エピローグ

エピローグ

 恋も愛も知らないままでいたかった──。


         *


 誰時たれどきとは明け方を意味する言葉だ。

黄昏時はたれかれ、どちらも空が薄暗く、人の区別がつきにくい明け方や夕暮れ時を表している。


 彼は誰? あれは誰?

薄闇の先で彼を待っていたのは細くて華奢な白い肩。その肩を昨夜、両腕に抱いた。

許されない恋を閉じ込めた真夜中の楽園は耽美たんびな甘さを引き連れて消え失せた。


 10月25日の朝焼けは淡く霞んだ薄曇り。夜の名残のインディゴは次第に薄まり、ラベンダーへと色を変える。

ラベンダーと薄紅とだいだいの水彩絵の具が作り出す一瞬の自然の絵画が、都会の空に広がった。


 木崎愁は抱いた女と朝を迎えない男だ。愁にとって女との一夜は愛を語る行為ではなく本能的な精子の放出活動に過ぎない。

今までの女とは、そうだった。


 抱いた女の隣で彼は初めて夜を越した。狭いシングルベッドから目にする窓越しの朝焼けは特別な感傷もなければ絶望もない。


あるとすれば、彼と彼女の腕には同じ鎖が巻き付いている。赤い糸なんて綺麗なものではない、罪人を拘束するための鉄の鎖。


 朝焼けの光に照らされながら彼女の寝顔を眺めていた彼は視線を上げた。ベッド横のキャビネットに控えめに存在する黒いリボンがかけられた赤い箱が目に留まる。


 彼女は昨日が誕生日だった。誰かに贈られたプレゼントが部屋にあってもおかしくはない。

無意識に箱に伸びた手を押し戻し、彼は自嘲の笑みを口許に宿す。彼女がどこの誰から、どんな贈り物を貰っても彼女の自由だ。


我ながら初めて自分が嫉妬深いと知った。この小さな赤い箱を見ていると沸き上がる黒い気持ちはきっと独占欲と呼ばれる感情。


 勝手に拝借したバスルームでシャワーを浴びても真夜中の余韻が染み付いた肌からは彼女の香りが濃く漂う。バスルームに置かれたシャンプーは彼女の艶やかな黒髪と同じ匂いだった。


 彼が着替えている間も彼女は目を開けなかった。

一晩中、二人は情欲に溺れて抱き合っていた。睡魔に堕ちる直前までキスは何度繰り返したかわからない。


彼女の肌を駆け巡った彼の唇や舌先も彼女の奥まで何往復も行き来した彼自身も、さすがに今朝は生気を亡くしている。

それでも、抱いても抱いても足りなくて欲望のままに彼は彼女を掻き抱いた。


 彼も疲れていたが、彼女はもっと疲れているだろう。タヌキ寝入りができる器用な女ではない。

心も身体も消耗しきっている彼女はシャワーの音にも、彼が落とした頬へのキスにも気付かないほど寝入っていた。


 起き抜けに吸った煙草の甘さがまだ室内に漂っている。

ウィンストンの白い箱に残る本数は三本。一本引き抜いて二本にした煙草の箱をリボンでめかしこんだ赤い小箱の傍らに添えた。


 火のついていない煙草を咥え、ライターと携帯灰皿をスーツのポケットに収めた彼は振り返らずに彼女の部屋を後にする。


置き去りにされた煙草の箱は先に真夜中を抜け出した主の代わりに、まだ夢の楽園を彷徨さまよう彼女の寝顔を永遠に眺めていた。



episode4.【月影】ーENDー

→あとがきに続く

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