第193話 天井裏の音

〈クルケアン大神殿にて〉


「では、その異形の軍隊が突如として現れ、クルケアン軍に圧力をかけたと?」


 謁見室では非常の事態にも関わらず、神殿長のトゥグラトが柔和な笑みを浮かべながら紅茶を飲んでいる。将軍のハガルはあの奇妙な敗戦の責任を問われることがないとわかって安堵のため息をつく。ハガルはトゥグラトの顔を見上げて、その笑顔が偽りのものではないと確信し、慈悲に溢れた方よ、と彼への忠誠を改めて固く誓ったのである。

 トゥグラトは十七歳にして神殿の最高位を極めたが、それは縁故によるものではなく百年前の神代の残滓というべき巨大な祝福を所持しているということ、そしてその温和な性格と民の為を思う政策が人々の圧倒的な支持を得ていることに由来している。ハガルら軍の重鎮たちも彼をクルケアンの元首として尊敬し、喜んでその下で働いているのだ。自分達こそクルケアンを支配するべきと考える貴族たちの嫉妬を除けば、教皇トゥグラトこそが王といってもよい衆望と権力を有していた。


「しかし、興味深い軍隊だ。北方から来たというのに南方のティムガの草原に現れるとはね。せめて海から来たとでもいえばまだ信じたかもしれませんが」


 下手な筋書ですね、とトゥグラトはからからと笑う。しかし彼の横に座る貴族たちは国辱ととらえ、次々に強硬策を唱え始めていた。


「神殿長、これはクルケアンに対する侮辱です。そもそも対等の国としての対応をするなど言語道断、ここに使節を入れたことすら許されない。軍はこの責任をどうとるのか!」


 一転して貴族にその責任を問われることになり、ハガルは深いため息をついた。まったく貴族共は度し難い。百年前の神と魔人との戦いの功労者の子孫とはいえ、奥に閉じこもって主戦論を説くだけとはなんと情けない事だろう。そしてハガルに責任を問いつつも、本心は神殿長の権威を損ね、自分たちがその上位に立とうとする魂胆なのは明白であった。ハガルが怒気をその肩に乗せて席を立とうとした時、大司教であるアサグが一同を窘めた。


「始まりの八家にして評議員の方々、軍やハガル殿に責任は一切ないと断言しよう。なぜなら彼らは軍事力としては我らより上なのだ。あの数十体の魔獣を乗騎とする騎士団に、千に近い兵だ。今建設中の北壁に拠れば防戦はできるだろうが、ハドルメが奴らに味方すれば勝てぬ。故に要求を呑むしかないのだ。不満があるなら卿らが剣を取って先陣を切るがよろしかろう」


 アサグの正論に、貴族たちは不満を漏らしながらもおとなしくなった。アサグは大司教というより将軍にこそふさわしい体躯をもっている。そして短気な彼ならばその腕力をもって実力で貴族たちを黙らすだろう。貴族の一人が、偉大な弟のおこぼれで成り上がった男が、と心無い事を小声で呟き、それを聞いたハガルは再度ため息をついた。トゥグラトの兄であるアサグも神官として有能な男なのである。その才幹、実績を振り返れば貴族共になじられるいわれはないのだ。


「はいはい、みんな落ち着いて。なんにしてもその使節と会見をしてからだ。とりあえず休憩ね。僕は用があるのでしばらく外す。アサグ大司教、タダイ神官は会見用に謁見室を整えてください。評議員の皆さんは貴賓室へどうぞ、後で迎えの神官を寄越します」


 そういうとトゥグラトは我先に部屋を抜け出した。回廊の天井にわずかに隙間があるのを見て忍び笑いをもらす。彼は視線を転じて中庭を見ながら言葉を紡ぎだす。


「……クルケアンには喜劇作家が少ないのです。あなたなら適役だと思うのですが、どうです、雇われてみませんか?」


 回廊の内側の中庭では花が美しく咲き乱れ、鳥がその美を讃えるように鳴いている。


「僕は印の祝福を持っております。その天井をあるべき姿に、つまりもとに直すこともできるのですよ」


 天井で小さく音が鳴ったのを聞いてトゥグラトは少年のように笑いだした。


「冗談、冗談ですよ。よければもう少しそのままで聞いてください」


 少し愁いを帯びた声色で青年は話し始めた。


「白い魔獣だなんてありえない。伝承では白い魔獣は百年前の大戦で滅んだはずです。だからあなたたちは過去から来たのではありませんか」


 今度は何も音がしない天井に向けて、トゥグラトは含み笑いを浮かべて話し続ける。


「ふふっ、詮索はやめておきましょうか。時の迷い人よ、もとに時代に戻りたいのなら取引をしましょう。神代の印の祝福を受け継いだ私の力があればそれもかなうはずです」


 頭上でまた小さく音が鳴った。トゥグラトはその音を聞いて胸が高鳴っていくのを感じる。この天井裏から響く小さな音は、呪われた世界を変える始まりの大きな音に聞こえたからであった。続けて回廊の向こうから神官兵の慌てた声をトゥグラトは耳にした。


「使者どの! こちらには来てはなりませぬ。今しばらくで会見の準備が整いますのでそれまで部屋でお待ちください」

「すみません、どうも兄が厠にいって帰ってこないもので……」

「おや、お嬢さん、お兄さんが迷子になったのかな?」

「神殿長、会見前ですぞ、敵の使者に声を掛けるのはおやめください!」


 敵の使者、か。神官兵の非礼だが素直な発言こそ、僕達が保たねばならぬ姿勢だろう。味方にすれば取り込まれる。それも自分たちが喜んで望む形でだ、そうトゥグラトは感じ始めていた。……世界とクルケアンを愛するがゆえに僕は彼らを利用しなければならない。トゥグラトはそう考え、目の前の少女に一定の距離を置いて話そうと試みるが、その少女は自分の顔を見て固まっているのである。


「どうしたのです? さて、貴女の名前を教えていただけませんか」

「神殿長でいらっしゃいましたか。失礼を致しました。あなたが知り合いに似ていたもので……。私はアスタルトの民、ニーナと申します」

「古風だが完璧な作法で礼をするのだね。あぁ、君の兄さんだがよく迷子になるのかい」

「はい、恥ずかしながらいつも一人で何処かへ行って、いつも道を間違えて遠回りをする、妹にとって放っておけない兄なのです。ご無礼をおかけしたかと思い、散策がてら探しておりました。ご無礼をお許しください」


 天井が抗議をするように軋んだ。ニーナはため息をついて、できるだけ上品に、だが大声で兄への悪態をついていく。トゥグラトは驚いたように目を見張り、やがてこらえきれないとばかりに吹き出した。やれやれ、彼らと距離を空けようと思ったらこれだ、敵中で一方的だが口喧嘩をするなどアスタルトの民は何と愉快な者達だ。いや、この兄妹だけがそうなのかもしれないな。トゥグラトは兵士に客人を案内するといって、ニーナを連れてしばしの散歩を楽しむ。


「うん、聡い妹さんだ。実は僕も兄がいてね。家ではよく苦情をいっているものさ。でも君のように気持ちよく悪態をつけたら面白いんだろうなぁ。今度やってみるとするよ」

「それは是非お勧めしますわ」

「私も探していた人がいるのだがね、ここでは会ってくれないらしい。しかし君はその兄さんにはすぐに会える。……偉大なるイルモート神のご加護を信じなさい」

「探していた人、ですか?」

「あぁ、喜劇作家なのだが、これから知人になるつもりです。しかしどうにも下手でね。しばらくは一緒に脚本を手伝うことになりそうです。さぁ、アスタルトの使節の部屋はあそこの角を回ってすぐですよ」

「ありがとうございました、神殿長。失礼ですがご尊名を伺ってもよろしいでしょうか?」

「トゥグラトといいます。以後良しなに」

「トゥグラト! あ、いえ失礼しました。それではトゥグラト様、会見の場にてお会いしましょう」


 なんとなく鼻歌を歌いながら青年は謁見室へと足を戻した。兄であるアサグが呆れたように小声で窘める。


「おい、トゥグラト。会見の準備を押し付けて散歩だと? ちゃんと話す内容は考えているんだろうな」

「いやだなぁ、兄さん。私が考えていないことがあったかい」

「考えてはいるが、それをすべて白紙にもどして皆を唖然とさせるのがおまえの悪戯のやりかただからな。しかし今回は国の運命がかかっている。俺は馬鹿だから分からんが、クルケアンを頼んだぞ。もしあいつらが邪魔なら排除をしてやる」

「……兄さんは私がそんなことを頼む弟だと思っているのですか」

「すまん、発言は取り消そう。しかしお前の機嫌がいいのはどうしたことだ」

「作家を見つけたんですよ。この世界の流れを変えてくれる筋書を書いてくれる人をね」

「さっぱりわからん。それはイルモートの封印に関するものなのか?」

「そうです。兄さん」


 アサグとトゥグラトの兄弟は笑顔を一瞬浮かべた後、兵達の手前もあり冬風に向かう表情で会見の準備の指示を出していく。そしてその様子を神官兵のタダイは冷たい目で見守っていたのであった。


 同じころ、アスタルトの民にあてがわれた部屋の前で、妹は喜劇作家で迷子癖のある兄と合流していた。神殿兵たちは妹にひたすら頭を下げる兄を奇妙に思いつつも、アスタルトの民が自分たちと同じで家族喧嘩もするのだと安心していたのであった。



「これよりクルケアン国、アスタルトの民との会見を始める」


 重々しくトゥグラトが宣言し、一同を見渡す。全員が相当の手練れであった。実力はともかく魔力の貯蔵としては優秀な貴族たち、そして信頼する兄とその部下のタダイ、迷い人である目の前の精悍な男とその妹。恐らく男は月の祝福者だろう、それに貴族よりも強力な魔力を持っている。

 あの時、男が天井裏に仕掛けた小細工や抜け道、果ては隠し部屋などを、自分は全力を以って元に戻したのだ。しかし男は二重の仕掛けを作り、表面上は元に戻ったとしても、さらにその裏で目的を達せられるように処置をしていたのだ。神代の力を受け継ぐ自分と同程度の力を持ち、なおかつ油断ならぬ頭脳を持つ男が目の前にいる。この男が仕える王は飛竜すらも手懐けたと聞く。自分たち兄弟の宿願が叶う日が来たのだ。


 さぁ、神殺しを始めよう。青年は厳かな表情とは別に軽やかに心中でそう宣言した。

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