第178話 大廊下の戦い⑥ 母よ、子よ

〈クルケアン百層大廊下にて〉


「レビは貴方にとってどういう存在だった! 家族か、道具か、答えてもらおう、ヤム!」


 サリーヌの言葉にヤムは苛立ちを見せて槍を突き出し、雷撃を放った。しかし、タニンが身を起こしてサリーヌの盾となり、槍をその腹で受け、雷をその口中に飲み込んだのだ。バァルの加護を受けた鉄槍を弾き飛ばし、そして雷撃をも呑み込む。ヤムはタニンがバァル神の加護を得ているのではないかと考えた。


「破壊も雷もバァルの権能。それが通じぬとあれば呪いの炎を試してくれよう」


 ヤムはイルモートの権能たる呪いの炎をタニンの周囲に顕現させ、鉄槍を振り下ろす。炎がタニンに向かって凝縮され、たちまち巨大な炎の柱が上がった。少なくともサリーヌは焼け死ぬことになるだろう。


「ヤム、覚悟!」

「何だと?」


 サリーヌが突如ヤムの側面から現れ、剣を振り下ろす。完全に虚を突かれたヤムは鉄槍で受け流そうとするも、懐に入られては押し返すこともできず、滑る刃で腕を斬られた。タニンは炎に包まれる寸前、身をよじってサリーヌを林立する円柱へと投げ飛ばしたのだ。ヤムは滴る血をそのままに、体勢を立て直してサリーヌと向き合った。


「サリーヌ、お前とサラが一番ナンナ様に似ておる。その力も、ヒトに寄り添う生き方も。……認めぬ。神が地に降りてヒトを守るなど、天の広寒宮をからにして世界を管理を放棄するなど、誰が認めるものか。お前を殺す。ダレトも殺す。そして儂が最後の月の祝福者となり、その力をナンナ様に返すのだ。さすれば再び女神は復活されるだろう」


 炎の壁を背にヤムは何かを追い求めるように空を見上げる。そして苦み走った表情を浮かべて槍を構え、サリーヌに向かって突き出した。炎の壁を突破したタニンがヤムの槍よりも早くサリーヌを掴み取り、再び空で両者は睨み合う。


「月の祝福者を殺す? ならば、貴方はレビも殺そうというの!」


 サリーヌはこの言葉に賭けた。ニーナに月の祝福が発現したことを知らせるのは彼女の身を危険にさらすかもしれない。しかしそれは遅かれ早かれ気付かれることなのだ。ならば、彼女は事実を以ってヤムの魂に問いかける。それは彼に選択をさせることでもあった。


「馬鹿な、あの娘が祝福を得たというのか!」

「貴方がレビを助けるためにその魂を分かち与えたのでしょう。何故ならレビに生きていて欲しいから、…そして記憶と人格を保って欲しいから。貴方はレビを家族と思っていたはずだ!」


 ヤムが呻くように声ならぬ叫びをあげる。目は真っ赤に充血し、手は顔を掻きむしりその頬に血を流していく。それは涙のようにもサリーヌには見えた。


「我は月の女神ナンナの従者ヤム。我が神の復活こそ全て。‥‥そう、全てなのだ」

「バルやエルから聞いた! 貧民街のレビは明るく笑っていた、そして貴方が死んだと思い込み泣いていた、と。それはレビにとって貴方の存在が大きかったから、貴方がレビを愛していたからだ! 逃げないで、ヤム!」


 ヤムの体が大きく膨れ上がった。骨が折れそして再生していく不快な音と、禍々しい魔力が一帯に広がっていった。人ではなく鉄塔兵ら神人を殺しその魂を自身に取り込んでいた老人は魔神と称するべき存在へと成り下がっていくのだ。予断を許さない状況で、サリーヌは後方の戦闘の音が激しくなるの聞いて迷いを見せる。ニーナやエラム達は無事だろうか、と。


「サリーヌ、ニーナの支援に向かいなさい」

「……先生、しかし、ヤムを放置するわけにはいきません」

「少しの間なら私とイグアルで抑えます。貴女が一番守らなければならない人を守りなさい」


 サリーヌは無言で頭を下げると、大廊下の大塔に向けて飛び去った。変貌を遂げていくヤムをタファトとイグアルは憐れみを以って眺める。


「水の神エルシードよ。貴女の愛を以ってヤムの魂を清め給え」


 イグアルの両手から凝縮された拳大ほどの水の塊が放出され、ヤムの蠢く肉塊の中に入り込んだ。数百分の一までに圧縮された水など通常の手段では不可能である。しかし、エルシードの祝福は、イグアルの魔力を媒介にその奇跡を可能にしていた。ただの水は力と熱の塊となり、蒸発すら祝福で押さえつけて魔神の体内でその暴発を待つ。


「太陽の神タフェレトよ。貴女の慈悲を以ってヤムに永遠の眠りを与え給え」


 タファトの指の先から小さな光の点が生まれ、それは線となってヤムの胸に埋め込まれた水の塊に繋がった。後は僅かに力を籠めるだけでヤムの体は四散するはずであった。


「ヤム、貴方はそれでいいの? 生きて家族を守りたくはないの?」


 ヤムはタファトの言葉を他人事のように聞いていた。理性が侵食され欲望のみが高まっていく中、遠い日の家族の記憶が蘇っていく。


……家族? 家族か。あの日、そう、弟のナハルと共に路上で生活し、夜は廃屋で寒さに震えながら寝ていたあの日だ。天井の割れ目から覗く満月に呼びかけられたのは……。



「僕たちを呼ぶのはだあれ?」

「ナハル、あの大人達かもしれない。出るな、殴られるだけじゃすまないぞ」

「でも兄さん、とても綺麗な、優しそうな声だよ」

「全く、警戒心のない奴だな。おい、俺達を呼ぶのは誰だ!」


 その時、一条の月光が床を照らし、見上げるとそこに美しい女性が立っていた。


「今日は良い月夜だな、幼い兄弟よ」

「うん、とても綺麗なお月さんだよ」

「ナハル!」


 ヤムは弟を手で制し、女性が自分達にとって危害を加える存在か見極めようとする。


「……武器は持っていないようだな」

「ふふっ、そうだな。そんなに警戒をするな。今日は散歩に来たのだ。ほら、地上では女性の一人歩きは危険なのだろう? 私と共に散歩をしないか。やっとうるさい護衛をまいたところでな、見つかったら怒られてしまう。形だけでも供を連れて行こうと思ったら、ほれ、小さな騎士を見つけたわけだ」


 その女性は透き通るほど白い手をしていた。差し出された両手をヤムとナハルは自分でも気づかぬうちに握っていた。


 ヤムたちが住む小さな町の北にある大森林のはずれを三人は歩く。女はこの辺りの事を何も知らないらしくナハルの説明にいちいち頷いて耳を傾けていた。ナハルはその反応が嬉しいのだが、説明をし尽くして困り顔となる。


「そうだ! じゃぁ、次は兄さんの話をするよ。兄さんはね……」


 そういって兄の自慢話を始めるのだ。食べ物をいつもどこかで探しだしてきて自分に真っ先にくれる事、怖い大人たちをやっつけてくれること、そしてとても頭がいい事を歌うように女に語る。


「ほう、良い兄だな。褒めてやろう」


 女はそういってヤムの頭を優しく撫でた。ヤムは羞恥で顔が赤くなるが、だんだん路上で死んだ母の事を思い出して泣き始めた。優しい母は死んだ。弟を守るために辛いことも耐えてきた。彼はもう一度母に会いたかった。そして母に褒めて欲しかったのだ。

 女の胸に抱き着き泣いていると弟も連れられて泣き始める。月明りの下で女は幼い兄弟を優しく抱きしめた。


「がんばった。がんばったぞ、偉い兄だ」


 流すものを流し尽き、目の周りを真っ赤に腫らしたヤムは女の名を問うた。


「私はな、ナンナという」

「ナンナさん、家は何処なの?」


 ナハルの質問に女性は手を空に向けた。空には満月が浮かび、その光に負けないように赤光が輝いている。


「お前達、私と共に来ぬか? 私も家族はおらず、寂しい生活をしておる。だがお主達と共に暮らすと楽しくなりそうだ」

「はい!」


 弟の即答を聞いて、ヤムは心の中では躍動する何かを感じたが、兄の体面でやれやれといった様子で受け入れた。その時、森の中から槍を持った兵たちが大挙して現れる。ナンナは身構えた兄弟に安心するように笑いかけた。


「供をまくなどお戯れはやめてください。女神ともあろうお方のすることではありませんぞ」

「すまなかった。すまなかった。今日はもう帰るとしよう。だから皆の者、機嫌を直せ」

「ナンナ様、そちらの子供は?」

「あぁ、私の家族だ。広寒宮で面倒を見る故、お主達もよろしく目をかけてくれ」

「貴方の決定には従いますが、鉄塔兵として育てるので?」

「いや、それは育ってからじゃ。後日彼らに選ばそう」


 ヤムは弟と共にナンナに手を引かれたと思うと、赤い光に乗って、見たこともない屋敷に来ていた。窓を見ると黒と水色の大きな玉が空に浮かんでいる。


「ようこそ、月の広寒宮へ」


 そして、女神と共に家族としての日々が始まったのだ。


「ナンナ、僕、もう槍の型を覚えたよ!」

「ナンナ、俺だって貴女の祝福をうまく使えるようになったんだぜ」

「二人ともそんなに慌てなくてもいいのに。…しかしよくやったぞ。お前たちは私の誇りだ」


 兄弟が文武に励むのは、ナンナに褒められたかったためであった。彼女は厳しい一面もあるが、褒める時の優しい目を二人は何より好きだったのだ。食事も寝る時も、天馬に乗って月面を駆ける時も三人は一緒だった。

 ある時、ヤムはナンナを母さん、と間違って呼んでしまった。驚き、嬉しさに顔を崩すナンナを見てナハルも負けじと、お母さん、と声を上げる。ナンナは少しだけ困ったような顔をして、兄弟を固く抱きしめた。それは兄弟の一生において黄金で記されるべき、短くも幸せな日々であったのだ。


 時が過ぎ、兄弟は少年から青年へと成長していく。


「兄上、やっと鉄塔兵に正式に加わることができました。兄上と母さんを守って見せます!」

「ナハル、お前は自慢の弟だ。これほど優しくて強い男は広寒宮にいないだろう。これからも頼んだぞ」

「兄上こそ、母さんの従者として地上に祝福をもたらし世界の調和を守っておられる。私こそ自慢したくてたまらないのですよ」

「しかしな、地上の荒廃は見るに堪えぬ。母上も心を痛めておいでだ。次の赤光で地上に降りて、直接にヒトを導かねばならん」

「母さんと兄上ならそれができましょう。留守番は正直寂しいですが、この広寒宮殿でお待ちしております」

「あぁ、ナハル。必ず帰る。そうしたらしばらくはゆっくり過ごそう。知っているか? 母上は最近料理に凝っていてな、俺達に御馳走を振舞おうと工房で研究をしているんだ」

「料理を工房で研究とは穏やかでないのですが…兄上からもそれとなく言って下され。神とはいえ向き不向きがあるのだと」

「止められん。それに地上で料理の腕が上がるかもしれぬぞ。まぁ、覚悟して待っていろ」

「……はい。わかりました」


 二人は笑って固い握手をして別れたのである。


 ヤムは薄れゆく意識の中で、地上に降りてからの事を思い出そうとするが、うまくいかない。あの時、地上に降りた後、ナンナは嘆き悲しみ、自らの力を地上に溶かして消え去ったのだ。それは何故だったのか、頭に霧がかかったようにどうしても思い出せない。


 しかしこれだけは覚えている。母は消える前に自分を抱きしめたのだ。


「ごめんね。愛しているわ、ヤム、ナハル」


 魔神に変貌しながらヤムは叫び声を上げる。母が悲しんだのも、地に溶けたのも、生母を辱め、弟を踏みしめ、自分を嘲ったのもヒトの所為なのだ。だから地上から母の力を全て集めだし復活をさせる。そしてナハルが待つ天の宮殿に帰るのだ。

……憎いヒトを殺し尽くした後に。


 ヤムの叫び声はやがて小さな呻きに変わる。

 彼が最後に思い出していたのは捨てられた赤ん坊であった。貧民街に居を構え、クルケアンを貶めるべく裏で活動をしていたヤムは月夜の晩に捨て子を拾い、家に連れ帰ったのだ。それはナンナに拾われた昔を思い出したのかもしれない。

 育て方を間違ったのだろうか? その子はお転婆で気性の激しい子になってしまった。それでも寒い晩には共に寝て、体の節々が痛むときには肩や腰を揉んでくれる、寂しがり屋の優しい子でもあった。普通の生活を願い、騎士と神官に子を預けたが、因果は恐ろしく彼の目の前に息も絶え絶えのあの子の姿があった。そしてヤムは母がヒトの為にその力を地に溶けさせたように、我が身の魂を子に分け与えたのだ。


「レビ、私の家族よ……」


 タファトはその言葉を聞いて、最後に込めるはずの力を止めた。しかし、その瞬間、ヤムは赤い光に包まれたのだ。


「イルモートの力!」


 そしてヤムは完全に魔神へと変貌し、タファトに襲いかかった。

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