1‐11
港区虎ノ門に
今夜は日浦も家政婦もいない。自宅には夏木ひとりだった。
『急ぎの仕事はなかったはずですが、何か?』
『今日は舞はどうしていた?』
『俺もいちいち舞の行動のすべてを把握していませんよ。学校の友達と遊びに出掛けると伶からは聞いています。門限は21時ですし、もう帰ってきているでしょう。会長が舞の予定を気にするとは珍しいですね』
『それが本当に学校の友達なら私も文句はない』
夏木のしかめ面は毎度のことでも今夜は彼の表情がやけに強張っている。口調も刺々しい。
無言の夏木はノートパソコンの画面を愁に向けた。パソコンには動画ファイルのデータが取り込まれている。
『これは?』
『とにかく動画を再生してみろ』
数秒待った後に再生された動画には一目で情事の最中とわかる裸の男と裸の女が映っている。男は中年、女はどう見ても未成年だ。
聴こえてきた甘い声は紛れもなく舞の声。ベッドの上で舞は男に背後から抱き抱えられている。
舞の下半身の中心部に沈む男の手が卑猥に動くたび舞は甲高く鳴いて法悦の表情を見せた。
『……舞と一緒に映っている男の身元は?』
『雨宮冬悟。雨宮の分家長男だ』
『じゃあ……まさか……』
動揺の間に映像が別アングルに切り替わる。ベッドに折り重なる二人は腰を小刻みに動かしながらキスをしていた。
男と女の結合部から漏れる水音も舞の喘ぎ声も聴きたくもない。本音は今すぐ見た映像を記憶から抹消したかった。
吐き気を堪えて愁は細部を観察する。舞達がいる部屋はピンク色の壁紙に赤いベッドカバーが毒々しい。
撮影場所はラブホテルで間違いない。
『舞はカメラの存在に気付いていませんね。男はたまに視線がカメラを向いている。アングルのパターンは二つ。カバンや腕時計にでも小型カメラを仕込んでいたのでしょう』
最初の動画のアングルは寄りの構図だった。この位置はおそらくベッドのサイドテーブル。
寄りの映像は腕時計型のカメラ、引きの映像はソファーかテーブルにでも置いたカバンに仕込んだカメラで盗撮したのだろう。
『この映像はいつ届いたんですか?』
『今朝、私宛に動画付きでこのメールが届いた。ご丁寧に差出人の名前つきだ。雨宮の奴、ふざけたことを』
愁は動画が添付されたメールの本文を黙読する。差出人は雨宮冬悟。
内容は失笑するくらい予想通りだった。要は金の話、舞の動画と引き換えに夏木に金を都合しろと雨宮は要求している。
要求金額は一億。
『どうするつもりです?』
『奴にくれてやる金などない』
『けれど向こうは舞の動画を持ってる。下手な真似をすればリベンジポルノをされかねません。これがネットに流されたら夏木コーポレーションとしても大打撃になります』
『動画は元のデータを回収しろ。あとの始末はわかってるな? 舞にも伶にも秘密裏に処理しろ』
面倒事はすべて愁に押し付ける。夏木十蔵はそういう男だ。
どうしてこんな事態になってしまったのか、元を辿れば元凶は夏木自身にあると言うのに、この男はまったく悪びれない。いつもそうだ。
『舞には紫音さんの存在は明かしていなかったんですよね』
『実の母親が死んでいるとは伶から聞かされているはずだが、紫音の記憶はほとんどないだろう』
伶と舞の産みの母親の名は明智紫音。旧姓は雨宮。
雨宮家は京都に拠点を置く名門の華道家。紫音の実家は雨宮流の東京の分家であり、彼女は雨宮分家の長女だった。
紫音の兄が
伯父と姪が肉体関係を持った。近親相姦の動画を見せつけられて今にも身体中の胃液が逆流しそうだった。
『舞にとっての母親はお前が殺したあの女だ』
『俺に明智と後妻の女を殺すよう命じたのはあなたですよ』
舞の戸籍上の父親である明智信彦と後妻の京香は10年前に愁が殺害した。夏木と信頼関係を築けていると思い込んでいた明智の、愁に銃口を向けられた瞬間の蒼白の表情は10年経っても忘れない。
『お前が手に入ればあの子もこんな馬鹿な真似は止めるだろう。舞がお前を欲しがるなら、望み通り抱いてやればいい』
『こんなクソ動画を観た後によくそんなことが言えますね。会長は倫理的におかしい』
『ほぉ、お前が倫理を語るとはな』
『俺はあなたよりは倫理は欠如していない。俺が舞に手を出さない理由を会長ならわかっているでしょう』
舞を抱けなどと冗談でも言われたくなかった。
愁が舞と肉体関係を結べば舞は満足する。夏木の言うように愁を手に入れたら舞も他の男に身体を差し出す行いはしない。
それでは何の意味もなく、問題は何も解決しないと愁はわかっている。舞の希望を叶えることは舞の人生を破壊するのと同義だ。
『あなたとの本当の関係を舞に一生言わないつもりですか?』
『言ってどうなる。舞は私の養女、それで充分だ』
『雨宮家の人間も舞の父親は明智だと思っている。でもこのメールを読む限りは、雨宮冬悟は舞の出自を知っていますよ。何故です?』
『さぁな。雨宮に聞いてみればいい。奴が口を割るかはわからんがな』
気だるげに煙草をふかす夏木の意識はここではない場所にある。舞のことよりも彼は紫音のことを考えているのかもしれない。
夏木の宝物は雨宮紫音だけ。他の人間は彼の道具に過ぎない。
明智信彦もどこかで気付いたはずだ。舞が自分の娘ではないと。
親の愛情が極端に足らなかった舞は愛情を強く欲している。愛して、愛して、と、親に向けられるべき矢印は愁に向けられた。
『子どもを愛せないなら作らないでください。産まれるしかなかったこっちはいい迷惑です』
冷たく吐き捨てて夏木に背を向けた。逆流しそうな胃液を必死で押さえ込んで地下駐車場の車に逃げ込んだ愁は、震える手で白色のスマートフォンを掴む。
シートに背中を深く預け、トークアプリの通話ボタンを押す。相手が出てくれるかわからない電話でも心地よく響く呼び出し音が愁を
少しでいい。
美夜の声が聞きたかった。
少しでいいから。
美夜に会いたかった。
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