第38話 家族の音
〈バルアダン、青い光に包まれたエルシャを前にして〉
それをいったい何と表現したらよいのだろう。
この百層は青空に、いや、青一色となった。大廊下の魔獣石でできている床の乳白色が、いっそう青を引き立てている。遥か下には美しい草原が広がり、話に聞く楽園のようだ。そして、エルの青い目と同じ光がこの世界の全てを優しく包み込んでくれる。エルの後ろの子供達もこの世界に気づいているのだろうか。
魔獣が一歩、二歩と歩き出し、悲しいうなり声を出しながら三歩目でエルの足元へ倒れこむ。
「エル、エル! しっかりしろ、自分を取り戻せ!」
「王よ、エルシャは大丈夫です。天から距離を取り、少し休ませれば元に戻るでしょう」
エルは無機質な、それでいて悲しそうな笑顔を見せた。別人のような口調と、何より王という言葉に違和感を覚え、戦場とは違う恐怖を感じた。
「私はエルシャの兄、バルアダン。ザイン家のバルアダンだ! ……君はいったい誰なんだ」
「全ての記憶はこの魂の器の中に。その器の身でこうお伝えするのをお許しください。エルシャとセト、そして王妃をよろしくお願いします。きっとわたしの魂もそう思っているでしょうから――」
そしてエルは魔獣に向かってその手を伸ばす。驚いたことに、魔獣は知性ある生き物のように彼女に近寄り、そしてその頭を摺り寄せる。エルシャの手が光り、その首筋にあてた。魔獣が目を瞑り、彼女の行動に身を委ねているように見えた。
「……ここは月に近いから、きっと少し思い出したのね。さぁ、他の子と同じように北方へ戻りなさい。王妃の愛ある限り、ハドルメの民は何度でも復活するのだから。魂の軋みに耐え、復活を信じて待つのです」
魔獣の首から血が吹き出し青い空を赤く染めていく。エルは苦悶する魔獣に寄り添い続け、子をあやすように歌を口ずさんでいた。
愛しい我が子よ
カルブ河のように穏やかに
眠気をもよおした小鹿のようにその瞼を閉じていて
愛しい我が子よ
草原の風のように穏やかに
丘の上でまどろむ小竜のようにその翼を休めていて
愛しい我が子よ
夢魔があなたを襲わぬように
今は私の声だけを聴いていておくれ
「痛い思いをさせてごめんね――」
瞬間、世界が暗転した。もとの百層に戻ったのだ。
さっきのは何だ。セトだけでなくエルも祝福以上の何かがあるのか、私の家族はいったいどうしたんだ……。
「バル兄、エルが気を失っているよ!」
セトの心配げな声を受けて我に返る。エルを抱き寄せ、その命に別状がないと分かるとやっと冷静さが戻ってきた。魔獣の死骸と、無事な子供達の姿を確認し安堵の息をつく。そして大塔からイグアル導師らが手を振っているのを見て、座り込んでいる子供達を立ち上がらせた。
「さぁ、みんな今日は帰ろう。ゆっくり休んで、全てはそれからだ」
私はダレトに肩を貸しながら、皆を連れて三十三層まで戻ってきた。
ここはセトの学び舎であり、ダレトとレビの部屋、そしてセトの私室がある。まずダレトが崩れるように寝台に倒れた。レビは彼女の部屋でエルの看護をしている。私はなぜか学び舎を見知っているガドに食堂を案内され、セトを毛布にくるみ長椅子に横たわらせる。私達も仮の寝床を作り、疲れもあってすぐに横になる。
「ここは、父さんと母さんの仕事場だったんです。弟子もたくさんいて、遊びに行くとタファト叔母さんがお菓子を焼いていたり、お客さんもいっぱいたり賑やかだった……」
「幸せな時間だったんだね」
「ええ、幸せな時間でした。だからこそ、思い出したくないからここに来たくはなかった。でも今は違うんです。仲間と共にここにいることが嬉しいというか、もう一回やり直せるんじゃないかって――」
言い終える前にガドは眠りに落ちていた。彼の寝息を聞きながら、私も目を瞑る。ガドの幸せの家、そして新しい仲間達との楽しい時間を想像していると、意識が温かい闇にゆっくりと落ちていった。
……鳥の声が聞こえる。
近くで物を運ぶ音や、何かを煮込む音も聞こえたような気がした。昔、よくセトとエルが朝食の当番の時に、まるで家を建てるような音と叫び声を出していたことを思い出す。あの時は結局、料理を運ぶ途中でひっくり返し、大騒ぎになったのだ。結局、ユディ母さんがセトらを慰めながら作り直したのだ。この音はそんな、家族の風景に似ている。
そう、これは母さんの音だ。
どんな朝でも台所で響かせる母さんの音が素敵な一日を予感させてくれた――。
「バル、いい加減起きてください」
幸せな夢を見ていたら、ダレトに頭を軽く蹴られて目を覚ます。
「……ダレト、怪我はいいのか?」
「あと数日は無理ですね。気が進まないけれどサラ導師に治療を頼むか、我慢するかの悩みどころです」
「治療できるのならそれでいいじゃないか」
「あの方に貸しを作るのは後でひどいことになります。君も覚えていた方がいい。……それより周りを見てごらんなさい、君以外はみんな起きていますよ」
周囲を見ると、すっかり元気になったセトとエル、何かにやついているレビとトゥイ。それを咎めるようなガドとエラム。そして、料理を運んできたタファト導師とイグアル導師がそこにいた。タファト導師が皆を席に着かせ、昨日の苦労を労わるように宣言する。
「みんな疲れているようだから、午前は休みにします。その代わり、料理を作ったからみんな全部食べきって体力を回復させること、いいですね」
美味しい匂いに鼻を動かしながら、子供達全員が歓声を上げる。昨日の衝撃や緊張が嘘のようだ。みんなが争うように料理を口に運んでいく。セトがのどを詰まらせ、エルがその背中をたたき、エラムは淡々と食べ、トゥイはレビの好き嫌いを注意する。そのレビは野菜をダレトの皿にこっそりと移し、ダレトは何も知らずに食べている。イグアル導師はタファト導師に新作のパンを薦められて、みんなから冷やかしを受けていた。
何も変わらない日常に、誰も昨日のことを覚えていないのかと不審に思う。エルのことはともかく、セトの力のことや神殿に監視されていたことは聞いていたはずだ。敢えて不審というのなら、子供達が私の顔をちらちらと見ていることだが……。
「バル様、早くたべなよ。冷めちゃうよ」
「あ、あぁ、食べるとも。でも先ほどから私を見て笑っているようだが……」
「バル、情けをかけて淑女からではなく、僕から真実を告げましょう。君は起きる寸前、みんながいるにも関わらず、お母さん、お母さん、と寝言を言ったのですよ。成人を迎えたばかりとはいえ、情けないというか、まだ甘えん坊というか……」
顔を赤らめた私に、セトとエルが慰めの言葉をかけてくれる。
「いいのよ、バル兄。ユディさん、とても綺麗だもんね」
「そうだよ、ハンナ母さんやツェルアさんと違って静かで優しい、いいお母さんだよ!」
「セト、後でお母さん達にいうからね。セトが、声が大きくて怖い、って言ってたって」
「……エルって実は人じゃなく、おとぎ話の魔人なのかも。ほら、魔人て口がうまくて人を貶めるって言うじゃない」
「ほう、セトは私が魔人だと?」
「……いいえ、女神様です」
「よろしい」
セトとエルのいつもの会話で調子を取り戻した私は、ヤギの乳と塩コショウ、豆と芋の素朴なスープを口に運ぶ。騎士団の食事ではなく家庭の料理を味わうことで、みんなが無事にいるということを改めて実感し、大きく息をついたのだった。ならば次に心配するのは今後のことだ。
「みんな、昨日のことだけど――」
「却下!」
「却下!」
「却下!」
全員に言葉をさえぎられて、あっけにとられていると、レビが代表して答えてくれた。
「バル様、みんなと話したんだ。あたいもさ、話したくないこともあるし、他の人だってそうさ。秘密だってある。でも、それはどうでもいい、ってことになったんだ」
「どうでもいい?」
「うん、だって、大事なのは仲間と、自分の夢だから。星を見ながらみんなで夢を語り合ったんだ。そしてその夢がかなうように、みんなで応援しようってね。だったら、秘密の一つや二つどうってことないよ。必要な時が来たら話してくればいいだけのことさ」
レビは私だけでなく、ダレトにも視線を向けて話した。イグアル導師が拍手をし、年長者として話を締めようとする。
「レビ嬢ちゃんはいいことを言うね。そう、君達は若い。必要な時に必要な年齢がくるはずだから、焦る必要はないんだよ」
子供扱いされたレビはイグアルさんに反撃をする。
「そう、でも時を逸したらダメだってことも知ってるよ。例えば、恋心が誰にでも見て明らかなのにさ、想いを伝えずに歳だけとった男とかはねぇ」
子供達はイグアル導師とタファト導師を交互に見てからかっている。大人の威厳はどこへやら、イグアル導師は食器を鳴らして抗議した。
「……誰のことを言っているか知らないけどね、その男の人には事情があるんだろう」
「あら、イグアル。私はその男の方よりも子供達に同意するわ。みんなにはそういう大人にならないように、きちんと教え育てていくつもりよ」
「……」
子供達の目がからかいから同情に変わり、気を遣って別の話題を持ち出し始めた。何にせよ、子供たちのおかげで吹っ切れた。私は私の成せることをしよう。セトの赤光、エルの青光、そして神殿の動きを調べることだ。
「失礼、ダレト神官はおいででしょうか。教皇猊下がお呼びです」
玄関の方から冷たい声が響き、全員がそちらに目を向けると、神官兵のサリーヌがそこに立っていた。ダレトが席を立ち、私とすれ違う寸前に耳元でつぶやく。
「バル、少し騒ぎを起こす。状況を見て神殿をかき回してやりましょう」
サリーヌはセトを一瞥した後、準備に時間がかかっているダレトに小言を言い続けている。ダレトは教皇に会うという事で、さすがに髪を整えようとしているのだが、くせ毛が言うことを聞かないらしい。見かねたレビが手伝っていると、サリーヌは呆れたようにダレトを批判する。
「はみ出し者とはいえ、一応はアサグ機関に属する者が身だしなみすらできないとは。なんと情けない神官でしょう」
「余計なお世話です。……レビももういいから」
「ダレトは世話を掛けられていいんだよ? ここにいる大人の男と同じで子供っぽいんだから、気にせず甘えてなよ」
「それはこの神官をダメにするだけでは? 井戸に放り込んでさっさと寝癖を直し、ついでに反省させればいいのです」
ダレトが眉をしかめるが、それでも黙ってレビが髪に香油をつけていくのを受け入れているのは、これ以上の面倒を増やさないためだろう。味方は同じく子供扱いされた私とイグアル導師しかおらず、女性陣のほとんどが大人の男性に厳しい状況では反論しても負けるだけだ。……いや、トゥイだけがまだ何も言っていない。それに気づいたダレトがトゥイに視線を送る。
「何か、ダメなお兄さんを叱ったり、甘やかせたりする妹達みたい」
男達の最後の希望であるトゥイ女史は、厳しい言葉でそうのたまったのだった。
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