2-8

10月18日(Thu)


 小柴優奈の死体は港区六本木七丁目の公園の公衆トイレ内で見つかった。


死因は高濃度の覚醒剤注入による急性薬物中毒。優奈の身体には真新しい注射痕が見つかったが、使用した注射器はトイレや公園のどこからも発見できなかった。


 優奈は違法薬物使用の常習だった。彼女が西麻布のクラブに頻繁に出入りしていた証言があり、その店は警視庁の組織犯罪対策第五課が目をつけていた薬物取引の温床の場。

優奈の自宅からも数種類の違法薬物が見つかっている。


 公園に優奈を呼び出したのはケイと呼ばれる人物だ。

優奈のトークアプリの履歴を遡ると彼女とケイは8月下旬頃から親密な関係を匂わせるメッセージのやりとりを重ねていた。


しかし優奈の履歴に残る〈ケイ〉が送ったメッセージは現在はすべてUnknownと表示されている。これはトーク相手がトークアプリのアカウント自体を削除して名無しになっている状態を意味する。


 従って彼の本名が本当にケイだったのかは不明。優奈がメッセージ上でケイと呼んでいた事実だけが画面上に存在していた。


 彼女は10月15日月曜日の夜、六本木のテレビ局で生放送の音楽番組を終えた後、ケイと待ち合わせた公園に向かった。


ケイは最初からこの夜に優奈を殺すつもりだったと推測できる。優奈を公衆トイレまで誘い、性的な行為を行うフリをして彼女に高濃度の覚醒剤を注射した。

殺害に使用した注射器はケイが持ち帰ったのだろう。もしかするとトイレに流したかもしれない。


 優奈は望月莉愛の集団強姦、リベンジポルノ事件の黒幕だ。

瀬田と増山の殺害の動機が莉愛の復讐ならば優奈も殺しのリストに入っていてもおかしくはないが、優奈殺しは一連の連続絞殺事件とは様相が異なる。


殺害がタイミング的に瀬田と増山の殺害と重なったのか、ケイとの痴情の縺れか薬物絡みか。

捜査一課と組対そたい五課は慎重に捜査を進めている。


 さらに今日発売の写真週刊誌、週刊ルポルタージュのスクープが世間をざわつかせていた。間もなく午前10時になるが、今朝のワイドショーとSNSはその話題一辺倒だ。


胸元を強調したグラビアアイドルが鎮座する週刊誌お決まりの表紙には人目を誘因する赤文字で〈Fleurirフルリールメンバー及川果林と坂元凛々子、水面下で計画されていた電撃移籍の裏に枕営業の実態!〉と大きな見出しが書かれている。


 記事によればフルリールのメンバーの及川果林と坂元凛々子は大手芸能プロダクションの幹部数人に対して性的な接待を行い、水面下で大手芸能事務所への移籍の話を進めていた。


紙面にはプロダクション幹部の男二人と腕を組んでラブホテルの建物を出入りする果林と凛々子の写真が掲載されている。

果林に至っては、幹部男性とホテル近くの路地裏で交わす抱擁とキスの写真もあった。


 薬物に溺れたアイドルの殺人事件に追い討ちをかけるようにネットでは枕営業をした果林と凛々子が血祭りに上げられていた。

フルリールは事実上の解散と言われている。


 フルリールの最後のメンバー、高倉咲希の動向に世間の注目が集まる中、美夜はケイの手掛かりを求めて六本木七丁目を歩き回った。ケイがどのような容姿で、そもそも本当に男かもわからない。

優奈がそう呼んでいただけの架空の人物を探して街を彷徨さまよう今は五里霧中の雲を掴む気分だ。


 歩き疲れた足をさすって彼女は車を停めたパーキングに戻る。そこで合流した九条は浮かない顔をしていた。


「どうかした?」

『今、雪枝ちゃんからメッセージが来てさ。学校サボったって。親には学校行くフリして家を出たんだけど、学校には行かずに今は高輪たかなわの公園にいるらしい』


 大橋雪枝は今年の春、九条が捜査中に万引きの瞬間を目撃し、未遂で食い止めたことがきっかけで知り合った高校生。名門女子校と名高い紅椿学院高校の一年生だ。


「気になるなら様子見に行く?」

『いいのか?』

「高輪ならここから近い。こんな時間に高校生がふらふらしていたら補導されるよ」


 九条から伝え聞く雪枝の内面は健全な精神の持ち主とは言い難い。思春期特有の鬱憤や世間への反発があったとしても、大多数の十代はそれでも万引きや犯罪を犯さずに大人になれる。


人と獣の境界線を越えない十代と越えてしまう十代がいる。雪枝にはあと一歩の境界線を越えてしまう危うさがあると美夜は常々感じていた。


『雪枝ちゃん、学校での人付き合いに悩んでる様子だった。今のところは不登校にはなってないようだけど、ずる休みは危ない傾向だよな』

「下手をすればこれがきっかけで学校に行けなくなるかもね。対応は間違えないように」

『おう。任せろ』


 雪枝の心の拠り所が九条になってしまっているこの状況を彼はどこまで理解している?

高輪まで車を走らせる隣の相棒は果たしてどこまでわかっているのだろうか。


        *


 雪枝がいる公園は白金高輪駅から徒歩すぐの高台にあった。付近の駐車場に駐車した車に美夜を残して九条は公園に急ぐ。

大通りから脇道に入って傾斜のきつい坂を上がると、雨の匂いを含んだ曇天の下に秋色に色付く公園が見えた。


 平日のこんな時間に公園にいるのは外回りの骨休めに缶コーヒーを飲むサラリーマンか放浪のホームレス、白金のセレブな親子か、どれかだろう。

この街の属性を考えるとホームレスだけはいないかもしれない。


周りをビルに囲まれた高台の公園には制服姿の女子高校生がベンチで肩をすくめていた。他に人の姿はなく、数羽の鳥が木の上で羽を休めている。


『雪枝ちゃん』


声をかけても雪枝は顔を上げない。


「……ごめんなさい」

『心配したよ。……飲む? 雪枝ちゃんの好きなミルクの多いカフェオレ』


 雪枝に差し出したのは駐車場の前に設置された自販機で購入したホットのカフェオレだ。ポケットに入れて冷めないように手で保温していた九条の手のひらは紅葉の葉みたいに赤くなっている。


彼女はおずおずとカフェオレの缶を受け取り、それを一口飲むと缶を両手で包み込んだ。


『家か学校、どっちかに送るよ。どっちがいい?』

「学校サボった理由聞かないんですか?」

『聞いて欲しくなさそうだから聞かない。でも無断欠席はダメだ。休むならちゃんと学校に連絡しなさい』


 学生時代に学校に行きたくないと思った経験が九条はほんの数回しかない。基本的に九条は学校が好きな人間だ。

記憶から絞り出した、わずかなずる休みの経験も体調不良を装って親や教師を騙した罪悪感が1日中付きまとっていた。


 身体は健康でも心が健康じゃない時もある。

休息は心の栄養に繋がる。日本人は休みを悪いものと捉えていると、海外生活が長かった高校の同級生に指摘されたこともある。


『今日休めば、明日も休みたくなる。明日、学校に行けると思うならずる休みもいいよ。だけど俺は明日も行けないと思うなら今日は無理してでも行く方を選ぶよ。どちらにするかは雪枝ちゃんが決めるんだ』


 今日休んで明日、心が健康になるなら今日は休めばいい。

けれど、心の健康を取り戻すのに時間がかかりそうな時はどうすればいい?


きっと、ここが分かれ道。

明日の自分が笑えるのは、どちらの道か。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る