第36話② 兄と弟

〈大神殿にて〉


 クルケアン下層中心部の大空洞、そこには大神殿が権勢を示すかのように屹立している。不信心な市民も人為を越えたその巨大な建造物には神の存在を信じざるを得ず、平伏して高位の神官の言葉に耳を傾けるのである。しかしその神官達ですら三人の人物には頭を下げざるを得ない。教皇のトゥグラト、その弟のアサグ、そして神殿長のシャヘルである。ただし神殿長に対しては、成り上がりの阿諛者あゆしゃめと、下げた頭のまま舌を出すのが彼らの慣習であった。一方、アサグに対しては命乞いをする奴隷の従順さをもって、首を差し出すかのように半ば平伏するのである。

 しかしこの日は例外であった。クルケアンを支配する大貴族、ピエアリス家の当主の弟が大神官に就任し、アサグの粛清を叫んだのである。彼は大神官という立場に満足せず、神殿の最高位を得るためにまずは障害となるアサグを消そうとした。取り巻きが顔色を青くして反対するが、彼は自分の決定に不満を持つ者に対して鞭を振るうのだった。


「情けない、私は自分の欲のためにしているのではないぞ。教皇を誑かして堕落させた、あのアサグを取り除かねばイルモート神の威光が霞んでしまう。……ふん、女でありながら弟と称して教皇の私室にまで出入りするとは、浅ましい奴め」


 自分が女性の神官を執務室に連れ込んでいることは棚に上げ、大神官は私憤を公憤に変えて嘆き、ため息をつく。


「し、しかし、アサグ殿の部下には手練れも多いと聞きまする。それに大神官様の御手を汚すわけには……」

「下郎に対して私がわざわざ手を下すと思うのか? 平貴族の騎士どもを地位で釣って向かわせておる」


 騎士が首を持ってくるのを待ちきれず、大神官は部屋を出てアサグの執務室に向かう。彼は弾むような足取りで廊下を歩きながら心中で思う。自分の偉功を知らしめるためにも劇的な場面でアサグの死を利用するのだ。そう、できるだけ多くの神官を集め、血だらけのアサグの首を掲げている騎士を顕彰しよう。そして涙ながらに教皇の非を訴え、クルケアンのためにしかたなくトゥグラトに退位を迫るのだ……。


「神官達よ、クルケアンが救われるという佳き日に祈りなぞしなくてよい。私と共に正義が成就される瞬間を見ようではないか」


 大神官は神官達が一斉に頭を下げる様子を見て満足げに頷く。神官どもはこのように貴族に従順であればよい。このクルケアンは貴族のものであり、祈るだけの神官に権威などいらないのだ。それなのに神殿は分不相応にも評議会で強権を持っている。だが自分が神殿を支配すればその間違いも正せるし、何より次男というだけで家を継げなかった自分の力を当主の兄に見せつけることができる。


「そうだ、いっそのこと兄も殺せばいい。そして貴族と神殿の第一人者に、いや王になればいいのだ。クルケアンの歴史に残る偉大な王に……」


 わざと周囲に聞こえるように呟いて追従を求めるが、よく見れば神官らは自分とは違う方向に頭を下げているのだった。その無礼を咎めようとした大神官は彼らが廊下の奥からやってくる一団に対して敬意を払っていることに気付いた。そこに目をやると目的の首だけでなく、胴体もつけている女がいたのである。


「ア、アサグ、なぜ生きているのだ!」

「おや、これは大神官殿。青い顔をして何か心配事でもおありかな。なればこれを差し上げましょう。多少の慰めになればいいのですが」


 アサグの部下が包みに包まれた何かを慇懃に渡す。ずしりと重いその包みを開けると、そこには騎士の生首が現れた。


「ひ、ひぃい!」


 大神官が払いのけるようにのぞけると、視界の先にアサグの部下達がまだ多数の包みを持っていることに気付く。


「ま、まさか、三十人の騎士、全員を屠ったとでもいうのか!」


 アサグが顎を向けると、武器を持った黒ずくめの兵が現れ大神官を取り囲む。アヌーシャ隊と呼ばれる彼らはアサグ子飼いの部下であり、諜報と暗殺を専らとしていた。そして誰しも彼らを見れば異形であることに気付くのである。片目がない者、腕や足がない者、そして皮膚の病に侵された者……大神官にとってそれは忌むべき下賤の民だった。


「この賤奴めが、高貴なこの私に近寄るな!」


 その言葉に反応したのはアヌーシャ隊の兵士ではなく、アサグの副官の神官兵だった。まだ若いその兵は大神官の前に立ち、生気のない声で非難する。


「病にかかり捨てられた者、また兵士の義務を果たして傷ついた者に対し、労う言葉をかけるどころか、卑しいなどと吐き捨てるとは。大神官、真に卑しいのはあなたではないのか?」


 大神官が驚いたのはアサグの部下の事情を知ったからではなく、また自身の行為や無知を恥じたわけでもない。齢十七、十八くらいの小娘がアサグの副官を務めているとは思いもよらなかったのである。


「小娘の分際で、この私に説教をするか! ……ちょうどいい、この場で殺し、お前とアサグの首を教皇の間に放り込んでくれる」


 神聖で平和であるべき神殿の廊下で、白刃が乱立し撃ち合う音を響かせる。人数では互角に見えた戦いも、先頭に立つ娘によって一人、また一人と倒され、空いた隙間をアヌーシャ隊の兵がさらに拡大していくのだった。


「大神官、あなたを反逆の容疑で拘束させていただく」

「その細腕で私の剣を受けきれるものか!」


 大神官は清貧であるべきその職位にふさわしくない、豪華なこしらえの長剣を振り下ろす。その勢いは重く鋭いものであり、彼が無能ではあってもひとかどの戦士であることを示していた。娘の方は大神官の筋書きに付き合って正面から受け止めるつもりはない。相手の利き腕に向けて大きく斜めに踏み込み、横薙ぎに剣を払う。空を舞う剣と手首が誰のものか気づいた大神官は奇声をあげ、自ら流した血の絨毯の上に座り込んだ。そして近づいてくる娘に対し、逃げようとして無様に滑りながら這いつくばる。


「命を奪うつもりはありません。裁きの後、アヌーシャ隊に入りたいというのであれば歓迎します。下賤の民の生き方を知るいい機会となるでしょう」


 娘は淡々と告げた後、アサグに一礼し指示を待つ。捕縛後は政治の領分であり、自分がしゃしゃりでるものではないと考えているのであった。


「ご苦労でした、サリーヌ。あとは私に任せて先に戻っていなさい」

「先に? アサグ様はどうされるので」

「さすがに大神官を捕縛したのです。兄に報告をしなければならないでしょう」


 サリーヌは大神官の血止めをした後、アヌーシャ隊を率いてその場を離れた。アサグは誰もいなくなった廊下で大神官を見下ろして言う。


「……出来が悪いだけの貴族であれば家畜として生きていけたものを。やはりヒトは愚かで醜い獣よな」

「ア、アサグ殿、私はピエアリス家当主の弟だ。まさか命を奪うなどとは言うまいな」

「それも我が兄が決めること。おお、ちょうど騒ぎを聞きつけてお見えになりましたぞ」


 神殿の廊下を一人の老人が歩いている。痩せさらばえたその体が生む足音は、しかし獅子のように力強い。


「兄上、この反逆者をいかがいたしましょう。ピエアリス家の者ゆえ、役に立つとは思いますが」

「そうよの、先ほど当主からも嘆願があった」


 瞬間、大神官の顔に喜色が浮かぶ。そうだ、教皇であれ、アサグであれ、自分の家を無視することはできないのだ。今は従うふりをして、後日に軍を率いて復讐をすればいい。兄に借りを作ってしまったのは腹立たしいことではあるが……。


「当主のエパドゥンは今回の不始末の詫びに、財産の半分を神殿に差し出すという。そしてそこの弟も捧げるという事だ」

「では、奴の血はイルモートに? それとも兄上に捧げましょうか。希少な大貴族の血、最後の一滴まで役に立ってもらわねば」

「いや、我が弟よ、お主が喰らい呑みほすがよい。直に始まる外敵との戦いに備えておけ」

「御意のままに」


 大神官は二人の会話を理解できなかった。なぜ兄は自分を捨ててまで教皇にひれ伏すのだろう。なぜ教皇とアサグは自分の血を、体を貪るようなことを平然と口にするのだろうか。そして現在、魔獣との戦いはあっても外敵、つまり敵対する都市や国家は存在しないのだ。四半刻まで思い描いていた世界とは真逆の現実に、彼は考えることを放棄した。蝸牛のようにゆっくりと這いながらその場を離れようとする大神官を横目に、トゥグラトはアサグに語り掛ける。


「我が弟よ。サリーヌの様子はどうだ。大きな変化はあったのか?」

「……いえ、戦いの技術は向上していますが、まだあのような力はありません。魔力といえば暴発するのみで特定の祝福が顕現する様子もありません。強いてあげるのなら、アヌーシャ隊の兵どもの支持を得ていることでしょうか」

「やはり奴らと接触させねばならないか」

「兄上、酔狂もよろしいが目的を忘れてはなりませんぞ。そのためには殺すこともご考慮ください」


 アサグのその言葉にトゥグラトは返事をせず、背を向けて自室へ戻っていく。途中で大神官を追い越すがもはや気にする様子もない。彼がわずかに意識に留めたのは、背後から響く、化け物め、という叫びと喉を鳴らして何かを飲んでいる音だけだった。


「我が弟よ、目的を果たすために必要なのだ。あの力さえ我が物になれば、地上だけでなく天を支配することができる――」


 数日後、神殿から大神官が不慮の事故で亡くなったことが発表された。事情を知る神官の多くは口を噤み、表向きは従容として立ち振る舞う。器用な立ち振る舞いができない、恐らく少数派であるサリーヌが真実を求めアサグに面会した。

 アサグは暗い目をした少女の、感情のこもっていない苦言を聞き流しながら不思議に思っていた。機関に所属し、アヌーシャ隊と共に汚れ仕事をする彼女であるが、相手を殺すことだけは避けていた。過酷な任務で精神と人間性をすり減らしているにもかかわらず、大神官に死を与えたことを批判するだけの感受性は残っているのだ。もしこの娘の目に光が戻ればどうなるのだろう。闇ではなく光が当たる場所に生きるようになれば、兄が欲してやまない、あの時の力を顕現するのだろうか……。

 

「サリーヌ、次の任務を与えます」

「アサグ様、私の話は――」

「機関の者から情報が入りました。水の祝福者であり評議員のイグアル、太陽の祝福者タファト、この両名が弟子を率いて百層で何かを企んでいるとのことです。クルケアンの反体制派の彼らを監視し、必要があれば打ち倒しなさい」

「……了解です」

「百層には私も向かいましょう。そこには飛竜騎士団の新兵と我が機関のはみ出し者もいるとのこと。腕は立つ者共ですので、油断なきように」

「アサグ様が警戒される、その二人の名は何というのでしょう」

「騎士バルアダンと神官ダレト」


 サリーヌは頷き、その名を何度も呟いて覚えようとする。その様子をアサグは皮肉気に見つめていた。

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