第3話 プロローグ 3

 見渡す限りの風景は、熱気のせいで酷く歪んでいた。

 元々見るべき景色など何も無い。火山岩が積み重なった無骨な壁と、煮え滾る溶岩の池。その池が発する赤い光で、黒い洞窟の色味は却って暗く沈んでいる。

 世に言う獄界とはこういう光景を言うのだろうか。男はそんな埒も無いことを考えながら、手にした大振りの弩の弦の張りを確かめる。

 大枚を叩いて違法な改造を施した男の得物は、簡単に抜けないように返しがついた大きな矢を容易に支え、今か今かと解放の時を待っている。風の魔石を砕いた物を練りこんだ矢は、矢そのものが普通のそれの十倍の値もするから、小物に使うことはとても出来ない。男が狩りにこれを使うのは、この矢を購って余りある代償を得ることが出来る大物が相手の時だけだった。

 魔獣狩り。男の職業は世間からはそう呼ばれている。

 魔獣とは体内に一定以上の魔力を秘めた器官を持つ特殊な獣のことで、人を襲う頻度と襲われた時の被害の大きさで魔獣と魔物の二種類に分類される。魔物は好んで人を襲い、襲われた人間の死亡率が著しく高いもの、または人間の身体や周囲の環境にとって致命的な影響を与えかねない毒気や魔気を持つものを指すが、魔獣は魔力は持つが好んで人を襲わない穏やかな性格をしているものや、襲われてもその影響が軽微なものを言う。両者に共通しているのは、基本的に一般の動物よりも高い知能を有し、寿命が長いこと。そして体内に持つ魔力を蓄えた器官が、魔具や加工武具の材料として高値で売れることである。

 どの国でも大体は魔物を狩ることには寛容だが、魔獣を狩ることは一定の規制をかけている。同じ高値で捌けるのなら、危険の少ない魔獣を狙った方が安全なのだからそれも当然のことで、規制をかける以前には多くの魔獣が狩人に狩られてその数を激減させている。

 男が狙っている魔獣も希少な保護魔獣であり、季節を問わず狩ることは禁止されている種の一つである。だから男は狩人というよりは密猟者の扱いで、狩りがばれれば多方面から追われることになるが、そのリスクを飲んで尚辞められないほどこの職業の実入りは大きい。今回の獲物の近似種である魔物は極めて凶暴で、魔力器――角を手に入れることが困難であるために、手に入れた時の報酬は大きい。それこそ矢を百本買ってもまだ釣りが来るくらいだ。

 こんな美味しい仕事、辞めてたまるか。

 男はにい、と口の端を上げて、ここ数日熱気の中で探し回った絶好のスポットから、目当ての獲物が姿を現すのを待った。元々は健全な狩人だったのだ。待つのは別に苦にならないし、洞窟の熱気はこれも高値で買った防熱マントが防いでくれている。正直、これで獲物を逃せば大損だ。

 火山の懐に抱かれた溶岩窟。ふつふつと泡を弾けさせては煮え滾るそれは、季節が幾つ巡ろうとも冷めて固まることは無い。男が狙っているのは、そういう劣悪な環境に好んで住み着く希少種だ。

 一昨日、昨日と足跡も見たし、吼える声も聞いた。繁殖期以外では個体で過ごし、群れることをしない生物だから、一頭当たりの縄張りはさして広くない。ならば餌場は必ずこの辺りのはず。長年狩人として生きてきた男の勘は見事に当たった。

 のっそりと巣穴と思しき穴から、赤黒い毛並みの一頭の熊が顔を出す。周囲を窺うように黒い目をきょろきょろと動かし、空気の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせるその熊の額には、赤い水晶のような色合いの角が一本生えていた。

 しめた、と男はほくそ笑む。角の色合いからして恐らく獲物は若い雄。年寄りでなかったことは残念だが、一般的に雄の角は雌のそれより価値が高い。

 オッソ・フエゴ。

古い言葉で火の熊を意味するこの魔獣は、繁殖期に雌を争う時か、雌が子を守る時以外に角を使わない温厚な生き物で、人間の気配を感じると襲う以前にまず逃げる。その分子連れの雌の凶暴さはいっそ凶悪といって良い程だが、火山の奥の溶岩窟で子育てをする熊に偶然出会う機会などそうそうある筈もなく、分類はその区別がなされた時から変わらず魔獣のままだ。

 オッソ・フエゴは余り鼻が良くない。勿論人間とは比べ物にならない嗅覚ではあるが、それでも精々がところ犬の半分。普通の犬と比べても劣るというのは、四足の魔獣にしてはかなり鈍い部類に入る。その分聴覚と視覚が発達していて、溶岩の赤黒く不安定な光源しかない溶岩窟でも真昼のように目が利いた。聴覚にしても同様で、少しでも足音を立てようものなら脱兎の勢いで巣穴に駆け込んでしまう。

 失敗は許されない。チャンスは一度きりだ。

 男は火山岩に同化する色合いのマントのフードを目深に下げ、同じ色に塗ったボウガンで狙いを定める。

 チャンスは一度。奴が餌を取るその瞬間だ。

 キョロキョロと辺りを見回していた熊が、ようやく足を速めて溶岩の池に近づいた。ひくひくと鼻を動かして、まるで塩を舐める鹿のように赤い池に舌を伸ばす。人間が触れれば火傷を通り越して一瞬で炭化してしまう融けた岩も、この熊にはただのご馳走だ。彼等はこうして得た熱を体内で処理して魔力に換え、余剰の魔力を角に蓄えて、年々角を伸ばしていく。老齢の個体ならば、子供の背丈程もある角を持つものだっているのだ。もっとも、そういう個体は知恵も尋常ではなく、簡単に人間に存在を悟らせるような真似はしない。だから狩りの犠牲になるのは専ら若い個体ばかりだ。

 食事に夢中になっているのを確認して、男は引き金にかけた指に力を籠める。丹念に手入れした引き金の感触は軽い。弦を支えていた留め金が外れる微かな音に熊の耳が微かに震えたが、今気付いたってもう遅い。風の魔石の力を得た矢は、熱気を切り裂くような速さで熊の脳天目掛けて飛んでいく。鋼鉄の矢と風の魔石で生んだ推進力は、硬い魔獣の頭蓋さえも易々と貫いて、その巨体はゆっくりと火山岩の地面に倒れ付す――筈だった。

 キン、という高い音が溶岩窟に響き渡る。

 断末魔の代わりに響いたその音は、金属を叩く音に似ている。それから寸の間を置いて熊の吼え声が響いたが、それも断末魔ではなく驚いたが故のただの悲鳴で、脳天を貫かれるどころかかすり傷一つ負わなかった熊は、その巨体に似合わない機敏な動きで巣穴の中に駆け戻っていく。その額からは既に角は失われていた。

「ば…馬鹿な…」

 男は瞠目した。

 男の得物はボウガンも矢も特注品で、どちらも法で定められた範囲を超えた威力を誇っている。その矢を防ぐことが出来る人間などそうそういない。否、いて良い筈が無い。増してや矢を弾き飛ばしながら恐怖で暴れるオッソ・フエゴの角を根元から折り取ることなど。

「あーあ、おじさん駄目じゃない。火熊…じゃなかった、オッソ・フエゴは特別指定保護種でしょ。殺しちゃまずいよ。」

 響いた高い声に、男はビクリと肩を竦ませる。どう聞いても男の声では無い。そう、それはまるで年端もいかない少女のような――。

 呆気に取られる男の後ろから、何かが飛び降りる気配がした。男が位置取っていた岩棚より更に高い、しかも足場も不安定な場所から、まるで階段でも飛び降りるかのような気軽さで飛び降りたその人物は、硬い火山岩の上に危なげなく着地し、折れて飛んだ角を無造作に拾い上げる。右手でそれを弄びながら左手で己の得物であろう巨大なブーメランを担ぎ上げる彼女は、間違いなく成年を迎えてはいまい。精々十五か六、その程度の年齢にしか見えない少女だった。

 黒い髪を無造作に短く切り上げて、熱を防ぐためだろう、頭に巻いたバンダナの端を首にもぐるぐる巻きつけている。身体には男のものと良く似た防熱マント、ショートパンツから覗くすらりとした足には同じく防熱生地だろう黒いタイツを穿いている。まるで少年のようなな出で立ちだが、服の上からでもわかる身体のラインは間違いなく女性のそれ。身につけているものの中では唯一耳につけた赤い石の耳飾りだけが女性の装いで、それが妙に浮いて見えた。歳の割には長身とはいっても、見上げる程の大女という訳では決して無い。こちらを見上げる丸い瞳が稀有な紫色をしていることを除けば、その辺の町に歩いていそうな普通の少女だ。

 その普通さが、今は却って男の不安を煽る。

 少女が片手で軽々と扱うブーメラン。あれが目にも留まらぬ速さで男の矢を弾き飛ばし、弾き飛ばした反動で変わった軌道のまま、オッソ・フエゴの角を折り取ったのだ。最初から矢を弾き飛ばす角度も速度も、全て計算されていた。

 並の技量で出来ることではない。達人と呼ばれるような人間だって、こうも易々とこれだけのことをやってのけるとは思えない。ならばこの年端もいかない小娘の力量は一体どれ程のものなのか。大体少女が持つあの武器にしても、とても彼女のか細い腕で扱えるような代物では無さそうに見えた。全長一メル(約一m)程もあるだろう、巨大なブーメラン、その重量は如何ほどのものか。

「おじさん聞いてる?オッソ・フエゴの角は殺さなくたって採取可能なんだから、最初から角だけ狙いなよ。来年からまた少しずつ生えてくるんだし。狩り尽くしちゃったらお終いだよ。」

「ヒッ!」

 男が無意味な思考を巡らしている間に登ってきたのだろう、不意に響いた少女の声が余りにも近くて、男は思わず後ずさる。足場も不安定な岩棚の上、不用意にそんなことをすれば勿論落ちる。案の定男の踵は宙を踏み、バランスを失った体は後ろに傾く。落ちれば下は鉄をも溶かす溶岩の池、骨の一つも残らない。恐怖の余り引き攣った悲鳴を上げながら、男は空しく宙を搔く。

 こんなことならば悪いことなどするんじゃなかった。そんな柄にも無い後悔を噛み締めた瞬間、振り回した右手を誰かが掴み、驚異的な力で引き戻してくれた。

 誰か、などと問うまでもない。この空間に男以外には、あの黒髪の少女しかいないのだ。

「もう、気をつけなよ。ていうか、人の顔見てお化け見たみたいな反応はやめてよね。失礼だよ」

「…あ、ああ」

 茫然自失とする男を足場の確かな位置まで引き戻し、少女は頬を膨らませる幼い動作で怒りを示す。そういう顔を見ると本当に今見た光景が夢のように思えてならなかったが、男の右手を捕らえた彼女の手は、彼女の容貌と釣り合わず板のように固かった。日頃から怠ることなく鍛錬に励んでいる何よりの証拠だ。

「じゃ、ボクは行くから。おじさんも密猟者なんか辞めなよ」

良い死に方出来ないよ、と言う最後の台詞は既に遠い。あの大きさの武器を携えているにも関わらず、岩棚から岩棚を驚異的な速度で跳び歩く彼女は、既に洞窟上方にある出口に達しようとしていた。僅かな窪みや出っ張りを足掛かりに、急な斜面を見事な身のこなしで登っていく。男がこの洞窟に出入りする時は鉤つきのロープや杭を使っていた。それを考えると少女の身体能力は常軌を逸している。

 男は少女の姿が見えなくなっても暫らくそのまま出口を見上げて放心していたが、やがて全ての道具をかき集めて洞窟を出た。壁を登る途中で大事な弩も落としてしまったが、そんなことはもうどうでも良かった。

 取るものも取らずに故郷の町に逃げ帰り、以来男は一度も狩りには出なかった。彼を良く知る仲間の数人は、酒場で「俺には向いてなかったんだ」と呟く男の姿を見たという。

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