第180話 魂を作るもの

〈クルケアン百層大廊下、戦いの後〉


 戦いが終わっても大廊下は異様な活気に満ちていた。タファトの祝福によって照らされた床の上には多くの負傷兵が呻き声を上げており、彼らの治療が慌ただしく行われていたのだ。アナトは現場を見渡しながら遺骸の数が足りないことに気づく。フェルネスの連隊は七十五騎。神獣も含めて足りないところをみると、十人ほどの騎士が神獣に咥えられて連れ去られたことになる。逃亡したフェルネスとその直属の部下の事もあり、クルケアンが安眠できる日は当分こないだろう。


「魔人の心臓がまだ動いているぞ!」


 叫ぶ声が上がるや否や、アナトは大廊下の南端に向かって走った。そこには倒れたアバカスと彼の手を握って必死に叫んでいるエラムとトゥイの姿があった。


「彼は仲間だ、まだ生きている!」


 魔人に止めを刺そうとする兵に、エラムが両手を広げて立ちはだかった。兵も目の前に立つ少年が星祭りで活躍したアスタルトの家の者ということも知っており、またハドルメの和平協定で重要な役をなしたということも聞いていた。クルケアンの宝を害してはならぬ、兵たちは押しとどまり、上位者の指示を待つためにエラムに背を向けて見て見ぬふりをしたのだ。ラバンやアナトが駆けつけてきたのはエラムにとっても兵にとっても僥倖であった。

 エラムはダレトと叫ぼうとしてその言葉を口中に押しとどめ、アナトに助けを乞うた。


「……アナトさん、アバカスさんを施薬院に連れていきます。彼の命をここで奪わないでください」

「しかし、その男は魔人であり、設計者オグドアドだ。クルケアンの陰謀の中心にいた男だぞ、助ける価値が何処に在る」


 アナトはそう言い切る前に口をつぐんだ。か弱いはずのトゥイが怒りの目で睨んできたためである。


「分かった。しかし、助けるといっても、施薬院に連れていくのなら兵で十分だろう。……助かるかどうかは怪しいが」

「彼を助けるためにシャヘル様の力が必要なのです。教皇ではなく、薬師シャヘルの力が。彼を連れてこれるのは僕には無理だ。呼ばれもしない限り教皇に面会なんてできやしない。でもあなたなら!」


 アナトは天を仰いで驚きを押し隠した。シャヘルの裏の顔なぞ自分は知りようもない。シャヘルや設計者のアバカス然り、そしてギルド総長のリベカ然り、普通の少年であるはずのエラムが、このクルケアンの有力者に如何に愛されているかを思い知ったのである。


「恐れ入った。君は何をどこまで知っているのか。分かった、でも教えてくれ。君はどうやって彼を助けるつもりなんだい」

「薬師と月と印の祝福、そして神の二つの杯イル=クシールにより、魔人である彼を普通の人間に戻してみせます!」



 三十四層の施薬院内にエラムがシャヘルの薬草園と名付けた施設があった。施薬院付きの薬師シャドラパの手配により、アバカスが運ばれた時は既に薬草園の倉庫に神の二つの杯であるザハの実とリドの葉が運び込まれていた。

 施設にはエラム、トゥイ、シャドラパのほかに、月の祝福者としてサリーヌとアナトが、そして立ち合いとしてレビが詰めている。すでに日が暮れ、アナトによるシャヘルの到着を待つばかりとなった。


「シャヘルさん、来るかなぁ」

「きっと来るよ、トゥイ。あの人の中にシャヘルさんの知識は残っているんだ。あの人の知識ならきっとアバカスさんを助けることができる」


 エラムはそう断言するが、内心では焦っていた。セトが調査からまだ帰ってこないのだ。奥の院とはいえ、このクルケアンにいるのだから今日には戻ると考えていたのだ。月と印と薬師と薬草、その全てが必要であるのに、半分しか揃っていないこの状況ではアバカスを助けることができない。

 トゥイがエラムの内心を察し、震える手をそっと握りしめた。扉の外から二つの足音が近づいてくるのが聞こえ、衝動を抑えることもできずエラムは椅子から立ち上がる。そこにいたのはアナトと、鳥の仮面をかぶった奇妙な薬師の姿であった。ニーナが驚いたように彼を見つめ、やがて納得したかのように手を固く握った。


「アナトさん、そちらの方は一体? シャヘル様は……」

「落ち着け、エラム。この方はシャヘル様が手配して下さった方だ。……何でも西方都市国家から来た医者とのことだ。安心するがよい」

「大丈夫よ、この方にはイズレエル城で助けてもらったの」


 その言葉に驚いたのはアナトの方だった。


「えぇ、兄さんの薬を調合してくれたのはこの薬師様よ」

「何と、しかし、この方は…いや、まずは優先されるべきはアバカス殿だ」

「……まだセトが来ていない。印の祝福がなければ魔人化は治せない」


 エラムは頭を抱えた。あと一手で恩人を助けることができる。しかし、おそらくセトやガド達は自分やトゥイと同じく大きな陰謀に巻き込まれている最中であろう。

 アバカスの様態を見るに、もう限界に近い。印の祝福が足りずとも施術を行うしかない。


「セトの力を込めた祝福であれば、バルアダン隊長からお守り代わりに借り受けてきたわ。ほら、このふくろうのお守り。セトとエルの力が込められているらしいの」

「俺も印の祝福に関係するイルモートの赤石を持っているぞ?」

「‥‥‥」


 鳥仮面の薬師が自分の権能杖を差し出した。まるでそこに求める祝福が宿っているかのように。

 エラムの目に輝きが戻った。


「サリーヌ、大廊下と同じように僕と彼の血をつないで欲しい。トゥイの血もだ。アナトさんはアバカスさんの肉体が変化しだしたら赤石やお守り、この権能杖に込められた印の祝福で、魂の本質を固定し安定させてほしい。今回は魔人から人にするのではなく、彼の精神の中にいる多くの魂を固定し、その意識を取り戻すことになります。皆が自我を持った状態で魔人にしないよう安定させてください」


 そして最後にエラムは鳥仮面の薬師の手を握りしめ、その手を自分の額に当てた。


「薬師様、神の二つの杯を以って魂と精神、そして肉体を維持して下さい。あなたがいれば僕は安心です」


 薬師は戸惑ったように頷いた。

 エラムはサリーヌに向けて頷き、その腕に短刀を刺して血をアバカスに捧げた。トゥイも自分とエラムの指に針を刺してしっかりと握りしめる。サリーヌは彼らの血の流れを誘導し、エラム、トゥイはアバカスの精神の内へ意識を移した。



「ここがアバカスさんの精神……」

「そうだ、あの無数の光が魂なんだ。さぁ、いこうトゥイ。僕らの大事な人を見つけに」


 エラムとトゥイは精神の海でアバカスと思われる大きな光に近づこうとする。しかしその度に光が離れていくのだ。必死になって走るが、近づこうとしてもたどり着けない。アバカスとフェリシアの名を叫び泣く二人を憐れんだのか、他の小さな光が彼らに近づいた。


「あら、また来たのね。でももうお別れが来たみたい。坊や、ありがとうね」

「あれ、お兄ちゃん、今度はお姉ちゃんを連れて来てるんだね。……遊びたいけれどもう行かなくちゃ」

「どうしてです! 僕はあなた達を救いに来たんですよ」


 女性と幼児は顔を見合わせてにこりと笑うと、エラムとトゥイを力いっぱい抱きしめた。


「ありがとう。でもいいの。だって外から流れてくる祝福で自分の名前を思い出せたから。私の名前はタラヤっていうの。いい名前でしょう?」

「あのね、わたしの名前はティムナ!」

「二人ともいい名前ですね。僕はエラム」

「私はトゥイ」

「ふふっ、私達は知っているわ。だってずっと見てきたのよ。ありがとう。私は自分を取り戻して死ぬことができる。あなた達を守って死ぬことができたのよ」

「エラム、わたし頑張ったんだよ!」


 タラヤとティムナの魂はそう言ってエラム達の手を握りしめ、ゆっくりと消えていった。

 狼狽える二人の前に次の光が来る。

 それは老人と青年の形をとって二人を抱きしめ、強くその背中を叩いた。


「エラム、ご苦労じゃったの。儂はルガル、天文台の館長だ。よくアバカスを人の道に戻してくれた」

「ルガル殿、私にも挨拶をさせてくださいよ」

「すまん、すまん。つい死出の旅に際して彼らに会えたのがうれしくてね。こいつはラピド、宴会をさせたらハドルメ一の男だ」

「有能な副館長と紹介して下さいよ。そうそう、私はアバカスとフェリシアの婚姻の宴会を取り仕切ったんだぞ。あの時はアバカスの求婚をみんなで聞き耳を立てていてな、奴がフェリシアを抱きしめた瞬間、皆で飛び上がって喜んだんだぜ」

「そしてこやつが隠し持っていた酒を持ち出してきて宴会を始めたのだ。まったく職場を何と心得ているのか」

「ルガル館長、あなたも黙認してくれたじゃないですか!」

「皆さん、魂が消えかかっています! あぁ、急がなきゃ」


 多くの魂が消えようとしているこの精神の中で、エラムは打ちひしがれて叫んだ。彼はハドルメの天文台の職員を助けに来たのだ。魔人化を解かずともみんなの意識を保つ方法を考え、その天寿を全うしてほしかったのだ。そのための神の二つの杯イル=クシールであった。しかし彼らはその神薬が魂に届く前に消えることを選んでいく。


「いいんだ、エラム、トゥイ。多くの魂が蘇ったとしても体は一つ。それは人ではないんだよ」


 ルガルは優しくエラムの頭を撫でた。


「でも、でも!」

「なぁ、エラム。儂たちは早く会いたい人がいるんだよ」

「誰にですか?」

「先に死んでしまった家族さ。それに王妃にもね。多くの者が魔獣にもなれずに死んでしまったよ。でもこれからは会いに行けるんだ。自分の名前を、魂を取り戻してね。こんなに嬉しいことはない……」


 そしてまた光が闇に溶けていった。


 落ち込むエラムの手をトゥイは握って引っ張っていく。彼女は涙目になりながらも気を奮い立たせて前を見る。彼女はここにいる魂を全て覚えておく必要があるのだ。優しいハドルメの人たちをクルケアンの民に伝えるために。歴史を、想いを、恨みを、そして愛を彼女は記録し、彼らの生きた証を残すために。

 エラムとトゥイは多くの光に語りかけられ、また同じ数だけ別れをしていった。


 そしてついに最後に残った大きな光と小さな光に辿り着いた。アバカスとフェリシアが少し照れたように二人に向き合った。


「捕まってしまったな、別れを言うのが辛かったのだが仕方ない。……さよならだ、エラム、そしてトゥイ」

「嫌だ、アバカスさん。あなたは後一年、僕達の後見をしなければいけないはずです。嫌だ、行かないで!」


 子供のように駄々をこねるエラムをフェリシアがあやすように抱きしめた。


「エラム、天文台の皆はちゃんと魂の記憶を思い出していたでしょう」

「……はい」

「精神は魂の器。肉体は血を収める器。そして血は魂と結びついている。どれか一つでも欠ければ私達は生きてはいけないの。それをあなたは取り戻してくれた。あなたが見つけてくれたのよ。私達それぞれの名前を、親から与えられた一番大切な宝物を」


 きっと人は親から名前を呼ばれることによって魂が形を成していく動物なのだ、とフェリシアは語った。他人が想いを込めて呼んだ名が内なる自分を作っていくのだ。その想いの最上のものは愛情であろう。

 だからフェリシアとアバカスは愛情を込めて彼らの名を呼ぶのだ。


「エラム、トゥイ、この荒んだ人生の最後に君たちに会えてよかった。おかげでもう一度人を愛することができた。友人にして大切な家族でもある君達を」

「僕は教えられてばかりで、何もできなかった……」

「十分よ。あぁ、トゥイ。いつかあなたと星の話がしたかったわ。でももう時間がないの。だからその代わりにアバカスに話をしてもらいなさい」


 フェリシアの言葉にアバカスの魂が大きく揺らめく。


「何を言っている、フェリシア?」

「トゥイ、覚えておきなさい。女は一番大切な人のために勇気をもって行動することができるのよ。時には狡いことをしてでもね」

「大切な人……」


 フェリシアはアバカスとエラム、そしてトゥイを見て笑った。そして自らの死を早めるかのようにその魂の光を失っていく。


「僕を置いていくのか、フェリシア!」

「違うわ、先に行って待っているの。私が消えればこの精神の内に魂は一つ。肉体も一つ。アバカス、父親としてこの子達をもう少し見守っていてね」

「フェリシア!」


 夜空に無数の星が流れていくように、残った三人の頭上を美しい光の群れが飛んでいく。アバカスはその光を見ながら天文台の仲間の名を想いを込めて力強く叫んだ。


 タラヤ

 ティムナ

 ラグス

 ヨヤダ

 ユスト

 マルコ

 ホハム

 ペルシス

 ハゾ

 イクイ

 ヘレレ

 ラピド

 ルガル


 名前を叫びながらアバカスは思う、大好きなあの仲間たちによって自分とフェリシアは守られてきたのだ。その名を忘れても、魂の本質を失ってもなお、その名に刻まれた優しさを彼らは失わなかった。

 何と素晴らしい仲間と出会えたのだろうか。そして彼らがいたからこそエラムとトゥイに出会うことができたのだ。いつか自分も行く場所で彼らに感謝の気持ちを伝えるためには、大きな土産話が必要だろう。それはきっと、この子たちのこれからの物語なのだ。


「みんな、フェリシア! 世界の果てできっとまた会おう!」


 その言葉に応えるように星々は輝き、消えていった。

 そして、アバカスに神の二つの杯イル=クシールの力が降りかかっていく。


 数日後、シャヘルの薬草園でアバカスは目を覚ました。頭の中でフェリシアに話しかけても返事はなく、それは彼が完全に人に戻れたことを意味していた。彼の両腕にはエラムとトゥイがアバカスに縋りつき、泣きじゃくりながら喜んでいる。

 アバカスは二人を強く抱きしめてその体温を感じた。自分が守るその相手の体温を、魂の熱を感じたかったのだ。


 フェリシア、みんな、僕はもう少しだけ頑張ってみるよ。


 アバカスは誰でもない、自分の魂にそう誓った。

 その時、三人を優しく包むかのように温かい風が吹き抜けていった。



『階段都市クルケアン』観測者篇 完

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