第5話


「それで僕はそのまま電車に乗り、大正駅まで行ったのです。そしてそこで駅を降りようとする頃、小雨が降り出しました」

 彼はそう言うとシャツのポケットから四つに折られた小さな紙切れを出した。それを僕に押し出したので、受け取ると紙を広げて見た。そこには十一桁の数字が並んでいた。

「これは?」

 彼はうんと頷くと僕に言った。 

「携帯電話の番号です。実は大正駅を降りた時、駅長室で聞いたのですよ。あの禿げ頭の男があれ程傘に執心だったら、きっと忘れ物の届け出先として、駅員に言っているだろうと思ったものですから」

「いや、でも・・別に良かっただろう?傘もその男、戻りの電車で君が置いた傘を持って降りたのだから・・それに別にどうってことも無い傘なのだから・・」

 彼は僕が話すのを聞きながら僕の目の前に、何かを出した。僕は目の前に出されたそれを見て言った。

「これ・・」

 僕はそれを手に取った。

「今、君が持ってきた傘じゃないか・・普通のビニール傘・・」

 僕がそう言った時、彼がちらりと先程、柔道の雑誌を開いて見ている男の方を見た。

 一瞬だが二人の視線が合った、と思った時、彼が手早く傘を僕の手から取り戻すと、傘を開こうとした。

 僕が慌てて彼の手を押さえようとする。

「お、おい、四十川君、ここでそんなことしたら・・」

 彼は傘のシャフトを力強く押している。それも相当力を入れているのか、小さなうめき声と眉間に寄せられた皺で分かった。

「四十川君、ちょ、ちょっと」

 図書館のこんな場所で傘なんて開こうものなら、どこから職員がやって来て僕らを叱責するに決まっていた。

しかし、そうはならなかった。

傘は開かなかったのである。

 彼は小さく、しかし、長く息を吐いた。息を吐き終えると雑誌を読んでいる男に目を向けたが男は別段こちらを気にすることなく、黙々と雑誌を見ていた。

「ちょっと、どういうことだい、四十川君。傘をここで開こうなんてするのもどうかと思ったけど・・傘が開かない・・これは・・」

 僕が言い終わらぬうちに、彼が僕に傘を渡した。先程の作業で眼鏡がずれたのかそれを手で戻しながら言う。

「田中さん、一度、傘を開いてみてください」

 僕は彼に言われたように傘のシャフトから押し出すように傘を開こうとしたが、傘は開かなかった。どのように力を入れてもびくともせず開かなかった。

 僕も、思わず声を出した。

「これは壊れているのか?」

 彼は首を横に振った。そして指を指す。

「壊れていません、良く傘のシャフトを見て下さい、そこの部分に押し出し部があるでしょう?しかしよく見ると、溶接がしてある」

 僕は彼が指差した部分を見た。確かにそこには溶接がされている部分があった。これでは傘が開くことは完全にできなかった。

「何だいこの傘、まるで推理小説なんかに出て来る仕込み杖・・」

 そこまで言って僕は、はっとした。

 彼は僕の表情を見てにやりと笑った。

「そう、それ・・仕込み傘なのですよ。だからきっとその禿げ頭の男、困っていると思うのですよね。仕込み傘と間違えて普通の傘を持って帰ってしまったのだから。それで連絡をしておいたのです。今日ここに傘を持って来るので僕の傘と交換してほしいと」

「そうなのか?」

「ええ、そしたらもうすぐ十一時でしょ。この十番と書かれたソファで、その時間が待ち合わせなのですけど、幾分かの謝礼と合わせて持って来ると・・」

「謝礼だって?」

 僕はまじまじとその傘を見た。溶接されている何か仕込まれているような怪しい傘。見かけは普通の何処にでもある傘、それにどんな謎があるというのだろう。

「一体、どんな謎の傘なのだ。これに一体何があるというのだろう」

 彼はそれを聞くと、自分の髪を掻いた。何か気まずそうな、しかし何か言いだしそうなそんな表情をしている。僕は彼がきっとこの傘の秘密まで知っているのだろうと、直感で感じた。

「四十川君、知っているのだろう?この傘の秘密・・なぁ教えてくれよ」

 僕は彼の眼鏡の奥の黒い瞳を見た。

「いや、しらばっくれても駄目だ。君は知っているはずだ。だって小説にするのだろう。ここまでの事だけじゃ、大きな賞は取れないぜ、しっかりとその秘密まで教えてくれなきゃ、読者は不満でしかない」

 彼は僕の言葉に少し口をとがらせるようしていたが、やがて顎を触り始めると「そうですね・・」と言った。

「まぁ、もうすぐ解決するわけですし・・良いかな」

 その時、部屋で大きな音がした。子供が数冊の抱えていた童話なのだろうか、分厚い本を床に落としたのだった。そこに居る人が一斉にその子供の方を見る。僕達も視線を子供に向けた。僕は視線を向けながら、子供の方を向かず僕達の方を見ている視線を感じた。その視線を追うように辺りを見回そうと首を回した時、目の前に一人の男が立った。

不意を突かれて驚いた僕は、小さくおっと声を出した。

そこには小さな禿げ頭の男が立っていたのである。

小男は低く素早く言った。

「四谷っちゅうのはあんたか?」

 僕は首を振った。

「じゃ、あんたか?」

 目を細めて彼を見た。

「ええ・・そうです。四谷です」

 それを聞くと男は周りを素早く見回して、懐から紙袋を出した。

「これ、謝礼や。ほんで例の物は?」

 彼は手にしていた傘を男に差し出した。男は傘を手に取ると手早く全体を見た。それから黙って傘の先で床を二度、素早く叩いた。その時、カチッと小さな音がしたのが聞こえた。

 すると手にした部分がわずかだが浮き上がるのを見た。

 禿げ頭の男はそれで満足気に小さなしかし邪悪な笑みを浮かべると、謝礼袋を彼の前に投げた。

「おおきに、しかし兄ちゃんこのことは忘れるんやで、でないと後悔するからな」

 そういうと禿げ頭は急ぎ足で僕達の目の目を立ち去って行った。

僕は唖然とした表情で居たが、彼は納得したように立ち上がると、大きく背を伸ばした。

「さて、田中さん、幾分か謝礼も入りましたし・・どうですか今から天満の方の立ち飲み屋にでも行きませんか?先程お酒をおごる、おごらないという話になりましたけど、そこでこの物語の結末をお話ししようじゃありませんか」

 僕はそんな彼の表情と余裕を見て不気味な気がした。

そしてその時、先程本を落とした子供が歩いているのが見え、その向うでいつの間にか柔道の雑誌を読んでいた男が消えていた。

それがこの物語の結末だとはその時は微塵にも思わなかった。

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