第203話 兄と妹⑥ バルアダンの求婚

〈サリーヌ、兄とバルアダンを想う〉


「サリーヌ、昼から遠乗りに行かないか?」


 バルアダンは午前の執務を終え、幹部たちと食事をしながらサリーヌにそう提案した。普段はアナトと共に遠乗りに出かけるのに、なぜ私を誘うのだろう、嬉しく思いつつもサリーヌは首を傾げた。何か作戦上の調査だろうか、確認を求めてアナトとニーナに視線を移すが、彼らは自分と目を合わせようとしない。侍従であるオシールは遠乗りと聞いて同行しようと準備を始めるが、アナトによって別用があるため待機せよと押し留められたのである。残念そうなオシールと、ぎこちなく彼に何やら話しかけているアナトを見て、サリーヌはある可能性に思い至り顔を朱に染めた。


 あの時の酒宴においてアスタルトの国の幹部たちの前には、下心を持ってバルアダンやサリーヌに近づこうとするクルケアンの貴族や、酒戦を挑んでくるハドルメの戦士たちが列をなしていた。サリーヌが笑顔と大杯を以ってアスタルトの力を示していた時、アナトは躊躇うように彼女に声をかけた。アナトは足元で青い顔をして倒れている両国の要人を同情をするように見下ろした後、カルブ河の岸辺にサリーヌを誘う。


 川面の上を涼やかな風が吹いている。風が運んでくる草の匂いは両名の酔気をたちまちに彼方へ運び去ってしまった。アナトはサリーヌを連れ出したものの、何をいい出すまでもなく座ったと思えば急に立ち上がるなど落ち着きがない。サリーヌは苦笑してアナトに横に座るように促した。


「ニーナから何かいわれたのでしょう? 彼女がバルを連れ出すときに貴方に視線を送っていたから」

「あれは睨まれていたのだ。いや、そうではなくて……」


 本当に自分に関することは誤魔化しが下手な人だ、サリーヌはむしろ心地よく彼の狼狽を受け止める。幼い頃、自分がニーナであった時はこの不器用な兄をからかいながら楽しい時間を過ごしていたのだろう。

 ニーナとしての記憶は断片でしか存在しない。再現ができぬ記憶は絵画と同じであり、幸せであった過去を想像することしかできない。それでも彼女は心の内の数枚の絵を大事に魂に記銘するのである。花の名前を教えてくれた兄、病室で心配そうに自分を覗き込んでいる兄、優しい言葉をかけてくれた神官……。これだけは名を捨てても自分が生涯手放してはならないものだった。


「私とバルの事で何かいわれているのではなくて?」

「そうだ。‥‥ええい、回りくどいことはできん。バルアダンは君を大事に思っている。恐らく君もそうだと思うがね。あの真面目な男のことだ、恋や愛よりも世界や部下の事を思いやって一歩を踏み出せないでいるはずだ。おせっかいだと思うが手助けをしようと思ってな。それでまず君にバルアダンへの気持ちを聞きに来たのだ」

「驚きました。それならば、まず貴方はバルに聞くと思っていました」

「俺もそう思ったのだがな、ニーナの奴が君に相談をしなさい、と命じてな。君の事でバルアダンをからかうことはあっても、女性に恋の相談の押し売りをするとは思わなかった」


 アナトは教師から難しい宿題を出された少年の様に天を仰いだ。


「そう、ニーナが……」


 サリーヌはそれが、兄との時間を持ってほしいとという心遣いだと察するが、彼女の為にも一線を引くつもりであった。彼を兄と呼んではならない。もし一度でも呼んでしまえば自分の心は過去に捉われてしまう。


「では恋の悩みを聞いてもらえますか、大神官様」

「無論だ、さぁ、どこからでもかかってきたまえ」


 この人は恋を戦いと勘違いしているのだろうか。やはりバルアダンといい友人である。ダレトの時もアナトの時も変わらない友情を保ち続けている二人にサリーヌは軽く嫉妬する。もし自分がもう一度、魔力の暴走で記憶を失うことがあれば、変わらずバルアダンを愛しているのだろうか。それともまた魂に刻む絵画が増えるだけなのだろうか、と。


「トゥグラト様がエリシェ様に愛の告白をしたように、やはり私も男性からそういって欲しい。アナト様なら愛する女性にそういえますでしょうか」

「勿論だ。しかし何故俺に聞くのだ?」

「貴方とバルが似た者同士だと思ったためです、では次です。アナト様は女性の、そう、近くにいる女性の眼差しに気づいておられますか」

「特に身の危険を感じてはいないが……」

「もう、戦場ではありません! 日常で貴方を慕う女性の想いに気づいておられるのかと聞いているのです」

「そ、そうか。いや生来目つきが悪いせいか、女性に思いを寄せられたことなど記憶にないのだ」


 サリーヌは最初からアナトを恋の相談役として会話をしているのではなかった。ニーナの為にもこの朴念仁を正しく指導しなければならないのだ。彼女はダレトを、いやアナトを家族として慕っている。最初は家族を失い、彼女に優しく接してくれたアナトを兄と慕っていたと思うが、結局のところそれは人生を共に歩く人を求めるものである。サリーヌは恋愛に関してはアナトよりもバルアダンの方がまだしも向き合っていると感じていた。頼りない兄さんだ、思わずその言葉が口から出そうになり、慌てて、えへん、と咳払いをする。


「ニーナの想いも気づいていないのですか」

「何かニーナが悩みを抱えていることは知っている。だが話そうとしてくれないのだ。勿論、妹がそれでいいのなら構わないのだが、兄としてそれが受け止めないとでも思っているのだろうか」

「‥‥悩みの見当はついているのではなくて?」

「そうだ。恐らく妹は魔人と化する前の記憶を持っている。それでいて俺のために妹として支えてくれているのだ。それが心の重荷になっているのだろう。サリーヌ、君からも伝えてくれないか、兄は感謝しているのだと」


 アナトの言葉に鋭い平手打ちの音が続いた。アナトは呆然としてサリーヌを見つめ、いかな友人の大切な人であろうとも、その無礼を咎めようとする。しかし彼女の目に涙が浮かんでいるのを知り、吸い込まれるようにその顔を見続けていた。胸に痛みが走り、アナトの脳裏に何処かの神殿であろう、寝台に寝ている少女の姿が蘇った。そこには小さな手をした自分がその少女に怒ったように文句をいっている。


「俺は感謝なんていらない、俺がお前の看病をするのに他人行儀な礼なんていらないんだ。元気になってせいぜい綺麗な花冠を作ってくれればそれでいい。俺たちは家族なんだからな。……まぁ、ありがとうぐらいはいってもいいぞ」


 記憶の中の少年は自分の語気を後悔したように最後は優しく少女の髪を撫でるのであった。これは失った記憶なのだろうか。思い出そうにもその前後の記憶は再現されず、破られた物語の紙片のようにもどかしい。


「感謝なんていらない。だから、早く良くなってまた一緒に暮らそう。いいな?」


 しかし、アナトは知らずその物語の続きを口にした。サリーヌはその言葉を受けて草原に手をつき、静かに嗚咽の声を上げる。アナトは我に返りその背を優しく擦る。


「そうだな、俺とニーナの間に他人行儀な言葉なんていらない。家族なんだからな。君を頼って遠回しに心配するより、直接話してみるとしよう。馬鹿な俺を叱ってくれてありがとう。サリーヌ」

「申し訳ありません、アナト殿。ついニーナの心境を思いやってしまったのです」

「妹の良き友人でいてありがとう、サリーヌ」


 サリーヌはことさらに他人行儀な言葉を使っていた。早く良くなって一緒に暮らそう、か。私にそれを望む権利はない。アナトを兄と呼んではいけないのだ。そしてサリーヌは気付く。私もダレトの代替としての家族を求めてバルアダンを慕っているのかと。これは本当に愛と呼べるものなのだろうか……。


「私はバルを愛しているのでしょうか?」

「何を馬鹿な、あれほど素晴らしい男に惚れぬ女性などおるまい。民を慈しみ、部下を守り、強者に立ち向かっていく、クルケアン一の男だぞ」

「私はバルの何処を愛しているのでしょう」


 サリーヌは両頬に強い衝撃を感じた。アナトがその両手を以って彼女の頬を叩いたのだ。しかし音が消えた後、その手は優しく包むようにサリーヌの顔に添えられていた。


「バルアダンがいなくなれば寂しいか」

「‥‥‥はい」

「バルアダンが他の女性に心を奪われれば辛いか」

「‥‥はい」

「死地に飛び込む、あの危なっかしい男を放置できるか」

「‥いいえ」

「世界の果てまであの男についていけるか」

「はい」

「それを惚れているというのだ。俺も愛に関しては疎いが、君も俺と同じではないか。お互い情けないな」


 アナトは手を顔に添えたままで、サリーヌの気持ちを力強く肯定した。サリーヌはアナトの手を握りしめ、泣き笑いの顔を浮かべる。


「本当に情けないですね、私たちは」


 ティムガの草原に二人の笑い声が響く。アナトはサリーヌの涙を指で拭って、平手打ちのお返しだ、許せよ、ともう一度笑った。


 サリーヌはアナトの手を取り、立ち上がりながら思う。この人が家族だとしても、そうでないとしてもどうでもいいではないか。こうやって自分を励まし、手を取ってくれるのだ。そして情けない自分たちをバルやニーナが支えてくれる。恐らく兄妹であってもいなくても同じような結果になったであろうから。


 翌日、ニーナは恋愛の相談役の務めを果たしたと、胸を張って自慢する兄に事の次第を詳しく聞いたのである。その後に神獣騎士団の団員は宿舎の外にまで聞こえる大きな叱り声を耳にするのだが、その内容が恋愛相談で顔を叩くとは、という彼らの常識の枠外の言葉だったため、聞こえなかった事にして自分たちの平穏を優先し、いつもの業務に戻ったのであった。


 ティムガの草原に二頭の駿馬が軽やかに走っていく。その鞍上には若く美しい男女が笑顔で手綱を握っていた。クルケアンとハドルメを見渡せる小高い丘で彼らは馬を止め、しばし失われたはずの美しい自然を眺めている。やがて男が馬を寄せ、女の手を取って何かを囁く。真摯で、それでいて熱情を籠めたその言葉に女は涙を流して頷いた。太陽が祝福するかのように柔らかい陽光を彼らに注ぎ、長い影を作る。やがて二つの影が近づき、寄り添うように重なっていった。

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