第46話 獣の力

〈神殿長シャヘル、教皇との謁見の間にて〉


 ダレトとレビが工房の調査に向かった頃、神殿長シャヘルは教皇の急な呼び出しを受けて謁見の間に向かっていた。シャヘルはダレトをその任務から外すように提言をしたことがやはり不興を買ったのかと頭を抱える。


「トゥグラト様に取り入って次代の座を確保せねばならないというのに……」


 大金をばらまき、多くの貴族や高位の神官の支持を得てはいるが、教皇だけは献金も献上品も当然のものとみなして興味を持たないのだ。以前、アサグが葡萄酒を教皇の私室に持ち込んでいることを知り、ならば自分もと西方の都市国家からの美酒を用意したのだが、一笑に付されてしまった。それ以来、シャヘルは教皇に対してどう媚びへつらってよいのか分からないでいる。


「神殿長であった時にはもう少し人間味があったはず。教皇となり、代々継承されてきたトゥグラトの名を受け継ぐと変わるものなのだろうか」


 シャヘルは過去を思い出す。あれは十年前、新教皇が即位した頃だ。クルケアンの市民の誰もが刷新された新しい政治をしてくれると期待する中、行われたのは古風な異端裁判だった。クルケアンでは禁忌とされる赤光の力を求めたとして大貴族のザイン家当主ヒルキヤを捕縛し、一方的に有罪としたあの日から別人となったように思うのだ。


「関りはできるだけ避けた方がいいが、あの馬鹿者が深入りをしてしまったしの」


 教皇に特命を命じられたダレトの、その不満げな顔を思い浮かべてシャヘルは苦笑する。だが、十年前に妹を失くした頃に比べると、幾分と表情は柔らかくなっているように思う。一緒に魔獣を討伐している、バルアダンという青年のおかげだろうか。


「……いいかげん、路地裏から陽の差す方へ飛び出してくれよ」

「おや、神殿長は日陰者がお嫌いとみえる」


 シャヘルは突然に背後から声をかけられ、その場に立ち止まる。金属が軋むような奇妙な音が聞こえるのは、彼が義足に着けた脛当と鉄靴のせいだろう。シャヘルは笑顔を作って振り返った。


「ベリア団長、神殿でお会いできるとは珍しい。いや、気にかけていた若者がようやく正道に戻れそうなのでつい口に出してしまいました」


 シャヘルはベリアが神殿にいることに驚く。神殿と犬猿の仲の飛竜騎士団、その団長が何の用だろうか。それに甲冑姿も珍しい。魔獣との戦いで片脚を失ってからは、軽装の皮鎧しか着けなかったはずだ。


「作った笑顔なぞ向けないでもらおう。私に取り入っても無駄なことだぞ」

「ふん、足を失くしたお主の立場を気遣って優しい言葉をかけたというのに。……なら遠慮なく聞くぞ、甲冑を着込んで何をしに来た。まさか猊下を討ち取りに来たのではないだろうな」


 甲高い声と共に猜疑の目を向けるシャヘルを、ベリアは冷笑で受け止める。


「よい義足を手に入れたのでな、どこまで立ち回れるか試しに来たのだ」

「とうとう前線に復帰か。それはクルケアンにとってめでたいが、なぜ神殿なのだ?」


 神殿にとってめでたくはない、と言う意味を言外に含ませつつ、シャヘルは問うた。フェルネス、そしてバルアダンを擁する飛竜騎士団に、数年前まで最強と謳われたベリアが復帰するのだ。権威はともかく武力において神殿は従属せざるを得ない。


「神殿が捕縛している魔獣と戦いに来たのだ。教皇に願い出たら自由に処して構わんと言われたのでな、復帰の準備運動にはちょうどいい」

「面白くもない冗談を言う。汚らわしい魔獣なぞ神殿にいるはずもない」

「……そうか、貴様はまだ――」

「ベリア?」

「いや、何でもない。お主、教皇に呼ばれたのだろうが、まだ時間があるのなら私について来い」

「ついて来いとは……あいたたた、こら襟を引っ張るな! それは引きずっていくというのだ!」


 ベリアは最下層の神殿を取り囲む回廊に足を向ける。歩くうちにシャヘルの顔色が変わったのは、ベリアが許可を受けた神官しか入れない北東の回廊を目指していたからだ。


「お、おい、ベリア。この回廊は私か猊下の許可がないと入れないのだぞ!」

「気にするな、アサグの奴が許可をした」

「……」


 シャヘル自身はここに足を踏み入れるのは初めてであった。彼は代々の教皇の棺が安置されている霊廟としか聞いておらず、ベリアに対して死者の魂の安らぎを邪魔すべきではないと小言を言う。だが、血塗られた鉄門の姿が現れた時、シャヘルはここが霊廟ではないと悟った。


「なんだ、このおぞましい門は……」

「奥の院だ。やはり知らなかったか、哀れな男よ」

「奥の院だと! 馬鹿な、神の言葉をいただくという奥の院がこんな場所のはずがない!」


 ベリアは地下へと続く階段を降り、シャヘルは獣くささに鼻をつまみながらついていく。やがて開けた場所に来た時、シャヘルは地下へと続く大空洞の淵にいることに気付いた。世界の果てにまで続きそうなその穴の周囲を角灯ランプの灯火が点々と照らしている。その角灯ランプからは油の腐臭が漂っていた。戦場で魔獣や反乱者を斬り殺してきたベリアは油の正体に気付き、神聖な場であるはずの奥の院に唾を吐く。


「ベリア、この不敬者が!」

「人脂を用いた灯火の方が不敬だろうよ。いや、神はその方が喜ぶのかもな」

「人脂?」


 シャヘルは問い質そうとするが、ベリアから闇に光る二つの光点を剣先で示され、続く言葉を失う。ゆっくりと近づいてくるそれは魔獣の目であった。ベリアは尻もちをつくシャヘルを横目で見て、ふん、と鼻を鳴らすと魔獣の正面に歩み寄っていく。


「べ、ベリア! あのように大きな魔獣は見たこともない。報告にあったバルアダンが討った魔獣より大きいではないか! 準備運動ではすまんぞ、早く私を連れて逃げろ!」

「だからこそよ。この力が本物かどうか試す良い機会だ。役に立たない力であればそれまでのこと」

「この力とは何のことだ、義足のことではないのか!」


 叫ぶシャヘルを無視し、ベリアは大剣をゆっくりと振り上げる。魔獣が見下すように顎を上げ、そしてその牙をベリアの脳天めがけて突き立てた。

 ただ一振りであった。ベリアは力強く踏み込み、魔獣の顎から腹までを一気に斬り裂いた。魔獣は獲物をいたぶる下卑た表情のまま両断されて崩れ落ちる。赤い血が大空洞の淵を染め上げ、穴の底へと流れ落ちていくのだが、その時シャヘルは穴底が薄暗く光ったのを見てしまった。悪寒を覚えたシャヘルはベリアにそのことを伝えようとするのだが、それよりも恐ろしい光景を目の当たりにしてしまう。


「べ、ベリア、魔獣の血を飲んでおるのか!」

「血は魂の力。魔獣に勝つためなら、穢れようとも受け入れよう」

「やめろ、それは獣の道だ。誉れ高き飛竜騎士団の団長が、若者の憧れの存在がすべきことではない!」

「力が必要なのだ。それに若者を導くためにも強くありつづけなくてはならん。……この力さえあれば魔獣を全て倒しきることができる」

「だが魂が弱くなったな。騎士の誇りを捨て獣に堕ちたか、この馬鹿者めが」

「口では何とでも言えよう。シャヘル、お主ならどう選択をするのだろうな」


 ベリアが憐れむような視線をシャヘルに向けた時、灯火の下に一人の神官が現れた。女でありながら教皇トゥグラトの弟を名乗るアサグである。


「ベリア殿、往時の力を取り戻せて結構なことですね。これでクルケアン最強はこれまで通り貴方となる。神殿にとっても、騎士団にとっても喜ばしいことです」

「貴様らと慣れ合うつもりはない。だが、取引は忠実に遂行しよう」

「ええ、それで構いません。ですが、その力を得た代償たる獣の衝動は神殿が持つ神の二つの盃イル=クシールがないと抑えきれません。ゆめお忘れなきよう」

「ふん、衝動ごとき抑えつけて見せるわ」


 ベリアはアサグを睨みつけ鉄門に向けて去っていく。シャヘルは素知らぬ顔でベリアの背後に隠れついていこうとするが、アサグに呼び止められた。


「シャヘル神殿長、我が兄が謁見の間でお待ちです。急ぎ向かいなさい」


 上位であるはずのシャヘルに敬意を払うこともなく、アサグは淡々と告げてその姿を消した。奥の院に侵入したことを咎められるかと思ったシャヘルだが、とりあえずは見過ごしてくれたようで安堵の息を吐く。


「しかしなぜ地下にこのような場所があるのか。猊下にお聞きしなくては」

「……シャヘル、私はお前が嫌いだった」

「言われなくともわかっとるわ。しかしなぜ今、この場で言うのだ?」

「私も一端とはいえ、真実に触れてクルケアンに対する想いが変わった。教皇にそれを聞くのであれば、今日のお主が明日のお主であるとは限らん」


 だから今、伝えるのだとベリアは前を向いたまま呟いた。


「くだらん。神の愛を、その存在を確かめるためだけに私の魂はある。真実こそ求めるものよ」

「もし慈愛の神などいないとなったらどうするのだ」

「神に復讐をしようとする愚かな若者に伝えるだけだ。馬鹿なことはやめて、幸せに生きろ、とな」


 そしてシャヘルは別れ際、ベリアに向かって神殿の秘薬でもある神の二つの盃イル=クシールをアサグには内密に横流しすることを告げた。驚くベリアに、シャヘルはわざとおどけた声で言う。


「その力、何かしらの負担がかかるのだろう? いいかげんに袖の下を受け取れ。老人になる前に処世術を覚えていて損はないぞ」

「……アサグにも言ったが神殿と慣れ合うつもりはない。取引といこう。何か望みはないか」

「負け知らずの騎士団長殿に取引か……そうだな、その力を得ても負けることがあれば、さっさと引退して所帯でも持ってくれ。そうすれば神殿にとって厄介な敵が減るというものだ」

「所帯はともかく引退は考えておこう」

「おい、取引と言うのはちゃんと履行してこそ……」


 ベリアはシャヘルの抗議を背で受け流して神殿を後にする。その途中、クルケアンに包まれた大神殿を睨み上げ、獣を生み出す子宮を想像して心中で呟いた。そうだ、取引は履行してこそだ。シャヘルが変わってしまうのであれば取引も意味をなさない。次に会う時、彼は獣になっているのだろうか。それとも自分のように強い魂で自我を残しているのだろうか……。


 一方、シャヘルは謁見の間に続く長い廊下を歩きながら、ベリアに対する恩をどう回収しようかと考えていた。誰か良い女性を紹介すれば所帯を持ってくれるのだろうか。だが彼の周りには妙齢の女性はおらず、知り合いと言えばあのサラ導師ぐらいである。老婆を紹介すれば怒るだろうか。そういえばサラ導師は昔、兵学校のラメド校長と噂になったことがあったな、と誰の益にもならないことをぶつぶつと呟いている。

 だが彼は自分が逃避をしているのだと知っている。顔をあげれば荘厳な謁見の間の扉があり、自分はそこに近づきたくないのだ。だが恐怖が体を動かすように命じると逆らうこともできず、とうとう扉の前に立ってしまう。

 低い悲鳴のような音を立てて扉が開く。シャヘルは教皇の足元だけを見て歩み寄り、跪いて主人の言葉を待ち続けた。トゥグラトは玉座のような物々しい椅子に腰かけ、暫しシャヘルを一瞥する。その視線には愉悦の感情が含まれていたが、首を垂れるシャヘルには分かるはずもなかった。


「シャヘルよ、神殿長として日ごろの神殿に対する貢献、心強く思うぞ」

「猊下のおかげをもちまして」

「奥の院を覗いたな。どうだ、知りたいことがあるだろう」

「す、全てを。それ以外にありませぬ」


 トゥグラトはシャヘルに顔を上げるように命じる。真実を伝えてもいいが、表情が見えないのであれば興がそがれるというものだ。さて神殿長は怒るのだろうか、それとも恐れるのだろうか、いや、手を擦り阿ってくるのか……。いずれにせよ、ヒトの滑稽さを見せてくれるに違いない。来るべき戦いが始まるまでの無聊は道化の姿を見てこそ耐えられるというものだ。


「よかろう、今日呼び寄せたのもそのためだ。祝福、歴史、魔獣……全ての真実を貴様に教えてやろう。だがまだ資格がたりぬ」

「資格とは何でございましょう」

「案ずるな、次に目が覚めた時には既にその資格を持っておる」


 シャヘルは大量の汗を掻いていた。真実が神の身許へ至る道であるならば歓迎したいが、教皇の思わせぶりな態度に体と魂が警告を発しているのだ。ベリアが言っていた、真実を知れば変わってしまうという意味は、生き方だけなのだろうか。教皇の物言いは人としての在り方そのものを変えられてしまうような気がするのだ。

 震える声を隠せないままシャヘルは一つだけ訴える。自分が変わってしまう前に、これだけは聞きたかった、知りたかった問いを口に出したのだ。


「猊下……神は、神は私たちを愛しているのでしょうか」


 トゥグラトは皺だらけの顔を崩し、満面の笑みで答えた。


「もちろんだとも。我は家畜であるヒトを愛しているぞ」

「な、何と?」


 トゥグラトがゆっくりと権能杖を振るい、シャヘルに向けて魔力の一撃を与えた。体が痺れ、声の自由も失われる中、彼は教皇が控室にいる警備の兵を呼びつけていることを知る。

 扉が開き、アサグとサリーヌがアヌーシャ隊を率いて現れ、倒れている神殿長に駆け寄った。


「シャヘル神殿長? 猊下、いったい何があったので?」

「神殿長は先に謀反した大神官と繋がっておった。その企てが失敗して追い詰められた奴は我を暗殺しようとしたのだ」

「そ、そのようなことを……」

「詳細は取り調べた後だ。縛り上げて牢屋に放り込んで置け」

「……分かりました」


 シャヘルはかすれた目で自分を捕縛しようとする女の神官兵の顔を見る。


「あ、ああああ!」


 声に出しては獣のような叫びをあげ、精神の中では魂が嘆きの声をあげる。シャヘルは神官兵に、十年前の守るべき人であった面影をそこに見出していた。まさか、と彼は自分の考えを否定するが、必死に首を動かして教皇を見やると、彼はシャヘルに対して笑顔で頷いたのだ。


「なぜ、なぜだ、君は亡くなったはずだ。だから、私は神を……!」


 痺れる体で暴れ抵抗するシャヘルに、サリーヌは仕方なく当身をして気絶させる。そして大神官とは違い正当な裁判をと教皇に願い、アヌーシャ隊に命じて牢屋に運んでいった。残ったアサグは教皇に一礼し、視線を向けて指示を求める。


「ベリアとは違い、この者の魂は弱い。このままだと喰らい合いに負けて人格もなくなってしまう。神の二つの盃イル=クシールを処方し、魂を補強しておけ。まだまだ苦しむ奴の姿を見たいのでな」


 兄の意図を理解したアサグは一礼し、闇に消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る