第227話 ハドルメの矜持① フェルネスとエドナ

〈フェルネスの部下エドナ、奥の院にて〉


「お目覚めですか、タファト様」

「エドナ、もう私を放っておいて。あぁ、覚めなければよかった。覚めなければ家族と、あの人といられる夢を見続けていられたものを」


 大神殿の地下にある奥の院の石室で、寝台に横たわったままタファト様は呟いた。手には魔道の拘束錠が施され、奥の院どころか、この部屋から脱出することすら叶わないのだ。絶望というより虚無そのものとなった彼女は流しつくした涙で湿った枕に再び顔をうずめる。私はタファト様が自死を選ばぬよう慰めの言葉をかけた。或いはそれは彼女にとって呪いの言葉だっただろうか。


「もし、イグアル様が生きておられるとしたら?」

「……エドナ、馬鹿なことをいわないで。心臓を貫かれて生きている人間がいるとでも?」

「フェルネス様が友人を殺せるはずがないでしょう。昔から人を守ることしかできなかった御方です」

「私も彼を知っていました。しかし優しく強いはずのあの人は家族も、愛する人も奪ってしまった。エドナ、貴女はフェルネスの何を知っているというの」

「……私はあの方が幼少の頃よりかしずいておりました」


 私は彼女を安心させるように枕頭に近づき、椅子に座って視線を合わせた。


「私はトゥグラトの洗脳から解放された時、その印の祝福によってわずかではありますが失った記憶の風景が戻ったのです。連続性のない、絵画のような記憶ではありますが」


 タファト様の手を握り、主の想いを伝えるべく色彩の薄れた記憶を言葉にして紡いでいく。


「それはティムガの草原の記憶でした。王の子として獅子狩りをするのだと弟君と私を連れ出して、獅子を丘に追い込み止めを刺そうとしたのでございます。しかし背後から雌獅子が現れ、追い込まれたのは自分たちだと気づきました」


 侮った私たちが愚かなのだ。獅子にも生きる意志があり、一方的に狩られる存在ではない。草原の獣王が戦意も高くたけり立ち、その牙をむき出しにして迫ってきたとき、まだ幼かった自分は震える足を抑えきれず座り込んでしまった。

 あの時、王子が弟君と自分の名を叫んでいたはずだが、しかし魔人となった今では本当の名前を思い出すことはできない。そして仕える主の本当の名前でさえも。こういう時、オシールやシャマールといった強靭な精神と魂を持ち、自身の名を覚えている存在を恨めしく思う。


「俺の家族に、仲間に手を出すな!」

「王子、弟君を連れてお逃げ下さい。せめてあなただけは助かって――」

「馬鹿なことをいうな、お前たちを連れ出した責任は俺にある。信じて待っていてくれるな?」

「王子……」


 王子は雌獅子の群れにその身を投じた。丘の上から悠然と歩を進めていた獅子は、しかし途中から唸り声をあげながら王子に向かっていく。獅子が大地を蹴り上げる毎に雌獅子が地に倒れ伏していき、やがて唸り声は怒りの咆哮へと変わっていった。

 幼い主人が剣を振るい、眼前に迫る牙を受け止める。しかし獅子は口中が裂けることも厭わずに長剣を噛み砕いた。家族を殺された獅子の目は充血し、その口から流れ出た赤い血が草原を染めていく。


「見事だ。さぁ、決着をつけようではないか」


 だが獅子はその瞳を王子ではなく自分たちに向けたのだ。もはや王者の威厳もなく、それは家族を失い、拠り所を失った虚ろな瞳であった。或いは王子に我が身と同じ思いをさせようとしたのだろうか。赤く光った眼が線を描いて自分に近づいてくる。その先端が喉元に来た時、自分の一生が終わるのだろう。獅子と目が合う直前、王子の姿を求めた。命が尽きるならば、せめて彼の姿を心に焼き付けておきたかったのだ。しかし草原の向こうに主君の姿はなく、落胆したまま目を瞑る。

 衝撃が体を突き抜け、草原に押し倒された自分に、温かく、鉄の匂いがするものが降ってくるのを感じた。奇妙なものだ、我が血が自分に降り注ぐのだから……。


「目を覚ませ、そして前を見るんだ!」

「王子! あぁ、もしや、もしや、この血はあなた様の!」


 王子が自分をかばって獅子の牙に腕を差し出したのだ。そして王子は咬みつかれたまま獅子を草原に抑え込み、雌獅子がいた場所を指し示す。


「俺は貴様に詫びよう。所詮は四つ足よと蔑んでお主の誇りを汚したこと、誠にすまぬ。だから、仲間を殺さないでくれないか。俺もお主の仲間の命を奪ってはいないのだ」


 そこによろめきながらも立ち上がる仲間たちを認めた獅子は、信じられぬような瞳で少年の顔を見たのだ。しばしの時間が経ち、獅子と王子は距離を開けて再び対峙し合う。

 なんともおかしな話だ。私の仕える人は獣とも意思を通じ合えるらしい。嬉しそうな顔をした王子が片手で短剣を抜き、獅子も力を溜めるように後ろ足で大地に爪を立てる。瞬間、飛び込むように両者が踏み込み、鈍い音が草原に響き渡った。


「王子!」


 王子は獅子の口中に短剣を突き立てていた。白い牙が一本、宙を舞い地に落ちた時、人間と獣は草原に頭を突き合わせるかのように倒れこんだ。日が傾き、涼しくなった風が丘を吹き抜けていく。髪とたてがみが揺れ、人と獣は風が止むまでしばらくの間動こうとしなかった。


「ありがとう、草原の獣王よ」


 王子は空を見ながらそう呟いた。獅子はその言葉を受けるや毅然と立ち上がり、やがて仲間と共に丘を下りていった。


「ありがとう、こんな俺に付き合ってくれて」


 顔を覗き込んだ私たちに、気力を使い果たした王子はばつが悪そうにそういってくれた。弟君が王子に飛びつき、安心したのか大声で泣き始める。不器用な王子は宥めつつ、先ほどとは違い、頼りない目で私を見つめていた。

 こうして勇敢な少年による獅子狩りの絵は私の魂に刻まれた思い出となったのだった。


「……そんなフェルネス様が親友を殺すなどありえません。あの時でさえ、敵も味方も全て生き残ったのですから」

「エドナ、しかし……」


 私はタファト様の手首を取って拘束具を緩めた。彼女から強い光が迸り、抑えられていた祝福が再び行使できる状態になる。


「そんな! そんなことをすれば貴女は神殿に殺されてしまうわ」

「お優しいタファト様。私ごときの身を案じてくれるとは。そして、その優しさにすがる私をお許しください。あと三日、こちらにいていただけますか。その三日でフェルネスは貴女の望む結果を持ち帰るでしょう。それ以上は何も申せないのです。……ただ、貴女と私の中のフェルネスを信じでください」

「分かったわ、エドナ。ただし祝福の力で大穴に消えたイグアル、べリア、ティドアルの行方を追う分には問題ないでしょう?もし生きているのなら私が穴に投げ込んだ角灯ランプが彼らの行き先を示してくれるはず」


 希望を見出し、気力が戻り、頬を薄紅色に染めたタファト様が私の手を取って握りしめる。何と美しく、強い人だろう。目の前に小さな光がある限り、この人は前に進んでいけるのだ。あの人が思いを寄せるのも当然だ。

 そんな彼女に申し訳なく思うことがある。私は獅子狩りとは別の、もう一枚の風景画を取り戻していたのだ。あぁ、この絵は悔しくて彼女には伝えられない。トゥグラトに操られていた情けない部下ではあるが、これまでの忠勤の褒賞として大切に保管しておきたいのだ。



「いつも俺のり役で迷惑をかけるな」

「王子、そんなことはありません。偉大な王の子に仕える喜びと使命は他の何物にも代えがたいものなのです」

「……養子だ。王の子は弟だけだ。あの義父に比べられると俺が困る。しかし、女だてらに剣の稽古に付き合わされることはあるまい」

「いえ、クルケアンの神官や貴族共がいつ襲ってくるか分かりません。次は草原の獣王だって遅れはとりませんとも! 着飾るのは他の誰かに任せて、私は剣を振るいましょう。……王子、何をしていらっしゃるのですか?」


 王子はカルブ川の岸辺で無造作にシロツメグサを手折っている。覗き込んだ私に少し照れたような表情を浮かべ、花冠を私の前に差し出した。


「昔、エリシェさんに作り方を教えてもらったんだ。きれいだろう?」

「はぁ、とても綺麗ではありますが……」

「この花冠はな、大事な人を守る、そして離れていてもいつの日か会えるというまじないだそうだ」

「そうですか」

「まったく、にぶい傅り役だな。ほら、頭を下げろ」


 そして王子は私の頭に花冠をそっと置いたのだ。驚き、目を見張る私を見て満足げに彼は笑う。


「俺はハドルメを守る。でも一人ではだめだ。悔しいがあの王やオシールらに比べて俺は弱い。だから仲間が必要だ。俺は君を守るから、君も俺を守れ。そして戦場で離れ離れになっても必ず最後は生きてここに戻ってくるんだ、いいな?」


 思いがけない言葉を受けて立ちつくしていると、おい、聞いているのか、と肩を叩かれ、慌てて場違いな敬礼で応える。勢いで花冠が目にずれ落ちて、私は情けない声を出した。愉快そうな笑い声を背にして、表情を気付かれないように小走りで自室に戻る。そしてその日は故イスカ様から頂いた鏡を陽が落ちるまで見続けた。


 あの日の花冠は直ぐに枯れてしまった。しかしその時の光景は、四百年を経た今でも思い出すことができたのだ。これ以上の幸せを求めるのは贅沢というものだろう。

 あの人の心は目の前の美しい女性に向けられているのかも知れない。しかし、戦場における仲間としてのつながりは私のものなのだ。浅ましくもあるが、そのくらいはいいだろう。


「命に代えても、フェルネス様のために」


 カルブの河で会わないつもりかと、あの人は怒るだろう。でもガルディメル、サウル、メルキゼデク、それに操られたまま死んだテトスも同じ覚悟のはずだ。あの人の理想の為なら命を惜しむつもりはない。



 心の中の暗い画廊を私は静かに歩いていく。

 この画廊は、あの赤光の中で王妃が残してくれたものだ。

 魂が変質しても、大事な記憶が失われないようにと、大事な思い出を魂に刻み込むための力をくれたおかげだ。

 

 私は一際明るく輝く絵の前で、独り膝を抱えて座り込む。

 そして私は心からの笑顔を浮かべるのだ。

 それはあの時、あの人に向けたかった表情だった。


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