ねずみとチョコレイト 20200214
今日はバレンタインデーです。三匹の科学者ネズミは、いつも意地悪をするネコたちに仕返しをするために、あるものを開発しました。
「おい、おまえの使命を言ってみろ」
「はい、ネコたちに美味しく食べてもらうことです」
「できるか」
「はい」
その形は一見するとネズミに似ていましたが、その全身は焦げ茶色に染まり、さらに風にたなびくはずの毛は、固く尖ったままです。4gある体重を持つそれは自分でものを考え、行動する、いのちを持ったチョコレイト。ネコが彼を食べれば、たちまちのうちに中毒症状を起こすことでしょう。死にはしないまでも、大きな苦痛をもたらし三日三晩寝込むことは間違いありません。
そして今、ネズミたちの技術の結晶が、胸を張り堂々とネコたちの住処へと歩いていきました。
「ふ、ふ。ネコたちは喜んでくれるかなあ」
床裏の通りから表の通りまでやってくると、二匹のネコがチョコレイトを見るやいなや、道をふさいできました。黒ぶちの親分ネコと、三毛の子分です。
「やい、おまえ。ここはオレ様たちのナワバリだぜ。許可なく通ろうとするやつは、この、見ろ。この爪でばっさと切り裂いてやるぞ」
「そうだ、そうだ。兄貴が爪で切り裂いたあと、おいらがペロリと食ってやる。く、く、く。その美味しそうな肉を、に、く、を」
この脅し文句は、そこらのネズミどもが聞いたなら、全身の毛を逆立て、ぶるぶるとふるえながら自分の住処へ逃げ帰るほど怖いのですが、このチョコレイトにとっては、たっての願いでした。
「わあ。うれしいなあ。こんなに早く食べてもらえるなんて。さあ。どうぞ」
「いや、いや。どうぞじゃないよ。おまえ、頭がどうかしたのか」
「いえ、ぼくはネコたちに食べられるために生まれてきたので」
「おれたちに食べられるってことは死ぬってことだぜ」
「死ぬ。ですか」
「次はないってことだ」
「ぼくは今、あなたに食べてもらえたなら、あとは、どうなってもいいんです」
それからネコとチョコレイトたちは死ぬとか生きるとか、哲学なやり取りを数度すると、お互いの話が平行線になっていることに気づき、どちらともなく解散しました。
落ち込んだチョコレートが他のネコがいる場所を目指し、倉庫の入り口近くにやってくると、そこには三匹のネコ家族がいました。群青のビロードの父親ネコと白い毛がふわふわの母親ネコ、そして短い白毛の子ネコです。
三匹のなかでも子ネコはまつげが長く、スラッとしつつも愛嬌のある顔をしたとびきり可愛らしいネコで、チョコレイトはひと目でクラっとして、頭が茹だるような、足がおぼつき、その場に座り込んでしまうような不思議な感覚を味わいました。
「あら、あなたはネズミさんね。ここらで見るのは珍しいわね」
母親ネコは目ざとくチョコレイトを見つけると、笑いをこらえるような顔で近づいてきます。それにつられて父親、子ネコもきました。
「わたし、ネズミって初めて見るワ」
子ネコの方は初めて見るネズミに興味津々で、透き通ったブルーの瞳をくりくりと動かしながら、チョコレイトを観察します。チョコレイトは、恥ずかしいやら、照れ臭いやらで、あちらを見たり、こちらを見たりです。
「ふ、ふ。ネズミさん。ごきげんよう。今日はいい天気ですわね。といってもここは室内ですから、天気もなにもありませんが」
さっきの不良ネコとは違って、この母親ネコはなんだか気の良さそうなネコで、これなら気持ちよく自分を食べてくれるだろうと、チョコレイトは嬉しい気持ちになってきました。
「こんにちは。あたたくて、いい天気だと、その、思います」
「そう。それはよかった。ところでネズミさん、あなた、ネコの大好きなものって何かごぞんじですか」
この質問には困りました。なぜならチョコレイトは生まれてこのかた、会話は科学者ネズミとの事務的なやり取りしかしてきませんでした。なので誰が、何を好きとか嫌いとか、そういう話はしたことがなく、気の利いたことは何も言えません。聞き返すのが、精一杯でした。
「ええと、すみません。何でしょうか」
「ふ、ふ、ふ。それはね、ネズミよ」
母親ネズミはついに笑いを抑えられなくなり、狂ったように笑い出しました。
「私たちは意地悪でねぇ、ネズミ、それもまんまるに太ったのを見るといじめたくっていじめたくって。ふふふふふ」
つられて父親ネズミも吹き出したように笑い、しかし、チョコレイトと、幼い子ネコにはなぜ二人がこんなに笑っているのかわかりませんでした。親ネコに立ち上った感情を知るには、まだチョコ生、ネコ生での経験というものが足りなかったのかも知れません。ですが、何も分からなくたってチョコレイトにはよかったのでした。
「あの、それならぼくを食べてくれませんか」
「はあ」
なんだって、誰かが笑ってくれているなら、体がぽかぽかして、チョコレイトは嬉しかったのです。
「変なネズミだこと。まあいいわ、食べて欲しいというなら、望み通りにしてあげます」
さあ、母親ネコがまっすぐ近づき、鼻先でチョコレイトの足をつつきました。
「今からお前の足を食べてやる。そのあとに、手をもぎ取って食べるわ。そして胴をばりぼりと砕いて、さいごに頭。ふふふ」
これから自分の使命を果たせるのだと思うと、チョコレイトはもう嬉しくて、嬉しくて、体が熱くなってしまうほどです。あまりの熱さに、ついには体が少しずつ溶け始めてしまいました。
「む、あなた。この子の体が溶けてるわ」
「ほんとうだ、それにこの甘い匂い、母さん、なんだか嗅いだことないかい」
ネコは小学六年生になると、理科の時間で、チョコレイトが毒であることを教わり、その時にその匂いを嫌というほど覚えさせられますから、親ネコたちは当然チョコレイトがあのチョコレイトであることにも気づきます。
「あんた、チョコレイトだね、ふん、巧妙に隠してたみたいだけど、わたしの鼻はごまかせないよ。この殺人詐欺師め、どこかに消えちまいな」
「そ、そんな、ぼくはただ、あなたに喜んでもらおうと思って」
「おだまり、なんと言おうがあんたはチョコレイトなのよ。このことは近所の連中にふれまわるから、もうここいらで悪さはできないわ」
母親ネコの詰問に、チョコレイトはたちまちふるえ上がり、腰を抜かして立てなくなってしまいました。溶けかかった体も冷え、中途半端に固まったものですから、その姿は見るに耐えないほど惨めなものです。その様子に、子ネコはたまらなく悲しい気持ちになりました。
「待ってよおかあさま、このネズミはチョコレイトっていうのね、でも、甘い匂いだし、悪そうなネズミには見えないワ。あんまりいじめちゃ可哀想よ」
「あなたは何も知らないからそう思ってしまっても仕方のないことだわ。でも、こいつは私たちネコにとって、危険なの」
「でも」
「でもも杓子もないわ」
母親ネコの一喝に、子ネコは怯え、家の中にすっこんでしまいました。
「さあ、去れ。おまえの血で爪を汚すのも嫌だよ」
チョコレイトは慌てて逃げました。走って、走って、風呂場の角にたどり着き、生まれて初めての惨めな、悲しくて冷たい思いにひとり泣きました。チョコレイトが涙を流すたび、一雫、一雫、チョコレイトが液体になって落ち、辺りには甘い匂いで溢れかえります。
「う、う。チョコレイトはそんなにいけないのか。博士はなんで教えてくれなかったんだ。いや、博士はぼくを悲しませないように言わなかった。なら、悪いのはぼくだ。ぼくひとりが全部悪いんだ」
涙を流すたびにチョコレイトの目が小さくなっていき、ついには目がなくなってしまった頃です。
「チョコレイトさん、泣いているの。どうか悲しまないで。わたし、誰にも泣いていてほしくはないワ」
チョコレイトを哀れんだ子ネコが、母親たちにみつからないように家を抜け出し、チョコレイトの様子を見にきてくれたのです。
「ぼくはチョコレイトです。悪い奴なんです。あまりちかづくと、ひどい目にあいますよ」
チョコレイトは体だけではなく心もすっかり惨めになっていました。子ネコが優しさから話しかけているのがわかっても、素直にうけとることができなくなっていました。
「近づかないでください、話しかけないでください。ぼくは、あなたに声をかけてもらえるような、りっぱなチョコレイトではないんです」
「なによ、わたしが知っているチョコレイトはあなただけだワ。良いも悪いもこれから知るんじゃない」
チョコレイトの気持ちを知るか知らないか、子ネコはチョコレイトの涙を拭うように、彼の顔をペロペロと舐めました。
「わ、わ。何するんです。ぼくは毒なんですよ。舐めたらだめなんです」
「わたし、毒ってのも知らないワ。だけど、あなたが甘いってのは今知ったワ。ふふ、どれもこれも、それも、これから知ればいいんじゃない。いい経験だと思えば、何だってやる気になるワ」
子ネコの優しさに、惨めさでいっぱいだったチョコレイトの心に、火が灯るように、暖かさが戻ってきました。その暖かさでまた体が溶け、しかし今度は幾分か見れるようなシュッとした佇まいに落ち着きました。
「ふふ、だいぶ格好良くなったワね」
「ありがとう。ありがとうございます、子ネコさん。そうだ、全部これから知っていけばいいんじゃないか。これからだ。生も死も、毒も甘いも、ぼくのことやネコたちのことだって」
チョコレイトの心には今、勇気の炎が灯っています。明日へと一歩前へ出る、たとえどんな困難が立ちふさがろうとも、乗り越えていこうとする、強い気持ちが。だからこそ、チョコレイトがまず、その一歩目を子ネコに捧げたいと思うのは当然の事でした。
「子ネコさん。どうか、ぼくを食べてください。ここから、ここからぼくは変わろうと思います。一歩前へ、まずは、お互いを知るために」
子ネコは、惨めさから立ち上がったチョコレイトの心に、彼の心の炎が子ネコの心に燃え移ったかのように胸が熱くなり、そして、できるならこのチョコレイトの気持ちに応えたいと思うようになりました。
「わかったワ。いただきます」
子ネコは大きく口を開け、一思いにチョコレイトを飲み込みました。
「チョコレイトさん、あなた、とっても甘くておいしいワ」
胃の腑に落ち、チョコレイトが溶け、子ネコの体と交わろうとするころです。
子ネコは突然に脂汗が止まらなくなり、体がしびれ、ふるえ、どうしようにもなくなりました。「ぐ、ぐ」胃のチョコレートを吐き出そうにも、出てくるのは空の嗚咽だけです。
何分、何時間と苦しんだのち、子ネコの体はだんだん寒くなってきました。春を迎えようとするこの季節は、暖かい風が吹くものです。が、子ネコの短い毛は暖かくとも、体の中は吹雪に吹かれているみたいに寒いのでした。
そしてもっと寒くなり、ふるえもしびれもなくなったころ、子ネコはふと。
「こんなこと、知るんじゃなかった」
と思い、それきり、冷たくなって動かなくなってしまいました。
その様子を影から見ていた科学者ネズミたちは、これからのこと、つまり怒り狂ったネコたちに復讐されることが恐ろしくなり、どこか遠いところに姿を消しました。
「ううむ、これは大変なことになったぞ」
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