトご馳走さまでした」


 膝から舞の重みが消える。大量の買い物袋を舞ひとりで運ばせるのは可哀想で、舞が風呂の支度をしている間に伶が半分以上を舞の部屋に運び込んでやった。


 ──“京香ママはお兄ちゃんのこと好きだったよ”──


 舞の言葉が頭から離れない。否定したくても否定できなかったのは、あの女に植え付けられたトラウマのせい。


 ──“ねぇ伶。10年後も私を抱いてね? ハタチのあんたはすごくいい身体になってるだろうから……ああ、楽しみ。これからも私以外の女を抱いちゃダメよ……”──


自分以外の女は抱くなと京香にかけられた呪いに逆らって伶は多くの女を抱いた。

どんな女を抱いても抱いても、目の前の女が京香に見えて、女が喘げばそれは京香の喘ぎ声に聴こえる。


 今もたびたび京香の夢を見ては夜中にうなされて跳ね起きる。冷や汗が滲む最悪の悪夢は、二十歳の伶が京香を抱く夢だった。

この夢が京香が望んでいた理想の10年後だと思うとぞっとする。


愁に殺されても京香はしぶとく生き続けていた。

伶の悪夢の中で。

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