第202話 我が名を捨てて③ レビの決意

〈ニーナ、ティムガの草原にて〉


「バル様、少しお話があるのですが」


 建国の日の夜、ティムガの草原でクルケアン、ハドルメの要人を招いてささやかな酒宴が行われていた。サリーヌの想いを成就させるため、相談したいことがあると偽ってバル様を連れ出す。宴席からの去り際にアナトに目配せをして、そっちは頼んだわよ、と意を伝えた。珍しく弱気な兄の目を見て人選を誤ったかと思うが、仕方ない。彼にダレトとしての記憶があったとしても逡巡したであろうから。

 月夜を見上げると、たくさんの光点が零れ落ちそうなほどに空に浮かんでいた。時代を超えても星は変わらず私達の頭上にある。タファト先生の魔道具であるランプの灯を消して、月と星の光に照らされた草原をバル様と歩く。


「どうしたんだ、ニーナ。アナトと一緒でなくていいのかい?」


 背後の草原の王はどうやらその威厳を宴席に置いてきたらしい。少し世間知らずの、優しい王子様のようなバル様がそこにいた。私が、……あたいが最初に会った時のバル様だ。


「いいの、バル様。ちょっと昔話をしたかったんだ」


 あたいの砕けた言い方に、少し驚いたように彼の歩みが止まった。


「ねぇ、この空、あの時の大廊下で見た星空と同じだね」

「……何をいっているんだい、ニーナ。あぁ、黒い大地での夜空の事かな。あの時の空は美しかったと思うが‥‥」


 サリーヌ、ここに嘘が下手な王子様がいるよ。優しい嘘しかつけない素敵な人、きっと困ったように顔をしかめているに違いない。


「あそこで輝いているのがレビヤタン、ダゴン、ラシャプ、アスタルト……。皆、まだ星の観測を続けているのかな」

「……」


 あたいは空を見ながら、一番楽しかった時を思い出す。バル様がいて、エルたちがいて、そしてダレトがいて皆で星を見ていたあの百層の大廊下を。星がもっとよく見えるかなと思って目の前の小高い丘に登る。背後で躊躇うような足音が聞こえてくるが、卑怯なあたいは決して後ろを見ない。もう二回も友人たちの前で泣いているのだ。次に彼らの前で泣くのは嬉し涙と勝手に決めていた。


「エラムやトゥイはこっちにきたら大喜びだね。古代の空の観測に、失われた物語。届くものなら手紙を書きたいな」

「……レビ、いいんだ。君はニーナでいいんだ。何も辛い道を歩まなくてもいい。きっとダレトもそう考えている」


 バル様はうな垂れて言葉を慎重に選びながら私の背中に語り掛けているのだろう。あたいはダレト、バル様と生死を共にして戦ってきたんだ。そのくらいは振り返らずともわかる。


「あたいは死ぬはずだった、でもお爺ちゃんのおかげで魔人にもならず、記憶も失わず生きていられた。ねぇ、バル様。これって幸せな事なんだよね」

「そうだ、そしてそれは私の幸せでもある。死んだと思っていた友が二人、目の前に現れてくれたのだから」

「ねぇ、バル様。あたいはニーナとして生きていく。それはサリーヌとも話したんだ。あたいはこれで欲しいものが全て揃ってしまった。新しい家族ができたんだ、ダレトの妹として」

「いいんだ、それでいいんだ。何も自分を責めることはない。後ろめたい事なんて何もないんだ!いいか、決して謝らないでおくれ。私もサリーヌも君とアナトを祝福しているんだ」


 数百の竜を従え、千に近い兵士の忠誠を捧げられた伝説の王は、近所に住むお兄さんのように温かい言葉で慰めてくれた。


「ありがとう、バル様。だから、ここであたいの名は捨てようと思うんだ。……バルアダン、ダレトの親友として見届けて欲しい」

「何をするつもりだ?」

「何も、ただ叫ぶだけ。ちゃんとお別れをできなかった、死んだお爺ちゃんに届くように。あたいがニーナとしてどう生きるか、お爺ちゃんとバル様に聞いてほしいんだ」


 甲冑の音が聞こえ、彼が見届けるために跪いたのが分かった。夜の冷気が海水の様に体を包む。吐く息は白く、月明りは無人の草原を静かに照らしている。ここはお伽噺で聞く月の世界のよう。人は死ねばその魂は月にある宮殿に行くという。そして次の生まれ変わりを静かに待つのだ。ならば、お爺ちゃんはこの月光の向こうにいるのだろうか。この光に向かって叫べば、あの時返せなかった言葉が伝わるのだろうか。

 何にせよ、あたいができることは大切な人に伝わるよう力いっぱい叫ぶことだ。 


「あたいの名はレビ! お爺ちゃん、あたいの声が聞こえていますか? 拾ってくれてありがとう、育ててくれてありがとう、愛してくれてありがとう。ずっとずっとそれがいいたかった! そしてごめんね、お爺ちゃん。名を捨てる不孝を許してください」


 あたいの体が光に包まれる。それは月の光だろうか、それとも月の祝福者としてのお爺ちゃんの魂だろうか。


「私の名前はニーナ、魂に刻んだ名はレビ! 賢者ヤムよ、そして友人バルアダンよ、私は両名に誓う。必ずこのニーナは幸せになると!」


 お爺ちゃん、レビの名は貴方の思い出と共に胸にしまいます。貴方が最後に残した、幸せに、という願いを果たすために。

 

 バル様はみっともない顔をしている私をそっと抱きしめ、顔を見ないようにして優しく手を引いて丘を降りていく。

 ほら、サリーヌ。やっぱりバル様は王子様だ。早くこの優しさを独占しないといい女に取られてしまうぞ。

 手を引かれながら昔を思う。よくこんな夜空の下、お爺ちゃんに手を引かれて道を歩いたものだ。大抵は夕方に男の子と喧嘩をして大立ち回りをした後、引き分けた自分をお爺ちゃんが迎えに来てくれた。強がる自分にお爺ちゃんは肩を揺らしながらよくやったと笑ってくれたものだ。


 私は月光を背に受けて、来た時とは逆にバル様の背中を見ながら歩いていく。その頼りがいのある背中を、つい、もう一人の背中と重ねてしまう。

 あの時は魔人や魔獣に恐れずに戦う二人の背中を見ているだけだった。しかし今からは違う。後ろではなく、横に立って戦うのだ。神獣騎士団のニーナは、王と兄を守るために槍を構えるのだ。

 袖で顔を強く拭い、私は足を速めてバル様の横に立った。驚いた彼の顔に笑顔で返し、そして一緒に来た道を戻っていく。そしてサリーヌへの想いについてバル様に聞くのだ。狼狽える彼を質問攻めにし、満足した私はいつの間にか鼻歌を歌っていた。

 

 月光が並んで歩く二人の影を目の前に創り出す。一瞬、そこにお爺ちゃんの影も映ったように見えた。そしてその影は私を優しく笑うかのように揺れて消えてしまった。私は苦笑して前を向いて呟く。


 さようなら、レビ。

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