天国への階段
第266話 神々の言い分① 蛇王モレク
〈神官アサグことモレク神、廃墟のクルケアンにて〉
さて、ヒトとして最強格であるサラ導師はイルモート、エルシード、そしてガドという少年兵らをこの世界から弾き飛ばし、力尽きて死んだ。時を超えるためには月の祝福者はその命を賭さねばならぬのだから当然だ。だがバァルすら手玉に取ったあの老婆がおとなしく死を選ぶのだろうか。
「タダイ、サラ導師の死後、この荒廃した世界において月の祝福を使えるのは貴方一人しかいない、違いありませんね」
「そうですとも、いや正しくはこの石像となったシルリがいますがね」
そう言ってタダイは石像を足で小突く。しかしそれでも祝福者の、いやサラ導師の魂を感じるのだ。その弱々しい波動を負っていくと視線のはるか先で神獣と戦う一人の老人へとたどり着く。
「ラメド、なぜ貴方からサラの気配がするのでしょう?」
廃墟と化したクルケアンで元老のラメド、ハドルメ騎士団のシャマール、フェルネス隊のガルディメル、車輪のギルドの関係者であるヒルキヤ、ギデオンが最後の抵抗を見せている。しかしそれも時間の問題だ。連れてきた騎士団は全員が魔人であり、巨大な神獣をその乗騎としているのだ。敵うはずもない。
「おや、モレク様。原始の獣に戻った竜のうち二体ほどがクルケアンに向かっておりますな。ふむ、まだ神人としての意識がある者がいると見える」
「あの巨大な竜はバァル、黒い竜は鉄塔兵のナハルでしょう。……タダイよ、全ての祝福を持つ主神の従者よ、少しばかり原始の時代に戻しすぎてはいませんか。あれではメルカルトと争っていた獣の王バァル、その全盛期に近いではないですか」
そう、今のバァルは時を経て弱くなった竜種とは違う。世界がその産声を上げ、草木の時代から生き物の時代になった時の、種族の長たる巨大な獣が地上を蹂躙していた時の姿に近い。
そうだ、原始の時代だ。あれからどのくらいの時が過ぎていったのだろう。
互いの種族を殺し合い、自らの種で世界を埋め尽くそうとする獣とその王達は、やがて主神の使いによりその争いを止めることになる。その使いはタダイといった。
「わが主の決定を伝える。獣の王達よ、地上から争いをなくすため、今からお主らは天に上がるのだ」
純粋な力では一番強かった飛竜の王と翼無き竜の王が、タダイをその爪牙にかけんと突進する。しかしタダイの後背から差す光を浴びて弱々しいヒトの姿へと変わっていったのだ。
「愚かな王達だ。しかし主の慈悲に首を垂れるがいい。主の似姿を得て天に住まうことができるのだから」
そして他の王も、私の姿も変わっていった。
月の広寒宮にて神に拝謁し、名を賜る。
飛竜の王はバァル、
翼なき竜の王はメルカルト、
巨大な獅子の王はラシャプ、
水棲竜の王はダゴン、
そして巨大ではあるが、ただの蛇であった私はモレクと名付けられた。
主神より名と理性を与えられ、その偉大さと力の強さを前に服従せざるを得ない王達とは違い、私は純粋に主神を敬った。手足もなくただ森や沼を這いずり回り、おぞましき姿から弱き獣に畏怖されていた私にとって、神の似姿を得たことは歓喜という言葉だけでは表すことはできなかったのだ。崇拝し、従属するのは当然であった。
「これが手か、足か! もう醜い姿で畏れられる必要はないのだ」
同種もなく、孤独であった私は新しい自分の体に狂喜した。そんな私を奇異ととらえたのか、ラシャプが忌々し気に舌打ちをする。
「モレクよ、元の体を失って何を喜んでいるのか。獣であったお前はあんなにも強く、また相手を殺すのにふさわしい、そう、美しい肉体だったというのに」
力任せに牙を突き立てる他の王よりも、闇に潜み、毒を持ち、締め上げて敵の行動を奪う私の体が羨ましかったのだと、ラシャプは吐き捨てたのだ。それは私にとって二度目の衝撃であった。
「ふん、どうやら主は我らも神として地上の支配を行うらしい。我が同族も神人となり、タダイの配下となった。面白くないが仕方ない。だが、いつの日か主を弑し、他の神を打ち倒し、世界を支配するつもりだ。モレクよ、我と共に来ないか?」
「何と、あの主に勝てるとお思いか! それにすでに私達は獣ではありませんぞ。与えられた理性がそのような反逆を是としないはず」
「そうだ、与えられたのだ。名も理性も体も放り投げられるように与えられたのだ」
ラシャプはこぶしを握り締め、悔しさに涙さえ浮かべてそう言った。そして私の肩を掴んで、血走った目を向けてこう言ったのだ。
「……だが、魂と精神、そしてそこに刻まれた獅子の王たる誇りだけはまだ我のものだ。その誇りにかけて理性を押さえてくれよう。しかし我だけではだめだ。モレク、戦い殺し合ったお前となら、その理性を押さえ神に挑むことができるのだ」
元の体を認めてくれていたラシャプ、そして新しい体を与えてくれた主神の間で私は揺れ動く。神に相応しからぬ逡巡は、その二つの存在が等価であったためだ。
「モレク、我の同族となれ。いや違うな、神となった今では種族というわけにもいかぬ。……そうだ、弱き獣でいう家族だ。家族となれモレク、我が与えられるのはそれしかない」
天秤の片方に重みが加わる。忌まわしき孤独な巨蛇はもう一人ではないのだ。こうして私は兄を得た。
時が過ぎ、主神は弱き獣に祝福を与えヒトに変化させて消え去った。
反逆の時は今と、私、ラシャプ、メルカルト、ダゴンと共に天と地の支配権をかけてバァルと戦い、そして敗れた。魂だけとなりヒトの世界で復活を果たそうとしていた折り、兄のラシャプに変化が見られたのだ。記憶は薄れてしまったが兄ラシャプと王妃が最後に対峙した時ではないかと思う。あの時、兄は王妃を殺しはしたが、彼女魂を自分の呪いから守ったのだ。腹立たしくもあり、悔しくもある。しかし長く生きれば一時の気の迷いもあろう。そう、それで済むはずだった。
再び長い時が過ぎ、神官のナブーが一人の少女を連れてきた。強い魔障を持ち、このまま死を待つのみの病人だが、技と魔力を暴走させ魔獣の実験に供しようと小神殿からなかば誘拐同然で引き取ったのだという。震える少女を関心もなく見て、好きにせよと命じようとした時、元老のトゥグラトとしてクルケアンに君臨している兄がやおら立ち上がったのだ。
「そうか、そういうことか!」
「兄よ、いかがされたので?」
「モレク、この娘は実験に使わず特務の神官としてお主が育てるのだ」
「異を唱えるつもりはありませんが、この娘の魔障は尋常ではありません。一年も経たないうちに死ぬでしょう」
「我の呪いをこの娘に与える。魔障如き、我の力で押さえつけられるわ」
「……仰せのままに」
兄は娘に近づき、その魂の力をゆっくりと注いでいく。
あぁ、その光景は主神が私達の姿を変えた時のものにそっくりであった。
それは呪いというものではないのだ。
「モレク、この娘に新たな名を授ける」
なぜ、なぜなのです。兄よ。
なぜヒトに祝福を授けるのです。
「サリーヌ、そう、サリーヌだ」
「……了解いたしました。ナブーにもそう伝えておきましょう。意識が回復次第、特務の機関にて訓練を施します」
「うむ」
娘が成長すると、兄は直々に任務の報告を娘から直接に受けるようになった。
心がざわりと、波風を立てていく。この感情は何だろうか。
「モレク、お前にはサラとラメド、シャマールを始末してもらいたい。神殿が直接関与したと思われるのも面倒ゆえ、地下の大空洞に追い落とし、違う時代にてその存在を消すのだ。帰還する時にはタダイか、シルリの石像を使え」
「承りました。して我が兄はその間どうなさるので」
「バルアダンを天と地の結び目に追い落とし、過去に送る。そして奴は王となりまた戻ってくるだろう」
「……やはりバルアダンが王でしたか。しかし何故ここで殺さないので?」
「獣の王がヒトの王と決着をつけるのだ。対等な立場でなくては我が誇りが許さぬ」
「……」
「どうした、我が弟よ」
「いえ、何でもありませぬ。それでは大空洞へ向かいます。ご武運を」
「あぁ、必ず戻ってこい、モレク」
兄の言葉を受けて神殿を後にする。
四百年前、ヒトに記憶と名を奪う呪いをかけたのは兄だ。そして王妃によりその呪いは反転させられ、私やダゴンにも降りかかった。
「しかし兄は記憶を失ってはいなかったのだ」
あの呪いは兄の力であり、祝福である。記憶を保持していて当然だ。
ならば王妃というのは……。
「サリーヌか!」
魂に雷が落ちたかのように衝撃が怒り、記憶が戻る。
兄は分かっていてバルアダンとサリーヌを過去の世界に送り込むのだ。確かに戻ってきたバルアダンとの決着をつけたいのも本当であろう。しかし、しかし……。
あぁ、この感情は嫉妬だ。
私は王妃が憎い。
王妃は私の家族の心を奪ったのだ。
兄は、地上だけでなく、天と死者の国を支配すると言っていた。
その真なる狙いが分かったのだ。
「死者の国で眠る王妃の魂を欲するか、我が兄よ」
私は憎悪と怒りを王妃に抱く。そしてその感情は王妃の師である月の祝福者サラ、いや、月の女神ナンナに向かうのだ。そしてそのナンナの力を、今はラメドという老人に感じていた。
「ナンナよ、全ては貴様の思惑通りということか。死の国を作り、神ですらヒトの魂に惹かれ変化する……。だが、私も獣の王の一人としてそれを否定しよう。誇り高き獣は、ヒトになぞ屈しないということを」
私はそう吐き捨てて、ナンナの残滓を滅ぼすべく老人の許へ向かった。
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賢者の死篇の続きとなります。
ガド達がサラ導師の死と引き換えに現世に戻り、取り残された元老のラメド、シャマール、ガルディメル、ヒルキヤ、ギデオンがアサグとタダイ、神獣騎士団と対峙しているところです。
この話の後で、ラメドは前篇「死者の国」の最後でサラを復活させるのだと認識してください。
ばらばらに散った仲間たちが、この篇で現世に集合し、決戦への準備をしていきます。
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