1-3
バリスタの園美が自らスープとサラダを運んできてくれた。ディナータイムも園美は率先して配膳を行っている。
「私もここでまかない頂いてもいい?」
「もちろんです。リゾットですか?」
「余り物を詰め込んだなんちゃってリゾット」
二人席の向かいに園美は腰を降ろした。園美のまかないは余り物で作ったとは思えない美味しそうなリゾットだった。
厨房から聴こえる調理の音、温もりのある柔らかな照明と艶々とした飴色のテーブル、トマトソースの残り香が店全体に漂う。オーナーシェフ以外はシェフも厨房でランチタイムを過ごしていた。
ムゲットの空気に触れているとふいに思い出す男がいる。卯月の雨の夜、ちょうど彼はこの席に座っていた。
「初めて私がここに来た時に相席させてもらった男の人、覚えてますか?」
「美夜ちゃんが初めて来た時の……ああ、木崎さんね」
「よくお店に来られるんですか?」
「去年ここに店を出した時から月に数回ふらっと来てくれるの。不思議な雰囲気の人よね。あのセンスの良いスーツは絶対オーダーメイドだよ」
スーツのセンスについてはわからないが捜査一課の同僚刑事よりは木崎という男の身なりは洗練されていると思う。スーツがオーダーメイドならそれなりに高収入の仕事かもしれない。
「木崎さんはいつもおひとりなの。あそこまで美形だと女が放っておかないと思うから、そのうち恋人を連れて来てくれないかってちょっと期待してるんだよね」
園美から見れば木崎は美形の部類に入るようだ。人の容姿に関心がない美夜にはわからない感覚である。
自分から木崎の話題を振ったくせにこれ以上は彼の話題を続けたくないのは何故だろう。話が色恋の方面に傾き始めたせいか。
「個人的なことをお尋ねしてしまうんですが……」
「美夜ちゃんにならなんでも答えちゃうよ」
「園美さんと白石シェフはどうやって知り合ったんですか?」
唐突に話題を変えても園美は嫌な顔をしなかった。それどころかわずかに頬が赤く染まっている。
美夜よりも幾らか年上の彼女はいつまでも無邪気な少女の部分を持ち合わせた可愛い人だ。
「雪斗のご両親が表参道でイタリアンのお店をやっているの。まだまだ現役だよ。表参道の〈ルナ〉ってお店。雪斗がそこでウェイターをしていてね」
『園美が友達とうちの店に来たんだよな』
オーダーした魚介のペスカトーレが園美の夫、白石雪斗の手で運ばれた。美夜と園美の隣の席には雪斗のまかないのパスタが並ぶ。
「その時トイレにピアスを落としちゃって、お店を出た後にピアスがないことに気付いたんだ」
「お店に取りに戻ったんですか?」
「その日はピアスは諦めた。でも家に帰ってお気に入りのピアスと一緒に思い出すのが接客してくれたウェイターの雪斗だったの。あの人にもう一度会いたいなって、思った時にはもう雪斗が気になっていたんだね」
『だんだん恥ずかしい話になってきたな。勘弁してくれ……』
雪斗は園美の昔話に相づちを打つだけ。彼の耳が赤いのは照れている証だろう。
「ふふっ。あの日にお気に入りのピアスを落とさなかったら、私達は結婚してなかったのよね。出会いって不思議よ。だけど付き合い始めて3ヶ月後に遠距離になったの」
「3ヶ月で遠距離に?」
「雪斗がイタリアにシェフ修行に行っちゃったんだ。その間に私もバリスタの勉強してライセンスとって、雪斗の帰りを待ってた。イタリアと日本の遠距離を3年かな」
美夜は遠距離恋愛どころかまともな恋愛の経験すらない。学生時代の甘酸っぱい初恋にも嫌な記憶が付きまとう。
海外と日本の遠距離恋愛がどのようなものか想像もつかなかった。
「友達にはどうせ向こうでイタリア人の彼女作られて捨てられるよって言われるし、親にはいつ帰ってくるかわからない男を待ってないで違う人と結婚しろって言われるし、あの3年間は散々だったのよぉ?」
園美の視線を受けた雪斗が苦笑いしている。3年の遠距離恋愛を乗り越えて結婚した二人は結婚願望のない美夜でも素直に素敵だと思えた。
「私は結婚したいとは思えないんです。今日も友達がインスタで結婚の報告していて、いいねだけ押して逃げちゃいました」
「ああ、インスタね。私も友達の子どもの写真にいいねだけ押してスルーしちゃうよ。何かコメントするとあっちの自慢話と詮索が入るのが嫌なの」
「私もです。まだ結婚しないの? って聞かれるのがオチだからコメントも躊躇しちゃう」
「結婚したくない人の気持ちや子どもができない人の気持ちはわかっているようで、わからないものよ。親にもなかなか理解されないもの。結局は当事者にしかわからないのよね」
雪斗と園美の夫妻に子どもがいるとは聞いていない。産まなかったのか産めなかったのか、センシティブな話題は相手が話してくれない限り踏み込めない。
美夜も結婚したくない理由を園美達の前では口に出せないでいる。
「子どもを産むのも人生、産まないのも人生。結婚もしたくない人はしなくていいと思う。世間は色々と煩いけど自分の人生だもの。美夜ちゃんの好きにすればいいんだよ」
園美は快活に笑っているが、彼女を見つめる雪斗の横顔には
それでも今の彼女は愛する人の隣で幸せに満ちた微笑みを魅せていた。
(※園美と雪斗の物語は恋愛短編【トマトのカッペリーニ、冷たいパスタで。】参照)
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