2-7

 獲物を追い詰める狩人は躊躇なくトリガーを引いた。冷たいコンクリートに大の字に横たわる男を見下ろす木崎愁は愛用のワルサーPPKを懐のホルスターに収める。


『データは?』

『問題ありません』


殺した男は夏木コーポレーションに潜り込んだ産業スパイだ。夏木コーポレーションの背後には関東を牛耳る指定暴力団の和田組がついている。

今回の刺客は和田組と敵対する東北のヤクザから送り込まれていた。


『後処理は任せる』


 犯罪の異臭がする倉庫を出た彼は表で待機していた車に乗車した。


 黒色のスマートフォンにはトークアプリに未読メッセージが届いている。未読のメッセージ件数は三件。すべて仕事の連絡だ。

そのうちの一件に愁は眉をひそめた。


もうひとつ、白色のスマートフォンにも未読のメッセージが一件届いている。こちらは同居人の夏木伶からのメッセージだ。


『金曜の夜に車を一台用意してくれ』

『どのタイプを?』

『成人の男ひとり押し込める広さのワゴンでいい』


裏の仕事に関わる者は皆、同じ穴のムジナだ。部下にはそれだけ言えば事足りる。


 午前零時過ぎに赤坂のマンションに帰宅した愁を待っていたのはパジャマ姿の舞。彼女は目を輝かせて愁に抱きついた。


「お帰りなさぁーい」

『まだ起きていたのか』

「愁さんを待ってたの。お兄ちゃんは愛佳あいかさんの家に泊まるんだって」

『知ってる。さっき連絡来た』


まとわりつく舞をやんわりと引き離して愁はリビングの扉を開けた。後ろからスリッパの足音が追いかけてくる。


「舞にはお泊まり禁止してるのに自分だけズルい。今頃は愛佳さんといちゃついてるんだよぉ!」

『伶は舞には過保護だからな』

「シスコンも困るよね。彼女いるくせに妹離れしてくれないんだもん」


 舞にコーヒーを頼もうと思ったが、以前に舞が淹れたコーヒーの味を思い出して愁は諦めた。使用する豆も器具も普段と同じなのに舞が淹れたコーヒーは非常に不味い。

どうしてあんなにコーヒーが不味くなるのか疑問だ。


伶が舞に一切の家事をさせない理由がわかる。

舞が中学に入る頃には自分の洗濯物は自分で洗うようにはなったが、それは下着を兄に見られたくない思春期の羞恥心。

洗濯以外の料理や部屋の片付けは絶望的だ。舞はいつまでも何もできないお嬢様だった。


「ねーねー、愁さぁーん。一緒に寝よぉ?」

『絵本の読み聞かせなら伶がいる時にしてもらえ』

「愁さんは舞のこと五歳児だと思ってるぅ? 邪魔者のお兄ちゃんがいないからおねだりしてるの!」


 大きなソファーに埋もれる愁に舞は寄り添った。近付いた舞の顔は頬が膨れている。

五歳児よりも厄介な高校生だ。


 学力の面でも試験前に伶や愁が勉強を教えているから、赤点や追試を免れている。

夏木家の力があれば大学へのコネ入学もコネ入社も雑作もない。

しかしこのまま何もできないお嬢様のままで大人になっていくのかと思うと末恐ろしく、今から胃が痛い。むしろ舞は社会人になって働く気すらないのかもしれない。


 一緒に寝たいと駄々をこねる舞に愁は根負けする。


『わかった。とにかくシャワー浴びさせてくれ』

「はぁーい! バスタオル用意しておくね」


 舞は何も気付いていない。愁の身体からは硝煙の臭いがする。

人を撃ち殺した臭いだ。洗い流しても消えない犯罪の臭いが愁を暗くよどんだ世界に閉じ込める。


ずっとこの臭いと共に生きてきた。

初めて人を殺したあの日から愁は殺した屍の死臭を身体に纏っている。


 愁の髪を、肩を、背中をシャワーの水流が勢いよく流れていく。洗っても消えない罪の臭いは日に日に濃く薫り、いつか愁が死ぬ時は彼の死体から彼以外の死臭が漂うだろう。


最期に殺す人間は決まっている。

その日が来るまであと何人、殺せばいい?


『殺したい人間がいる……か』


 小声で独り言を呟いた彼はバスルームを後にした。自室の扉を開いた愁の目に飛び込んできたのは盛り上がったベッド。


「愁さぁーん」


ベッドから手招きする舞を見て半ば諦めの溜息を吐いた。こうなってしまっては舞と夜を明かす覚悟を決めなければならない。

伶が不在の時の舞のアプローチは普段よりも過激になる。


 部屋の照明をベッドランプだけにして愁はベッドに横になった。愁の体にわざと胸を擦り付けるようにして舞が寝そべった。

愁は男に媚びる女が嫌いだ。相手が舞でなければ精子を出すだけの穴として利用して捨てればいいが、舞にはそうはいかない。


カラーリングを施した薄茶色の舞の髪に愁の指が通る。髪質も相まって彼女の髪はふわふわと柔らかい。


『早く寝なさい』

「お休みのキスしてくれたら寝るっ」


 とんだワガママ娘だ。父親の夏木も伶も、舞を甘やかし過ぎている。それは自分も同じだと気付いた彼は苦笑するしかなく、苦く微笑んだ唇が舞の額に触れた。


『これでいい?』

「愁さんて、してほしいとこにしてくれないよね。キスもいつも舞からしてるぅ」

『舞には手を出さないって決めてる』

「それは舞からは手を出してもいいって意味だよね?」


 愁の上に覆い被さった舞は彼の唇に自分の唇を重ねた。愁は驚きもせず静かに目を閉じる。

少女の唇の柔らかさにも舌先の熱にも何も感じない、欲情が存在しない唾液と唾液の交換。

唇の角度を変えた時に舞が甘い声を漏らした。


『……お前、男いるよな?』

「愁さんしかいないよ。舞の好きな人は愁さんだもん。わかってるくせに」


嘘だ。男がいなければここまでのキスはできない。どこでキスを覚えた? 相手は誰だ?


 肉感の重みは女と言うには頼りなく少女にしては熟している。ワンピース型のパジャマを脱ぎ捨てた舞は下着姿を晒して愁に馬乗りになった。


「今日もエッチはなし?」

『なし。風邪引くから服着なさい』

「えー」

『電気切るぞ』


 愁がベッドランプの照明を落とす間に不貞腐れた舞は頭からパジャマのワンピースを被っていた。

舞の要求は日に日に増す。そろそろ対策を考えなければいずれは二人とも苦しくなる。


「舞がハタチになったらエッチしてくれる?」

『しない』

「愁さんがムラムラして抱きたくなるくらい、いい女になるもん」


 たとえ舞が世間的ないい女の称号を手に入れたとしても愁は舞を抱かない。

惚れてはいけない男に初恋を捧げたと舞は知らない。


知らないことが罪だとすれば、知ることもまた罪になる。

今夜も愁は秘密を抱いて眠りに逃げた。

いつか舞に嫌われるその日まで。

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