エピローグ
エピローグ
水曜日の22時。土砂降りの嵐の夜に愁を自宅に呼び出した夏木十蔵はすこぶる不機嫌だった。
『こんな時間に何か用ですか?』
『女の趣味が変わったな。今回の女は初めてのタイプだろう?』
『何の話です?』
『お前が日浦に調べさせていたことを私が知らぬと思ったか? それを見てみろ』
『日浦を監視していたんですね』
『ここのところ、お前と日浦の動きが不自然だったからな』
タブレットには愁が日浦から受け取った神田美夜の調査データと全く同じものが記録されている。夏木十蔵は恐ろしいほどの地獄耳と遠目がきく、厄介な男だ。
『女の素性は警視庁捜査一課所属、神田美夜。お前とはどういう関係だ?』
『一度だけ酒を飲んだ仲です』
嘘はついていないが、夏木の探りの視線はさらに鋭くなる。
『女の上司にはカオスを潰した上野恭一郎と小山真紀がいる。カオスの城を崩す一端を担った連中に近い存在とは、二度と関わりを持つな』
『カオスの城を崩した奴らをずいぶん警戒しますね。時代は変わった。今の捜査一課の刑事でカオスと渡り合った経験がある刑事は少数でしょう』
カオスのトップに君臨し、キングと崇められていた貴嶋佑聖と夏木は長年のビジネスパートナーだった。
現在は夏木の第二秘書の立場にある日浦一真もカオスに属していた男の下で働いていた過去がある。夏木とカオスの縁は深い。
『俺の仕事がばれるヘマはやらかしませんよ』
『素直にこの女とは会わないと言えないのか』
『会うも会わないも俺が決める問題です。会長の指図は受けません』
『色恋に
夏木の忠告を背に受けて愁は無言で退席した。
ファムファタールは男を破滅に導く魔性の女の呼称。キスの素振りで動揺していた美夜とファムファタールは到底結び付かない。
夏木の心配も杞憂に終わるだろう。
夏木のマンションの地下駐車場に降りた愁は思い立ってトークアプリを開いた。車に乗り込み、エンジンをかける前に友だち一覧からある女の名前を探す。
音声通話に繋いだ愁のスマホから軽快な呼び出し音が鳴り響く。連続する呼び出し音が静まった数秒後に女の声が聴こえた。
{……はい}
『どうも』
{……どうも}
通話相手として表示された名前は美夜。
トークアプリの登録名をフルネームに設定しない用心深さは警察の立場柄か、それとも彼女の性格ゆえか。
{いきなり電話が来て驚きました}
『無性にあんたの声が聞きたくなった』
{普通の男みたいなことを言うんですね}
『俺は普通の男だけど?』
{そうは見えなかったですよ}
美夜の媚びない物言いは聞いていて面白い。だが今夜は彼女の歯に衣着せぬ言葉の切れ味が鈍っていた。
『どうした? 声に覇気がない』
{先週から仕事で色々あって。疲れてるみたいです}
『公務員も大変だな』
美夜の正体には知らないフリを決め込んで愁は煙草を咥えた。
美夜が正直者ならば愁は嘘つきだ。彼女の素性も自分の立場も今は忘れていたかった。
『……なぁ』
{はい}
『あんたの名前、綺麗だよな。美しい夜で美夜』
{急に何を……}
『……美夜』
煙草の煙と同時に吐き出した二文字は呟いた途端に
名前なんかただの記号だと思っていた。その記号を口にしたくなった気持ちに人は甘ったるい名前を付けたがる。
『黙るなよ』
{……木崎さんって絶対女慣れしてますよね}
当たらずとも遠からず。さすが刑事は勘がいい。
やはり美夜は面白い。すぐに殺すには惜しい女だ。プライベートの付き合いを夏木に指図されたくもない。
『女慣れしてる男は嫌い?』
{嫌いです}
『即答か』
“きらい”の三文字に彼女はどんな意味を込めた?
もし美夜を殺せと夏木に命じられたら、この女を殺せるか?
それが愁の仕事だ。けれどいつか美夜を殺す日が来るとしても夏木の命令では殺さない。
通話時間わずかに5分。短い逢瀬の間に灯った小さな蛍火に、甘ったるい名前は付けなかった。
殺すなら、この手で。
愛すなら、あの世で。
episode2.【蛍狩】 ーENDー
→あとがきに続く
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