第152話 賢者の死② 師の面影

〈ゲバルの街にて〉


「イルモートへの説得の件、申し訳ありません」

「エルシードよ、気にすることはない。優しいお前の気が済めばそれでいいのだ。戦いが始まれば後方へ下がっておきなさい」


 エルシードは夢で見たバァルの姿を思い出した。夢のバァルは今よりも少し幼く、ようやく成年に達したあたりに見えた。あれからの数年でバァルは依り代の中に入ったのだろうか?それともあの男とは別人なのだろうか?


「兄様は、依り代の記憶を持っていて?」

「……何のことだ。依り代の記憶なぞ知らぬ」

「アスタルトの家、という言葉に覚えはない?」


 バァルはため息をついて、エルシードを静かに咎めた。


「イルモートに何を吹き込まれたかは知らぬが、ヒトの感情に惑わされるべきではない。さぁ、警護の兵をつけるので自室にいなさい。護衛団を編成次第、安全な後方の砦へと移ってもらう」


 エルシードもため息をついて、警護の兵に連れられて自室へ戻った。十人もの兵が自室や露台にいるのでは気儘に外出もできず、これは事実上の軟禁であった。


「兄様は夢の中のヒトではないの? 魂の記憶を呼び覚ませばイルモートのことを理解できると思っていたのだけれど……」


 戦争を止めるには、その只中へこの身を投じるしかない。しかしどうすればここから抜け出せるだろうか……。

 悩むエルシードの部屋にアッタルが使用人と共に入室する。


「エルシード様、失礼します。砦へ行くための準備品をお持ちしました」


 アッタルがわざと大きな声でそう説明するのが気になった。まるで警護の兵に聞かせるように言っているのだ。


「アッタル、どうしたの?」


 アッタルが唇に人差し指をあて、静かにするよう訴えると、使用人の娘を促して荷物の中から衣服を取り出させる。エルシードはそれがヒトの平民の服であることに驚いた。そして使用人の娘がその頭巾を外した時、ガドの仲間の一人だと気づいて危うく叫び声をあげそうになった。


「ガドの仲間の! なぜここに?」

「ゼノビアよ。事情は後で話すわ。戦争を止めたければ、これに着替えてアッタルについてきて」


 今度はゼノビアの指示でアッタルが荷物から服以外の装備品を取り出していく。アッタルは不機嫌そうに見えるが、あのヒト嫌いの従者がゼノビアの指示に従っているのが、エルシードには可笑しくも嬉しい。

 ガド達は自分を連れ出そうとしてくれるのだ。平民の服をむしろ喜んで着込むと、ゼノビアはエルシードの服を代わりに着込んだ。


「このままアッタルと共に外のガドと合流して。わたしは別の方法で抜け出すから」

「分かったわ。ありがとう」


 エルシードが思わずゼノビアの手を握る。


「神様に感謝されるなんて変な気分。あべこべだわ」

「ふふ、今のわたしはヒトよ。神に感謝してもいいでしょう?」


 エルシードの服に着替えているゼノビアは、自分は神を演じなくては、と思い至って笑い返した。


「じゃぁ、エルシード、アッタル、後でね」

「ふん、気を付けるんだな」


 アッタルは平民に扮したエルシードを連れて廊下に続く扉を開ける。その時に彼は少々わざとらしく、エルシード様、ではまた後程、と大声で言い放ったのだ。ゼノビアはアッタルの下手な役者ぶりに心臓が跳ね上がったが、神の従者と一定の距離を置いている警備兵は特に気しなかったようだ。扉が閉まる直前、警備の兵の目がこちらに向いたので慌てて扉に背を向けた。


「ふぅ、神様も楽じゃないわね。こんな動きにくい服を着ているんだし」

「エルシード様、いかがなさいました?」

「!」


 背中から声を掛けられ、ゼノビアは壊れた人形のような動作で机の上の茶杯を手に取った。上ずった声で何とか取り繕おうとする。少なくともエルシードとアッタルが安全な場所へ行くまで、今しばらくの時を稼がなければならないのだ。


「何でもない。茶を飲んでいるだけです。用があれば呼びつける故、しばし下がっておれ」

「はて、神が風邪を召されるはずがないが、お声が変ですな」

「これは、茶を飲んで少しむせておるのだ」

「背も少し大きくなられて……」

くつを変えた所為であろう。疾く失せよ」

「体形もまぁ、すっきりとなられて……」

「それは……。えっ、ミキト!」

「さぁ、脱出するぞ、ゼノビア、天井から外へ出る手筈は整った。貧民街ではよくやって慣れている。ん、どうした? 怖い顔をして」


 ゼノビアの平手打ちの音は通路まで響き、兵の誰何にゼノビアは上ずった声のまま、誤魔化す羽目になった。

 ミキトは頬をさすりながら、シャンマによって書かれた手紙を寝台の上に置き、エルシードが眠っているように枕と毛布を整える。ゼノビアに予備の兵服を渡して彼女が着替えるまでの間、周囲の気配を探る。昔、ウェルと共に空き巣をした時の経験が役に立つとは人生とは、彼は苦笑交じりに貧民街出身であることを感謝した。天井裏の狭い空間にゼノビアを押し込め、自らもそれに続く。そしてゲバルの町の屋根伝いに、隠れ家としている廃墟へと身を隠すことに成功した。


「ゼノビア、無事だったのね」

「うん、勿論だよ。だから抱き着かないで、神様の抱擁なんて緊張しちゃうじゃない」


 ガドはエルシードの立ち振る舞いを見て既視感を覚えていた。屈託のない笑顔、近い距離感、隠れ家に来てからのエルシードはまるでエルシャそのものだった。


「さて、まだこれからだ。ティムガの草原に隠している飛竜に乗ってハドルメの廃城まで逃げ込むぞ」


 ガド、ミキト、ゼノビア、シャンマ、アッタル、そしてエルシードが旅装に身を包んで、裏口から飛び出した。警護の兵がそろそろ気付いているはずだ。なるべく早く城壁の外で出ないといけない。ガドは人気の少ない通りを先導して駆けていく。

 城壁が見え、その詰所を突破するだけとなった時、ガドはその足を止めた。


「バァル!」

「神をかどわかす不埒者よ。誰かと思えば先日の小僧ではないか。神の情けを仇で返しおって、その死を持って償うがよい」


 ガドは周囲を観察する。バァルは兵を二十人ほど率いており、時間が経つにつれてその数は増えていくであろう。


「兄様、わたしがお願いしたのです。まだ戦争は止められる。そのためにこの者達の協力を願ったのです」

「エルシード、ヒトに願うとは一体お前に何があった。……イルモートのところに行かせるのではなかった。ヒトの感情に惑わされるとは情けないぞ」

「兄様、わたしはどうなってもいい。この人達の命だけは!」


 ガドはエルとバァルの会話をしている間にミキト、ゼノビアに照明弾の準備をさせていた。何かあればタファトの魔力を込めたこの照明弾で逃げ切るしかない。それまでは自分が時間を稼ぐ、そう思って、バァルの前に立ちはだかった。


「俺が誘拐犯だ、バァル。バルアダン中隊小隊長のガドという。この名前に覚えはあるか?」

「ヒト風情が何を言う。ガドなど聞いたこともないわ」

「ならばバァル、貴方に問う。人が前に進むための技術は悪いことなのか? イルモートに与する人をなぜ殺す必要があるのだ?」


 問答をしながらガドは改めてバァルの顔を観察する。バルアダン隊長に確かに似ている。しかし、本人ではない。現世の隊長よりいくらか年嵩としかさのようだが、数年の変化としても何か違和感がある。まるでバルアダンと誰かを掛け合わせたような…


「ガドとやら、死の前にその問いに答えてやろう。ヒトに過ぎた技術はやがて自らを滅ぼし、あまつさえ、神に挑む拠り所となる。神に挑めばヒトは死ぬしかないにもかかわらず、だ。技術はかくも人を堕落させる。まして広寒宮の知識など論外だ。ヒトは由らしむべし、知らしむべからず」

「実際に見てきたのか!」

「何だと?」

「実際に見てきたのかといっている。人は貴方に挑戦したのか? それはいつだ!」


 バァルは初めて動揺を見せた。彼がエルシード、イルモートを追うために地上に降り立って百十二年、そのように詰問されるのは初めてであった。


「そ、それはあの時の……」


 言いかけてバァルは戸惑った。自分は何を言おうとしたのだ。彼は何か言いようのない恐怖を感じたのだ。その恐怖は屈辱へ、そして怒りに変わり、バァルはガドを殺すべく長剣を抜き放つ。


「不埒なヒトよ、妄言もそこまでだ」

「人の足掻きを見せてやるよ」

「ほう、小僧が持つにはふさわしからぬ、良い剣ではないか」


 バァルは上段から剣を振るう。一刀で決めるつもりはなく、自分相手にここまで啖呵を切ったガドの力量を見てみたいと思ったからであった。ガドは渾身の力を込めてバァルの剣を受け止めた。両者の間で火花が舞い、バァルは満足げに笑うと、数合ほど打ち合い、間合いを取る。


「ガドとか言ったな、小僧」

「あぁ、そうだ」

「ガド、貴様の隊長はお主よりも強いのか?」

「誰よりも強い。どの時代、どの世界でもだ」

「ならばお前を殺してその隊長とやらを引っ張り出さなくてはな」


 バァルの剣がガドの兜を薙ぎ払う。ガドは剣を振り上げてこれを防ごうとするが、力及ばず、鈍い音を立てて彼の兜は宙を飛んだ。勢いは殺したものの、体がしびれて動けなくなったガドは地に倒れた。バァルがガドにその刃を振り下ろさんとしたその時、ゼノビアの声が城壁に響いた。


「バァル、動くな! 動けばエルシードの命はないぞ!」


 ゼノビアが短剣をエルシードの首に向けて、大声で脅迫をしたのだ。


「バ、バァル、助けて」

「エルシード様、あぁ、バァル様お助けを!」


「卑怯者!」

「エルシード様!」


 兵たちが口々にゼノビアたちを罵る。その横でミキトが調整を終えた照明弾を天に向けた。


「エルシード、アッタル、目を瞑って!」


 小声でゼノビアが指示をした後、ミキトは照明弾を打ち上げた。爆裂音と共に花火のようにその光は広がっていく。ミキトの調整によって、頭上のすぐ上で光がさく裂したのだ。多くの兵が目を抑えてうずくまる中、ミキトはガドを担いで城門を抜ける。エルシードを担いだゼノビアとアッタルがそれに続いた。光に気づいてサラ達の飛竜が城門に向かっているのが見える。


「もう少しだ、間に合うぞ!」


 ラメドの飛竜にエルシードとアッタルを乗せ、ギデオンの飛竜にゼノビアとミキトが乗った。二体の飛竜が空に舞い上がっていく。続いてヒルキヤがシャンマとガドを担いで飛竜に乗ろうとした瞬間、槍が風を割きながらガドを襲った。


「行かせぬ!」


 バァルが放った槍は、ヒルキヤによって払い落とされた。しかしその間に両者の距離は既に剣の間合いとなっていた。


「なかなか小回りの利く者達だ。ヒトではあの光に抗しきれまい。しかし、神に通用すると思わぬことだ」

「……ガド、剣を借りるぞ」

「ほう、老人が我の相手をするのか。せめて一撃で楽にしてやろう」

「未熟者。誰が相手でも油断はするな。勝利を感じた瞬間が一番危険なのだ。お主、剣の師から学ばなかったのか?」

「師……?」


 剣を構えるヒルキヤを見てバァルは再び手が震えだす。何だ、何を気圧されている? ただの一刀で目の前の老人は即死するというのに、自分が気圧されるはずがないのだ。もしや、体が動くことを拒否しているのか。

 動けないバァルは目の前の老人の構えと剣を見ざるをえない。老人の構え、そしてそのヒトが持つには過ぎた剣は、彼に何処かの風景を思い出させていた。体が軋むように悲鳴を上げる。しかし、それが悲鳴ではなく、歓喜であることに彼は気付いた。


「……アドニバル、懐かしい剣筋だと騒ぐでない。お主の師は似ているようでもっと強いのだろう?」


 ラメド、ギデオンの飛竜が空から槍を投擲する。バァルは彼らに対しては虫を払うように軽く剣を振り、槍を弾いた。その隙にヒルキヤはガドとシャンマと共に飛竜に飛び乗り、上空に去っていった。


 バァルは、遠ざかる飛竜を見ながら自嘲する。


「まったく、ヒト如きに出し抜かれるとは、我ながら情けない」


 そう言いながらも、エルシードとアッタルが見せた、下手な演技に口元をほころばせる。あの見事としか言いようのない、素人演技の可笑しさはどんな笑劇も敵わないだろう。


「エルシード、ヒトに近づいておるな。しかし今となればその方がいいのかもしれぬ。神の呪縛に殉ずるのは私とイルモートだけでよいのだ」


 そしてバァルはシャマールの剣筋を思い出しながら、その心中で浮かんできた風景を思い出す。依り代となった男が剣を教わっている記憶を、その男が父と呼んでいた光景を。


「父か、アスタルトと共に何やら温かい言葉だ。そうだな、アドニバル」


 そう言ってバァルはイルモートとの戦いの準備をすべく、兵舎に向かっていった。

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