3-12
静かな部屋で時計の針が泣いている。
間もなく22時。美夜の誕生日の終了まであと2時間だ。
今年も祖母からは宅配でプレゼントが届けられた。宅配便の中身は祖母が趣味で通っている陶芸教室で作ったご飯茶碗と湯呑み。
同封された達筆な文字のカードにはちゃんと米を食べろとのメッセージ付きだった。
母からは何の音沙汰もない。父は言わずもがな、二人とも今日が娘の誕生日であることも忘れているだろう。
今さら寂しくはなかった。
祝ってくれるのはいつも神田家と松本家の大好きな祖父母達だった。
そろそろシャワーを浴びて寝てしまおうか。そう思いつつソファーに寝転んで彼女はスマートフォンのトークアプリを開いた。
木崎愁とのトーク画面には昨晩と今朝に美夜が送ったメッセージの下についた既読の文字と、出てくれなかった電話の履歴が虚しく並んでいる。
漏れる溜息は落胆と安堵のどちら?
来ないで欲しい、来て欲しい。
会いたくない、会いたい。
忘れたい、忘れたくない。
拮抗する想いが美夜の心を掻き乱して壊していく。
春雷の相席も梅雨の夜に酌み交わした酒の味も、花火の音を聴きながら交わしたキスも首都高から見た東京の夜景も、期待できない誕生日の約束も、月夜の晩に明かされた真実も……。
春と夏と秋、愁と過ごした季節の記憶すべて、このまま静かに明日を迎えて明後日になって、そうして静かに消えて欲しかった。
何もなかったことにして忘れて消えたら、この心の痛みも消えてくれるの?
彼が自分とは絶対に相入れない存在だと知っても、まだ彼を待ち続けている自分に呆れ果てた。
手元のスマホが軽やかなメロディを鳴らして着信を告げる。期待に一瞬疼いた心をどうにか鎮め、怖々と目にした画面の名前に涙が滲んだ。
どうして忘れさせてくれない?
どうして消えてくれない?
「……もしもし」
{……今、家の前にいるんだけど}
鼓膜に届いた待ち続けた彼の声。止められない衝動が彼女を窓辺に誘った。
開いた窓から顔を出すと暗がりにのっぽの人影が見えた。あの立ち姿は紛れもなく木崎愁だ。
「……おかげさまで5日間の謹慎処分になりました」
{暇なら二人で旅行でも行くか?}
「謹慎の意味わかってる? 家から出るなってことなの」
{クソ真面目な女だな。……部屋、入れてくれない?}
電話越しの愁の息遣いすら美夜の心臓を騒がせる。部屋に入れたら最後、引き返すなら今だ。そんなことわかっている。
「今オートロック開ける。部屋は三○三号室」
{ん。じゃ、後で}
ぷつりと通話の途切れたスマホが何か言いたげに主を見上げる。暗くなった液晶画面には引き返せない地獄への覚悟を決めた神田美夜が映り込んでいた。
愁が玄関に入った途端に美夜の身体は愁の長い腕に包み込まれた。彼の胸元に顔を押し付けられて、ぎゅっと強く抱き寄せられる。
本当はずっと愁が来てくれるのを待っていた。ずっと、ずっと待っていた。
スーツからは嗅ぎ馴れた甘い煙草の香りがした。昨夜も同じように抱き寄せられて、愁は美夜の背中越しに伊吹大和を撃ち殺した。
彼は殺戮の瞬間を美夜には見せなかった。あの時の愁がどんな表情で人を殺したのか、美夜は知らない。
「伊吹を殺した時に私も殺せばよかったのに」
『だから殺しに来た』
女を
「本当は何しに来たの?」
『逮捕されに?』
「捕まる気なんかないくせに」
『捕まえる気もないくせに』
密着した身体をわずかに離して彼女と彼は視線を合わせた。乱れた美夜の黒髪を優しく撫で付けた愁の手が彼女の顎を持ち上げる。
『誕生日の夜は空けておいてって約束しただろ』
「薔薇の花束は?」
『忘れた』
「嘘つき」
『嘘つきな男は嫌い?』
「……大嫌い」
薔薇と同じ色をした美夜の唇に愁の唇が接触する。軽い接触を繰り返した唇はやがて深い場所まで繋がりを求め、隙間もなく密着した身体はひとつになりたいと叫び始めた。
キスの合間に漏れる二人分の吐息が今後の展開を示唆している。これは地獄への真夜中の楽園に続く道。
ふわりと浮き上がった美夜の身体と反転する視界。愁に横抱きにされて連れて行かれた先は自分のベッドだ。
美夜の身体をベッドに柔らかく着地させた愁はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、緩めたネクタイを解きほどく。
これから始まる原罪に心を整える間、美夜は豪快に服を取り払う彼の仕草を目で追った。
そんなに見るなよと苦笑する愁の上半身を覆う物はすべて剥がれて、筋肉が引き締まった男の肉体が見慣れている天井の景色に入り込んだ。
「あの……ちょっと待って……」
『待てもお預けもなし』
有無を言わさず愁は美夜が着ているワンピースタイプのルームウェアを足元から一気にたくしあげる。そのまま頭を通り抜けたルームウェアは美夜の身体を離れていった。
額と額をつけて至近距離で視線が絡む。
「したことないの。……セックス」
『これまでの反応でだいたいわかってた』
「二十八で処女は面倒って思ったでしょ?」
『俺ってそんな酷い男に見える?』
「見える」
ふっと笑った愁の穏やかな瞳は伏せられて、磁石のように引き寄せられた唇同士は言葉もなく互いの唇を貪り尽くす。
角度を変えて何度も何度もキスの洪水が二人を濡らす。口内で絡めた二つの舌は甘ったるい咀嚼音を奏で、キスの海に溺れた苦しさと切なさが二人の心を締め付けた。
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