2-9

 九条が戻ってきた。助手席の扉から車を降りた美夜に九条が告げる。


『雪枝ちゃんを学校に送っていくから』

「わかった」


九条の後ろを一歩引いて歩く少女がうつむく顔を上げた。利口そうな少女の瞳が戸惑いに揺れる。


「この人は……」

『前に話したよね。バディの神田さん。仕事中は彼女と常に一緒に行動してるんだ』


 美夜も一緒だと知った途端に雪枝の表情に影が落ちた。影の種類はそれまで彼女が背負っていた戸惑いや怯えではない。もっと怒りに近い、黒い影だ。


「……やっぱりいいです。学校には自分で行きます」

『えっ? 雪枝ちゃん待って! 急にどうしたの?』


膨れっ面でイヤイヤと駄々をこねる雪枝を必死でなだめる九条の側で美夜は溜息をついた。

九条から聞いていた話通りなら雪枝は秀才の優等生のはず。だが今の彼女は単なるお騒がせのワガママな少女だった。


「このままひとりでいれば補導されるよ。子どもっぽく駄々こねてないで、大好きな九条くんに学校まで送ってもらえば? 申し訳ないけど私達もあなたのワガママにいつまでも付き合っていられるほど暇じゃないの」


 優等生は無意識に上から人を見下ろしている。凄いね、偉いねと称賛される環境に慣れ、知らず知らずに優越感の海に浸り、そこから這い上がれなくなる。

時には大人を見下す彼らの上から目線な物言いも、成績が良ければ許される。


だから自分よりも立場が上の人間に命令口調で指図されると優等生は屈辱的な気分になるのだ。

この人にはかなわないと思い知らされることを優等生は何よりも嫌う。


 案の定、雪枝は悔しそうに美夜をねめつけていた。睨みの眼差しから伝わる雪枝のはっきりとした敵意を美夜だけが感じ取っている。


『お前はもう少し言葉選べよ……。今のはキツイぞ?』

「言葉を選んで優しくするだけが教育じゃない。時には荒療治も必要よ。ほら、荒療治の成果出てるじゃない?」


 美夜と九条の目の前で雪枝は警察車両の後部座席の扉を開け、自分から車に乗り込んだ。

九条が引き留めても従わなかったのに美夜に挑発された直後に大人しくなった雪枝の心理は、九条にしてみれば訳がわからないだろう。


「……フルリール?」

『車汚くてごめんね。雪枝ちゃんが見るものじゃないよ』


雪枝が乗り込んだ後部座席のシートには週刊ルポルタージュが放置されていた。九条が取り上げる一瞬の隙に表紙の赤文字を目にした雪枝はフルリールの単語に反応を見せる。


「私、フルリール嫌いなんです」

『そうなんだ』

「嫌いな人が好きな物って無条件に嫌いになるんですね。私の嫌いな人がフルリールの小柴優奈が好きって言ってたけど、小柴優奈って薬物やっていたんですよね? そんなアイドルが好きなんて人を見る目ないですよね」


 美夜も九条も無言で雪枝の辛辣な言葉を受け止める。今は叱責の時間ではない。


 動き始めた車内で美夜のスマホに主任の小山真紀から連絡が入った。捜査中に学校をサボった女子高校生を補導し、学校に送り届ける道中であると真紀に伝える。

少女が九条の知人だと言うことは事態が厄介になるため伏せた。


 雪枝を港区芝の紅椿学院高校まで送り届けた帰り道、九条が冴えない表情で溜息をついた。


『あれで良かったんだよな?』

「大人としても警察官としても学校に行かせた九条くんの対応は適切だった。だけど九条くんって鈍感? 本当に気付いてない?」

『何を?』

「あの子、車にいる私を見た途端に機嫌が悪くなったのよ」

『つまり……?』


 ここまで言ってもわからないこの男は心底鈍感だ。

走行中もミラーを通して後部座席の様子は把握していた。雪枝の視線は運転席の九条に注がれていた。あれは恋をする女の眼差しだ。


「雪枝ちゃんは九条くんが好きなの。私でも気付いたのよ?」


 九条の様子にそこまで驚きの気配はない。どこかで察していた雪枝の好意に彼は気づかないフリをしていたのだ。


『さすがに高校生はまずい。俺は刑事だし……』

「そうやって年齢や職業を言い訳にして逃げないでよ。世話を焼くのも大概にしないとそのうち自分の首を絞めるよ。現に、今日厄介なことになったじゃない?」

『いや……それはそう……だよな。でもあの子に好かれるようなことは何も……』

「私には経験がないからわからないけど一般論として、話を親身になって聞いてくれる年上の優しいお兄さんがいたら思春期の子は恋愛感情を抱くものだと思う」


運転席で唸る九条は赤信号になるとハンドルに額を寄せて項垂うなだれた。彼はまだ唸り声をあげている。


『参った……。俺はどうすればいい?』

「知らない。自分で蒔いた種は責任持って自分で収穫しなよ」


 ポタ、ポタ……と、フロントガラスに水滴が着地する音が響く。天気予報通りの雨が降り出した。

雪枝を保護したのが雨が降る前で良かった。雨の街ではいくら傘を所持していても公園に長居はできない。雨宿りに店に入れば補導のリスクは高まる。


『雪枝ちゃんが学校行きたくないと思う理由の俺の予想聞いてくれる?』

「聞くよ。ひょっとしたら私と同じ予想かもしれない」

『……いじめだよな?』

「十中八九ね。頭は良い子のようだから、ああいう子が学校に行きたくない理由は他に思い当たらない。雪枝ちゃんをいじめてる子が小柴優奈のファンだったのね」


 小柴優奈が殺された事件を皮肉る雪枝の口振りには憎悪がこもっていた。フルリールや優奈に対してではなく優奈を好きな、特定のある人への憎悪だ。


 仕組まれた集団強姦とリベンジポルノの悲劇。

望月莉愛も高倉咲希もその場でできる最善の選択をしても、彼女達の選択は正しくはなかった。結果として莉愛は自身を苦しめ、咲希は友達を苦しめた。

最善の選択が最悪の結末を生み出してしまう。


 小柴優奈は正しくあれなかった。

何が彼女を闇に誘ったのかはわからない。薬物に魅入られた優奈はクスリに溺れ、男に溺れ、人気のある莉愛への嫉妬に狂って莉愛を陥れた。


『学校のいじめ問題はよほどの事件でも起きない限り警察は介入できねぇんだよなぁ』

「よほどの事件も起きなくていいよね。学校での出来事は学校で完結してしまうから親も手出しできない領域でもある。難しいね」


 正しさを主張する人間は集団からうとまれやすい。莉愛のリベンジポルノ関連の掲示板でも、掲示板の住民達に真っ向から正論を振りかざす者が現れるたびに言論の炎は勢いを増した。


正論は時と場合によっては鎮火の水にすらならないことを、正論を語る人間は知らない。正しさしか主張できない人間は正しくあれない人間の存在を許容しない。


 雪枝も正しくあれない人間の存在を許容していなかった。

“正しさ”に潜む真っ暗な落とし穴を少女はまだ、知らないのだろう。

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