第125話 ティムガの草原
〈サリーヌ、リベカと共に国境を偵察する〉
「あれがハドルメの城……」
私は眼前に大きく聳え立つその城を見上げる。ハドルメ側の老人が権能杖を振りかざすや、数千の魔獣の魂が形を成してこの城が出来上がった。ニーナがお爺ちゃんと呼んだその人は、賢者ヤムのことだ。
その城はなぜか寂しく、空虚のようなものに感じられた。それはきっとハドルメの民の魂から出来ているためだろう。
「人のお墓か」
「サリーヌ隊長、何か?」
「何でもないわ、ラザロ。さぁ、リベカ様、もう少しで国境となります。体調は大丈夫でしょうか?」
私はゼノビアと同乗しているリベカ様に馬を寄せて尋ねた。
「ありがとう。サリーヌさん。とても快適に来ることができたわ。それに若い人に囲まれて偵察だなんて、まるで冒険しているみたい。これでも少し興奮しているのよ」
七十歳は過ぎているリベカ様は穏やかで、笑みを絶やさない理想の女王様みたいな方だ。リベカ様は時々、このような少女のような茶目っ気を出す。それがたまらなく愛らしい。自然にこの人を守ってあげたいと感じるのは、人の上に立つギルドの総長としての魅力の一つなのだろう。恐らくこの人を傷つけたらクルケアン中のギルドの報復にあうはずだ。
「あの城、何か哀しい。人はいるみたいだけど中は空っぽね。人を置き去りにして建物だけ数百年前から現れたみたい……」
「御慧眼、恐れ入ります。魔獣の魂をもって顕現した城です。四百年前のハドルメの城を、人の記憶によって形を為したものだと思います」
「魔獣になっても、人の記憶は魂に刻み込まれている……。ハドルメの民よ、貴方たちの記憶になった城は間違いなく美しい。技術者としてそれは保証しましょう。見事です」
リベカ様は城に向かって呟いた。ハドルメと私達は共存できるのだろうかと私は不安だった。しかしリベカ様のように彼の国と共感できる人も多いはずだ。四百年経過してもまたクルケアンとハドルメとの戦争という同じ結果になるなんて、私は認めたくない。
ニーナからサリーヌとして私が第二の人生を歩いているように、国もきっとやり直しが聞くはずだ。
「ふふ、セト君がこの城を見たら、あの頂上に登ってみたい!といって駆け出していくんでしょうね」
「星祭りではお世話になりました。セトもエルたちも大喜びでした」
「あぁ、貴方もガドもアスタルトの家でしたね。今日の偵察はちょっとセト君の真似をしてみました。でもありがとう。おかげでハドルメの技術水準がわかりました」
「リベカ婆ちゃん! あたしもミキトもアスタルトの家だかんね、忘れないで」
「お、おいウェル。貴様、ギルドとはいえ評議員に向かって何たる口の利き方をするのか!」
「おい、ザハグリム。この隊では私が先任だ。言ったろう、先輩にはどう対応するんだ」
「う、そ、そうであったな。ウェル殿、上官に向かって配慮が必要なのではないか?」
「ありませんか」
「……必要なのではありませんか」
「いいんだよ。リベカ婆ちゃんは優しいし」
「私も孫ができたみたいで嬉しいわ」
「ほーら。いいかい、ザハグリム。こういう感覚こそ分からないと庶民を学ぶことなんかできないんだからね」
「なるほど! 流石はウェル殿」
ウェルに完全に躾けられたザハグリムに、ミキトがため息をついて激励する。
「ザハグリム、何というか、頑張れよ」
「何よミキト、あたしも先輩らしくやっているでしょう?」
「……そうだな」
心配をしていたザハグリムさんは、うまくウェルとミキトが面倒を見てくれている。特に叱ってくれるウェルの存在は彼に対して衝撃だったらしく、成人しているはずなのに彼女の言うことはよく聞くのだ。大きな子犬のようだと、いまでは部隊で笑っている。
「サリーヌ、皆、北を見ろ! 黒き大地から砂塵が舞っている!」
「ガド、砂塵が二条、魔獣が二体いるわ」
「ミキト、
ミキトが鏑矢をつがえた。耳をつんざくような風切り音を発して矢は空を飛ぶ。遮蔽物がないこの荒地だ。応援はきっとすぐに来る。
「普通の大きさじゃないぞ……」
ユバルが臆したように唾を飲み込んだ。振り返るとラザロもアビガイルもリシアも緊張している。あの魔獣との戦いで慣れていたと思ったが、まだまだ私達は経験不足らしい。それとも指揮官の差だろうか。
「バルがいないから、か」
私にはバルやガドのような指揮はできない。でも斬りこむことはできる。それに月の祝福も今ではだいぶ扱えるようになってきた。神殿の機関で仕込まれたその技術と力で先駆けをして、皆の士気を高めるのだ。
ミキトが外側の魔獣を弓を放って、こちらに注意を引きつけた。魔獣は怒号と共にガド達に突進していく。
私は正面の魔獣に向かって馬を走らせた。これでリベカ様は城門までたどり着けるはずだ。
「第一小隊、遅れを取るな! 全員、突撃槍を構え!」
槍に月の祝福を込め、魔獣と正面からぶつかり合う。槍が魔獣の肩に突き刺さり、魔獣の爪が私を襲う。半ば落馬する様に後ろ向きに倒れこみ、受け身を取って立ち上がる。
魔爪は馬の鞍と私の腿を切り裂いていた。馬が軽傷であることを確認すると、その尻を叩いてこの場から逃走させる。囮は私だけでいい。
魔獣の足が止まり、今度こそ私に止めを刺さんとばかりにその牙を向ける。
これで、魔獣の速度は殺した。
「この隙を逃すな、突撃!」
第一小隊が馬の速度を減ぜずに、その勢いをもって魔獣に槍を突き立てる。その身に五本の槍を受けて魔獣は苦悶の声を上げて地に伏した。
「隊長、無茶をしないでください!」
「ふふ、ありがとう。ユバル、助かったわ。第一小隊、護衛で人数が減っているガドの援護を!」
走り去る部下の背中を見ながら、私は魔獣の肩に刺さった槍を手に取った。魔力を介して、魔獣の魂が四つ見える。
「四人も中にいるのね。ごめんなさい、セトの力だったら解放できるのに」
私は変化させることしかできない。もし、リベカさんが言っていたように、魔獣と化しても魂にその大切な記憶が刻まれているのなら、せめてこの人達が好きだったものに形を為してほしい。槍を握る手に力を籠め、私はそう願った。
光があふれ、私の中を春の風のような匂いが通り抜けた。それはきっとこの人たちの記憶の一部なのだろう。その匂いを形にするように月の祝福の力を流し続ける。
光が地表に吸い込まれ、それが弾けたように感じた。
見渡すと辺り一帯が草花で覆われていた。
思わずそこに両膝をついて、指で花に触れた。
本物の草花ではない。これは魂でできた記憶の再現だ。
故に風にそよぐことはあっても、枯れることはないだろう。
人の記憶が残した、それは絵画のような風景だった。
「サリーヌ、危ない!」
ガドの声に目を向けると、槍や弓で傷ついた魔獣がこちらに向かって歩いてくる。
隊員たちが剣で刺してもその歩みは止まらなかった。魔獣の赤い目はただ、この偽りの草原を見つめている。
「ガド、みんな、手を出さなくていい。きっと大丈夫」
私は草原に座したままで、魔獣を迎え入れた。
魔獣は草原にどう、と倒れこんだ。涙を流すその魔獣の顔を私は優しく撫でる。
「そう、ここがいいのね」
魔獣がその眼をそっと閉じた。私は魔力を込めて剣を突き立てる。
再び光が発して、草原に美しい花が広がっていく。
知らず、涙が頬を伝う。
不意に目の前が暗くなって、飛竜が降りてきたのだと気づく。タニンではない。ハドルメの飛竜だ。飛竜が草原に伏して、先の戦いでシャマールと名乗った青年が鞍から降りてきた。
魔獣と同じような足取りで私の前にたどり着き、跪いた。
「聖女よ、感謝します」
そして、ティムガの草原よ、と彼は嗚咽と共にそう草花に向かって呟いた。
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