第239話 クルケアン動乱⑥ イルモートの血杯

〈ティムガの草原にて〉


 カルブ河を見下ろすティムガの草原に、なだらかな丘が連なっている。後にイルモートの血杯と呼ばれたこの地には敵味方定かでない集団がひしめき、ただ目の前の兵を敵として、槍を突き出して突進していった。「ぼろもうけ団」を率いるウェルはその先頭に在って小振りの双剣を落日にかざして味方を鼓舞していた。


「あたしらの竜はもう高くは飛べない、ハドルメと共にただ突撃するんだ。アナト、上空からの支援は任せたよ」


 ウェルの翡翠色の、踊るような視線を受けてアナトは安堵の息をついた。ザハグリムの負傷で意気消沈しているかとみれば、見事に立ち直り、あの寄せ集めの一団を指揮している。諸突猛進に見えてタダイの本陣へ向かうにあたり、一番陣容の薄い箇所に突き進んでいるのだ。


「やれやれ、血の気は多いが流石はバルアダンの部下だ。さぁ、神獣騎士団第三連隊、我らも負けてはおれぬ、上空からフェルネスの軍を叩くぞ。相手は第一連隊だといえ遠慮は無用だ。神に仕えるにふさわしいのはどちらか、力で証明してくれよう!」


 アナトの下知のもと、丘陵地帯の上空に布陣したフェルネスに向かって第三連隊は突撃していった。同じ神殿に所属する騎士たちの凄惨な殺し合いが始まり、兵たちは神獣の牙や騎士の槍で傷ついた体から血をティムガの草原に降り注いでいく。

それぞれの連隊は数度の突撃を繰り返し、徐々に高度を下げて丘陵地帯のくぼ地の淵に着地した。地形的に連隊全員が展開できる広さはなく、また、竜ほどに飛行が得意でない神獣のため、もはやウェルやオシールらが上空から攻撃を受けることはないだろうとアナトは判断し、半数をウェルの救援に向かわせ、残りを左右に展開させ決戦の機を窺った。対するフェルネスは陣を中央に厚くし、ここにほぼ同数の神獣騎士団がくぼ地を見下ろしながら向かい合った。突撃をすれば、地形的に逃れるすべはなく、どちらかの兵を殺しつくすまで丘に戻れることはないであろう。

 陣の先頭に立つフェルネスが、困りものの後輩を気にするような声色でアナトに問いかけた。


「アナト、バルアダンはまだ帰還していないのか?」

「直に帰るさ。何せあいつはバルアダンだからな。家族と世界を救うために戻ってこないはずがない」

「そうだな、バルアダンだからな」


 互いが吹き出す様子を確認し、二人は愉快そうに笑う。


「お前に天と地の結び目ドゥル・アン・キに追い落とされたおかげでな、バルアダンは王になったぞ」

「王だと? このクルケアンの王は一人、俺にもある程度の記憶はある。俺は王の息子だった……。しかし、バルアダンが父のはずがない」

「その通りだ、お主の父の名はハドルメ最強の男、ヤバルという。お主の父と喧嘩をしてきたんだ。あぁ、ヤバルは強かったぞ、魔神を倒し、クルケアンを救ったほどだ」

「待て、何をいっている」

「そうそう、お主を導いてくれ、と母君から頼まれた」

「アナト、待て」

「フェルネス、お主の母の名はイスカという。ハドルメで一番美しく、また強かった女性だ」


 フェルネスが狼狽したように一歩後ずさり、部下がその背を支える。彼の精神に同居するメルカルト神がヤバルの最後を、魔人に向かうその後ろ姿をフェルネスの心に再現していく。


「メルカルト、貴様、何をする!」


 メルカルトは何も答えず、かつてヤバルの内に在って見た光景を再現し続けていた。やがてその光景は赤子のフェルネスが見た光景となり、フェルネスは真実を思い出す。


「……そうか、俺はあの人の背中を目指し、超えたかったのか」

「フェルネス、自分の真名が知りたいか?」

「不要、父を超えるまではその名は名乗れぬ。さて、少し思い出したが、子供の頃にオシールから聞いたことがある。王の側には不敵で不埒で演技が下手な大神官がいたと」

「オシール、あの減らず口の悪童め!」

「ここで死なずに済んだら今のオシールに文句をいうがいい。そうそう、妹に頭が上がらないともいっていたな」

「……フェルネス、母君に導いて欲しいといわれたが、不敵で不埒な大神官は荒っぽい手段しかとれぬ、それでも良いな?」

「望むところだ。お互いに戦い抜ぬいて、そして時を超えてここまできたのだ。所詮、剣でしか解決できぬ」


 二人の指揮官が突撃を叫び、イルモートの血杯と呼ばれた丘陵地帯に兵が殺到した。神獣たちの魔爪がぶつかり、互いの肉をえぐり取る。槍が鞍上の敵を刺し貫き、地に叩きつけられたかと思うと、後ろから攻め寄る味方の神獣に踏みつぶされるのだ。地獄を再現したかのようなこの戦いは、兵の疲労度の差であろう、やがてアナト側に有利に展開していった。そして第三連隊の両翼が第一連隊を包囲した時、アナトはフェルネスに呼びかけた。


「フェルネス、これ以上は無駄だ、降伏して部下の命を救え!」

「違うぞ、アナト。彼らは死にたいのだ。魔人となり、自我を失い、そして俺に頼んだのだ。殺してくれ、とな」


 両軍の最前線でアナトとフェルネスはぶつかった。フェルネスの騎竜であるハミルカルが主人を弁護するかのように悲しい鳴き声を上げる。


「なぜ彼らに生きろといわない。バルアダンならそういうはずだ!」

「自分が誰か分からぬままで生きる程、恐ろしい事はあるまい。それに約束をしたのだ」

「約束だと?」

「イルモートの力を以って世界をやり直すとな。四百年前の悲劇を繰り返さず、この部下たちも、そしてハドルメも救ってみせる」

「ならば尚の事、俺たちと一緒に来い。セトも、エルシャも、バルアダンもそう考えている! アスタルトの家がこの世界を救うのだ」

「それは新しいクルケアンやハドルメを創るという救いだ。犠牲になった人々の墓の上に作った世界だ。俺の道ではない」


 アナトの申し出を拒絶しつつもフェルネスは心に引っかかるものがあった。アナトはセトについて言及したのだ。バルアダンの弟というわけでもなく、アナトは彼につながりのある個人として、親愛の情を込めてセトの名を呼んだのだ。


「……セト、セトと言ったな、アナトよ。貴様は記憶が戻っているのか!」

「あぁ、そうだ。久しぶりというべきか。よくも兵学校での模擬戦では叩きのめしてくれた」

「ダレト、あの時はバルアダンと二人掛かりで俺に勝ったのだったな。ならば今度こそ決着といこう」


 男達が槍を静かに構えた。ハミルカルわずかに高度を取り、地上のアナトに向けて飛び掛かる。そしてアナトに衝突する寸前、神獣の側面を爪で引き裂いた。速度の全てを爪に込め、もつれあった巨大な二匹の獣はどう、と音を立てて地に倒れた。夕陽を受けた赤い砂塵が舞う中、黒い甲冑を着たアナトと、飛竜騎士団時代の白い甲冑を来たフェルネスが長剣を抜いて歩み寄った。


「さぁ、青二才、どこまで強くなったか見せてもらおう」

「フェルネス、父を超えたか確かめてやろう」


 風により舞い踊る砂塵にわずかな亀裂が生まれた時、アナトとフェルネスはその隙間に見えた互いの顔に向けて剣を同時に振り下ろした。アナトの一撃はフェルネスの肩当てを切り裂き、その衝撃で膝をつかせる。対するフェルネスの一撃はアナトの胸甲を裂き、そこから噴き出した血がフェルネスの顔に降り注いだ。


「俺の勝ちだ、大神官」

「あぁ、そうだ。俺の負けだ。そしてお主の母の勝利だ」

「何?」

「イスカ、貴女からいただいた印の祝福の力、その残りの全てを我が血に込めて貴女の息子にお返しします」


 フェルネスに降り注いだ血が淡く光りだし、その体に吸い込まれていく。


「かりそめの印の祝福とはいえ、偉大なるイスカの力だ。断言はできぬが、あるべきものに戻すイルモートの印の祝福、その力があれば部下を救えるかもしれんぞ。父母の想いと力こそ、お前を導くものだ」


 アナトはそう囁くとフェルネスに覆いかぶさるように倒れ、抱きかかえられたまま意識を失った。


「バルアダンといい、なぜこうも俺の敵はお人好しなのか。すまないな、アナト。もう時は来たのだ。この草原に染みこんでいった血が、イルモートの肉体に届いたらしい。神の復活だ。それもあるべきものに戻すという慈愛に満ちたものでもない、破壊を以って世界を更地にするという呪われた神が世界に顕現するのだ」


 フェルネスがそう言い放った時、大地が鳴動し、神獣騎士団第三連隊は地に伏した。そして彼らが顔を上げた時、死体さえ残らず消えた第一連隊に驚愕し、そして血だまりの中にいる、印の祝福によって治療されたであろうアナトの姿を認めたのであった。

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