第4話 旅人 1

 誰かに呼ばれたような気がして、アリアは目を覚ました。

 腹筋だけで起き上がり、薄暗い周囲を見渡すも、そもそも自分以外に人のいられるスペースなどこの場所には存在しない。結局ただの夢だと結論付けて、アリアは寝具代わりに使っていた落ち葉を払い退け、露避けの油紙を畳んで腰のベルトに吊った鞄に突っ込んだ。次いで枕代わりに丸めていたマントを羽織る。

 寝床にしていた廃墟とも呼べないような石組みの中から這い出ると、早朝の白い光が目に沁みる。アリアは何度か瞬きをして光に驚いた目をなだめ、鼻腔に広がる草木の匂いを胸いっぱいに吸い込む。それだけで澱んだ空気に満たされた肺が綺麗になったような気がして、気分は非常に爽快だ。

「さてと、あの人どこにいんのかな?」

 一人ごちながら周囲を見回す。

 背後には半ば以上崩れ落ちた古い社、眼前に広がるのは深い森。社の周囲は石畳が敷いてあるせいでぽっかりと空間が開けているが、その周囲はぐるりと巨木に取り囲まれている。丈の高い針葉樹が多いが、広葉樹もかなりの数があり、更にそのどれもが呆れる程に太い。細いものでも大人三人手を繋いで周囲を一巡りできるかどうか、太いものとなると大人が五人いても無理だろう。一体どのくらいの年月を経たらこんな巨木が出来るのか、余りのスケールに気が遠くなりそうだ。

 眼前の一本の幹を視線で追うように上を向くも、青い空は折り重なる葉に遮られてまったく見えない。空に三つ浮かぶ月のうち、昼間も変わらず白い姿を見せてくれる第三月イヴヌスの加護は得られそうにもなかった。

 ヤクモ大森林。

 何度聞いても不思議な響きを持つ名前は、この地方の古語で雲を意味するのだという。それもただの雲では無く、幾重にも重なって天に鎮座する巨大な雲を指すのだそうだ。

 以前支部を訪れた時に案内の男に聞いた話だが、なるほど、確かにこの森林を遠くから見れば幾重にも緑の折り重なる巨大な雲に似ているかもしれない。何しろ一度入れば端から端まで抜けるのに一月はかかる。それも迷わず順調に進めればの話で、迂闊に足を踏み入れれば自然の迷路ともいうべきこの森で迷うことは必定、多くの者が命を落とす。地元の人間が精霊が住む森として畏れ敬うのも無理からぬ話だろう。

 精霊を畏れる者はまずこの森には近づかないし、信じない者でも地元の者であればこの森の恐ろしさは身に沁みて知っている。何しろこれだけ巨大な森だ。大型の肉食獣や魔物の類も生息しているし、恐らく何万年単位の年月をかけて作られた自然の迷宮は、一度迷えば踏破不可能な難所中の難所である。ヤクモ大森林とは本来そういう場所だから、もしも地元の人間がアリアの姿を見るようなことがあれば目を疑うに違いない。

 何せアリアは十六の歳の誕生日を再来月に控える小娘だ。歳の割には長身だが、それでもそこいらの村娘と比べて特別屈強な訳では無い。その上森に踏み込むには、アリアの半袖シャツの上に防刃仕様のベストを羽織っただけの格好は余りに軽装すぎた。もしも祠を見回る森番にでもかち合ったら、この軽装でどうやって森の中心部まで踏破したのか、訝しがられることになるだろう。アリアとしてもその事態は出来るだけ避けたい。

「…なるべく早く合流しないとね。動きはあったのかな?」

 キョロキョロと辺りを見回して、アリアは社から十歩ほど離れた木の下に異変があることに気付いた。

 丁度巨木の根元の影の位置に、色のついた小石がばら撒かれている。小石一粒の大きさは五ミム(約五ミリ)程。手に持ってみればそれは石の割には酷く軽い。しげしげと眺めればそれは石ではなく、貝や屑珊瑚の類を砕いて染料で色をつけ、薬剤で固めたものだった。固める際に圧縮しないから質量は軽い。主にタイルなどの装飾用に使われるものだが、こうして色石単体で使われる場合は別には別の意味があった。

「…三日前に場所移動。東に五ルメルト(約五キロ)か…。目印は…」

 色と数、位置で情報を伝える符丁。黄、黒、赤、青、緑、白、そして金の七色で構成されることから、七界石と呼ばれるこの方式は、アリアのような者なら誰でも知っているポピュラーな通信手段だ。とは言っても並べる順序や色の意味は情報をやり取りする者の間で独自に決めるから、他者に意味を悟られることはまず無い。万が一配置が他者のものと似通ってしまった時、誰が残した符丁なのか混乱することの無いように、近くに身内で決めた印を残していくことも決まりの一つだ。

 アリアは一番右の石から掌三つ分の距離を測ってその周辺に目を凝らす。これが間違いなくアリアの探している人物のものからの符丁であるならば、この場所に必ず印が残っているはずだった。

「…あった!」

 軽く地面を掘ると爪の先に微かな感触が引っかかる。そのまま爪で引っかくと、金の糸を数本束ねて輪にした物が顔を出した。その大きさは直径にして三メム(約三センチ)程。鮮やかながら染料とはまた違った色合いは、それが人工物で無い証だ。それもそのはず、これの原料は混じり気無しの人毛百パーセント。呪いのアイテムかと疑いたくなる代物だが、禿げない限り材料を探すのに手間取ることが無いという点で、急ぎの連絡の合図に使うには最適だ。

 間違いない。アリアの探し人が残した目印だ。

「東だね」

 言ってアリアは懐を探って磁石を取り出し、方位を確認して歩き出す。マントから出るむき出しの腕に早朝の冷気が突き刺さるのを手で摩りながら、白い息を吐き出して呟いた。

「そっか。この世界片はもう秋なんだっけ」

 早朝の森林に落ちる寒気はもう冬のそれに近い。針葉樹の緑に混じる広葉樹の黄色や赤の色彩が、季節が秋から冬に移ろうとしていることを告げている。

 昨日まで居た砂漠と火山の熱気。そこに居た時は過ごしにくくて煩わしいばかりだったそれが、今はほんの少しだけ恋しかった。

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