1-5

 警視庁五階の廊下に足音が響いている。徒競走でもするように足並みの揃わない二人分の足音が床に刻まれた。


『なんで俺がお前と肩並べて歩かないとならないんだ』

『ぐちぐち言ってないで歩け。一課長の呼び出しで遅刻なんかできないぞ』


九条は南田と口喧嘩しながら共に五階の第三会議室に向かっている。伊吹大和を帰した直後、二人は上野一課長から呼び出しを受けた。


『お前が伊吹にぶちギレてる時、伊吹が神田さんを見ていたのに気付いたか?』

『そこまで自分を見失ってねぇよ。あのボンクラクソ息子、うちの神田をやらしい目で見やがって』


 美夜に向けられた大和の粘着な視線に気付けないほど頭まで沸騰していたわけではない。あの時、腕に触れていた美夜の微かな震えがこちらまで伝わってきた。


強姦事件を起こした男にあんな風に品定めの視線を送られたら刑事でも怖くなる。気丈な美夜が気味悪がるのは無理もない。


『刑事でも身体は女だ。彼女のこと気を付けてやれよ』

『お前に言われなくても、いざという時は俺があいつの盾になる』

『そういう恥ずかしいことを昔からサラッと言うから嫌いなんだよな』

『別に南田相手に言ってないだろ。お前の盾になんか一生なってやらねぇぞ。自分の身は自分で守れ』


 第三会議室の扉を前にしてもどっちがノックをするかで小声で揉め、結局はジャンケンをして南田がノックの権利を勝ち取った。


『失礼します』


緊張の面持ちで入室した九条達を迎えた上野は何故か笑いを堪えている。


『どちらがノックをするかはジャンケンで決めたのか?』

『一課長……聞こえていましたか?』


 廊下でのやりとりが筒抜けだと知った九条は赤面し、南田は額を押さえて狼狽える。とうとう上野は快活に笑い出した。


『歳はとっても耳は衰えちゃいない。廊下はもう少し静かに歩けよ』

『はい……。申し訳ありませんっ!』


 頭を下げて謝罪する二人を穏やかに諭した上野は、九条と南田に着席を促した。上野の隣席に腰を降ろした九条達の前に二つのスマートフォンが置かれる。


『スマホですか?』

『お前達が捜査で使っているものと同じ警視庁が契約しているスマホだ。このスマホを使ってやってもらいたいことがある』

『何を……?』

『端的に言えば、データ収集のための被験者だ』


上野は二台のスマホの横に分厚い資料ファイルを添えた。付箋ふせんが貼られたページはある二つの事件の捜査資料だ。


『8月に起きた江東区の看護師殺人と雑司ぞうし女子大学生殺人。お前達も概要は知っているだろう。特に九条は江東区の事件は神田の付き添いで聴取に立ち会っていたな』

『はい。江東区の事件は被疑者は起訴されたと聞いていますが……』


 事件のひとつは九条には馴染みのある江東区看護師殺人。犯人の玉置たまき理世りせが取り調べの担当刑事に美夜を指名したことで、バディの九条も取り調べの一部始終を見聞きしている。


 もうひとつの雑司が谷の女子大学生の殺人事件は九条も南田も関わりはない。

資料によれば被害者がマッチングアプリを利用していた関係の痴情の縺れの線で捜査は進められたが、被害者とマッチングで接点があった男にはアリバイがあった。

こちらの事件はまだ未解決だ。

(※どちらの事件も【episode3.夏霞】参照)


『今回、問題となるのは被害者側だ。江東区看護師殺人の被害者の下山しもやま祐実ゆみと、雑司が谷殺人の被害者、芹沢せりざわ小夏こなつの両名のスマートフォンから同じゲームアプリが見つかった。お前達に渡したスマホに同じアプリをインストールしてある』


 九条と南田は支給されたスマホをそれぞれ起動させた。ホーム画面に並ぶ通話やメールのアプリの横に、黒色の四角いアイコンが孤独に居座っている。


『……agentエイジェント?』

『代理人って意味だな』


 アプリの名前はagentエイジェント。南田が言うように意味は代理人。


『クライムアクションゲームと呼ばれるジャンルのゲームだ。現実には禁止されている犯罪行動をゲームで体験することを目的に作られている。この手のゲームの経験はあるか?』

『パズルゲームなら空き時間にプレイしますが、さすがに犯罪系のものは……』

『俺もスポーツ系のアプリゲームなら経験ありますけど、クライムアクション系は興味がなくて』


刑事であるからには情報のアンテナは常に張り巡らせている。巷で流行りのクライムアクションゲームは経験こそなくとも知識は九条と南田にもあった。


『警察官としては優秀な答えだな。これがサイバー課が把握している〈agent〉アプリの詳細だ。後で目を通しておいてくれ。ゲーム自体の苛虐かぎゃく性は警察が定めたR指定基準に違反する点は見当たらない。現時点では別件の殺人事件の被害者二人のスマホから同じゲームアプリが見つかったと言うだけだが……』


 別々の事件関係者のスマートフォンに同じゲームアプリがインストールされていただけでは偶然の一致で終わる。そんなことを言い出せばランキング上位のSNSアプリやゲームアプリは誰もが保有しており、キリがない。


警察が動くには他に理由がある。九条の視線が渡された〈agent〉に関する資料と上野の顔を行き来した。


『下山祐実と芹沢小夏は殺される少し前に自分名義の銀行口座から十万を引き出している。さらには二人が殺害される前の月の〈agent〉内での課金が最高額の八万円に到達していた』

『下山祐実の十万の話は聞いてます。でもゲームの課金で八万って……』

『二人は重課金者だったんですね』


 スマートフォンゲームアプリの最高課金額は五千円未満が一般的な数字だ。しかし中には数万円や十万以上の多額の課金を費やしてしまう重課金、廃課金と呼ばれる利用者も存在する。

祐実も小夏も相当な重課金プレイヤーだ。


『下山祐実の十万の使い道を夫は知らない。学生の身分の芹沢小夏に十万の出費は痛手のはずが、小夏が十万円分の買い物や支払いをした形跡はなかった。二人の家族も彼女達が何に十万を使ったのか心当たりがないそうだ』


重課金者と使い道不明な十万円の行方。〈agent〉の資料と共に芹沢小夏の捜査資料を眺めていた九条はある事実に気付く。


『一課長、小夏の殺害方法も絞殺ですね。それも凶器は太さ八ミリの園芸用と思われるロープ。増山の解剖はこれからですが、おそらく凶器も瀬田と同じタイプのロープですよ。まさか……』

早合点はやがてんは禁物だぞ。小夏と瀬田や増山の殺害方法の類似は慎重に捜査を進めていく方針だ』


 以前にも絞殺事件があった。九条がデリヘル嬢連続殺人の捜査をしていた春、九条の上司の小山真紀と杉浦誠が別件の事件で捜査を抜けていた時期がある。


あの上中里かみなかざと主婦絞殺事件も犯人の目星はつかず、事件から半年が経過しても未解決のままだ。

(【episode1.春雷】参照)

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