第431話 獅子


 ここまで我々のことを案内してくれた守備隊は、広場に残ることになった。宮殿に入ることができるのは、どうやら我々だけのようだ。開いていく門の先にちらりと視線を向ける。そこは広大な中庭になっていた。床材には白いタイルが使われ、そのタイルには金色の複雑な文様が刻まれている。立ち込める霧の間から光の筋が差し込むと、床の文様は淡い輝きを放つ。


『行きますよ』ニヤはそう言うと、中庭に向かって歩きだす。

 中庭の周囲には、目に見える範囲のことだけしか分からなかったが、そこには回廊があり、戦士の姿を象った彫像が数え切れないほど並んでいた。弓を構えた豹人の像や、槍を手に吼えている豹人の像などが見えた。それらの像はひとつとして同じものがなかった。


 前方に視線を向けるが深い霧が立ち込めていて先の様子はハッキリと分からない。しかしその中庭が不自然に広いことは分かった。門を越えて少し歩いたところで立ち止まった我々と違い、今もその空間は広がり続けている。そんな錯覚がする程に、中庭は異質な空間になっていた。恐らく、そこには豹人たちの都市よりもずっと広大な空間が広がっているのだろう。


 それからもうひとつ気がついたことがある。霧の向こうから時折、ぼんやりと白く発光するローブを身につけた者たちが現れ、そして彫像の前で跪きながら祈っている姿を見かけることがあった。服装や装飾はニヤが身につけているものに似ていたので、彼女が所属する組織に関係のある者たちなのだろう。


 そのニヤが跪き顔を伏せると、ラロも彼女に倣ってその場に跪いた。状況をすぐに理解できなかったが、我々も同じように膝をついた。それを見ていた白蜘蛛はじっと何かを考えて、それから身体を地面すれすれまで低くした。マシロだけは相変わらず猫のララを抱いたまま、ハクの背にぼうっとしながら座っていた。


 すると霧の向こうから巨大な生物が姿を見せた。獅子としか的確に表現することのできない大型生物は、のっそりとこちらに向かってくる。体毛は真っ白だったが、光を浴びると金色に煌めいていた。


 三十メートルほどの体長があり、頭部には鹿を思わせる巨大な枝角があり、煌めく立派なたてがみを持っていた。瞳は熟練の職人によって研磨された宝石のように、角度によって美しさが損なわれることが無く、常に目を奪われるような輝きを放っていた。


 その巨大な獅子は我々の数十メートル先で止まると、ゆったりとした動作で前足を突き出しながら座った。まるでエジプトのスフィンクスだ。などと間抜けなことを考えていると、獅子は前足に顎をのせて、我々の姿を観察するようにこちらに眼を向けた。その姿は人間を見つめる可愛らしい猫にも見えた。


『族長』とニヤが顔を上げて言う。『深淵の使い手をお連れしました』

 族長と呼ばれた大型生物は頭部を持ち上げ、口笛を吹くよう口から霧を吐き出した。その奇妙な霧は我々のすぐ手前で止まり、人型を形成していった。霧からは甘酸っぱさのない、純粋な果実の甘い香りが漂ってきていた。


 しばらくすると霧の中から白い毛皮を持った異様な豹人が現れる。女性のように小柄で輝く瞳を持ち、男性のように立派なたてがみが生えていた。何も身につけていなかった豹人の胸部から下半身にかけての体毛は薄く、その所為で男性と女性の身体的特徴も持ち合わせていることが分かった。


 不思議だったのは、豹人の身体から常に金色の淡い光が放射状に放たれていたことだった。それは豹人の動きに追従するように絶えず発光していた。


 枝角を持った豹人はひたひたと歩いて我々に近づいてくる。表情からは何を考えているのかは見当もつかなかった。しかしそれと同時に豹人からは敵意も全く感じられなかった。


 白蜘蛛にちらりと視線を向けるが、ハクは大人しくしていて警戒している様子は見られない。あの豹人からは危険な気配を感じていないのだろう。先ほどまでぼうっとしていたマシロも、不思議な豹人に魅了されているのか、豹人の動きを複眼で追っていた。


『カグヤ、あれが見えるか?』と、私は声に出さずに訊いた。

『あの大きなライオンのこと? それともフワフワと動いている霧のこと?』

『その霧の中から現れた不思議な豹人のことだ』

『豹人? そんなものは何処にも見えないよ?』


 ドローンから受信する映像を確認したが、確かに不定形な霧が頼りなく浮かんでいるだけだった。

『どういうことだ?』

『よく分からないけど、ドローンのカメラアイには奇妙な動きをする霧しか映らないよ?』

『……カメラでは捉えられないような、超自然的な存在なのか?』


 輝く豹人はニヤの前で立ち止まると、彼女の頭にそっと手をのせた。するとニヤは猫のようにゴロゴロと喉を鳴らして顔を伏せる。それから輝く豹人は私に煌めく瞳を向ける。


『我の招待に応じてくれて感謝しています。汝が深淵の使い手ですね』

 輝く豹人の口は動かなかった。しかしそれでも声が直接頭のなかで響いた。それは男性の声と女性の声が絶妙なバランスで重なった不思議な声だった。不快感はない、むしろ母性的な優しさ、そして安心感に包まれるような声だった。


「はい」と私は答えた。「理由は分かりませんが、深淵の使い手と呼ばれています」輝く豹人は私の返事に満足したのか、大きく頷いてみせた。

『我は古き友との再会を心から歓迎する』


 それから輝く豹人は私のとなりで跪いていたラロに声をかけた。

『偉大な戦士ジグの息子、ラロ・グェシ・イアーラ。よくぞ我のもとに深淵の使い手を連れてきてくれました。イアーラ様は汝の働きを忘れないだろう』

 ラロが黙ったまま頷くと、輝く豹人はハクの側まで歩いて行く。


『お母さまはお変わりありませんか?』

 ハクは低くしていた身体をもとに戻すとじっと豹人を見つめる。それから可愛らしい声で言った。

『げんきだよ』

『そうですか。それはとても良いことですね』

『うん。いいこと』


 輝く豹人はハクの言葉に頷きで答えると、いつの間にか出現していた巨大な椅子に座を占める。それは玉座と呼んでも差し支えないもので、大理石調の石材に獅子の頭が刻まれ、金で装飾されていた。身体に合わせたように作られた豪華なクッションにも色彩豊かな刺繍が施されているのが確認できた。


『レイ』と、カグヤの声が聞こえる。『そこに何がいるのか私からは確認できないけど、贈り物を渡すなら、今がそのタイミングだと思う』

『すっかり忘れていたよ。ありがとう、カグヤ』

 声に出さずに感謝したあと、贈り物を渡すために立ち上がってもいいかラロに訊ねた。彼が頷いたのを確認すると、私はペパーミントから預かっていたショルダーバッグから絹のような光沢を帯びた生地を取り出す。


 それは聖域の地下トンネルで回収した加工台を使って、ハクの糸で織られたものだった。神話に登場するような神々しい姿をした輝く豹人に贈るには、いささか貧しい贈り物に思えたが、時間が無かった我々に用意できる精一杯の贈り物でもあった。


 私が両手に持った布を差し出すと、輝く豹人は玉座からすっと立ち上がり、丁寧な手つきで布を受け取ってくれた。

『姫の糸で織った希少な布ですね』と声が聞こえた。『美しく、それでいて素晴らしい手触りです。古き友よ、そして小さき人々よ。汝らにイアーラ様の祝福があらんことを』


 輝く豹人の言葉のあと生地は強い光を放ち、気がつくとそれは豹人の身体に合わせてあつらえたような、ゆったりとした袖を持つ衣類に変化した。輝く豹人はそれを羽織ると我々にも椅子に座るように促した。


 振り向くといつの間にか椅子が用意されていた。我々は椅子に座り、ハクは色とりどりのクッションに身体を沈める。ニヤとラロのための椅子も用意されていたが、二人は我々から一歩下がるようにして立っていて座ろうとしなかった。


『私に似合っていますか?』と、輝く豹人は身につけた衣類の袖に触れる。

「とても似合っています」

 ミスズがそう言うと、輝く豹人は笑みを見せるように目を細めた。


『頼りない煙のように、今にも消えてしまいそうな気配ですが、そこにもうひとり不死の子供がいますね。深淵の使い手よ、その者は歓迎すべき友人でしょうか? それともこの場に相応しくない人物なのでしょうか?』

『不死の子供?』とカグヤが反応する。『もしかして私の存在を認識しているのかな?』

 正確な答えを持っていなかったが、この場に不死の子供は私以外にカグヤしかいないはずだった。


「そうです」と、私は輝く豹人の瞳を見ながら答えた。「彼女は我々にとってとても大切な存在です」

『分かりました。ではその者も歓迎しましょう』

 すると視界の隅に表示されていたドローンから受信する映像に、輝く豹人の姿がハッキリと映るようになった。


『古き友にして、深淵の使い手よ。心苦しいことだが、我は汝に助力を求めている』

 輝く豹人がそう言葉にすると、周囲の霧が深くなっていくように感じられた。

「どのような支援が必要なのでしょうか?」


『我はイアーラ様に仕える偉大な戦士たちと、混沌の領域を監視する見守る者たちによって支えられているが、彼らの力を以ってしても排除することの出来ない脅威に晒されている』


「脅威ですか? それは混沌の勢力に関係するものなのでしょうか?」

『そうです。深い闇が輝く世界を覆い尽くそうとしている。我は深淵の使い手であるレイラと、深淵の姫であるハクの能力を必要としています』

「世界を覆う……ですか、深刻な脅威が迫っているのですね?」

『イアーラの民の滅亡に関わる問題です』


 私は輝く豹人の瞳を見つめたまま思案する。神にも等しい存在が助力を乞うことなのだから、相当に危険な事態、あるいは化け物を相手することになるのかもしれない。そうなった場合、ミスズやナミの命を危険に晒してしまう。

 イアーラの民を救いたい気持ちはあるが、今までのように個人的な感情に流され、身内の命を天秤に掛けてまでやるべきことなのだろうか?


『心配をする必要はありません』と、輝く豹人は優しい声で私に語りかけた。『汝の家族は我の命にかえても守ってみせます。我が望むのは、闇を払う決定的な力だけです』

「力……それはどのようなものなのでしょうか?」


『汝らの血と魂に流れる力です。それは細い枝の先で揺れる影のように不確かなものですが、確かにそこに存在しているものでもあります』

「……私個人としては、イアーラ族の力になりたいと考えています。しかしひとりで決められる問題ではありません。仲間と相談する時間を頂けますか?」

『もちろん。そしてそれがどのような答えだとしても、我らの友情に影響を与えることは無いでしょう』


 深い霧がゆっくりと晴れていくと、何処からか日の光が差し込み、輝く豹人の白い体毛を金色に煌めかせた。

『そして我は友の助力に感謝し、警告と提案、そしてイアーラ様から授かった形ある感謝を贈ろうと考えています』


「感謝ですか?」と私は頭を捻る。「しかし我々はまだ何もしていません」

『これはイアーラ様からの厚意でもあります。だから我々が引き換えに何かを要求することは絶対にありません』

「けれど――」

『我が友よ、我らイアーラの民は嘘を嫌う。それは我らが嘘を知らない民族であるが故でもある。信じてくれ』

「……分かりました」


 輝く豹人が青く澄んだ空に眼を向けると、巨大な獅子ものっそりと顔を上げて空を睨んだ。それから獅子は腕に顎をのせて、深い息を吐き出した。

『警告とは汝の世界に迷い込んだ『姿なきものたち』についてのことです。あれは少々厄介な生き物です。彼らは分裂するように増えていく傾向があります。どのような場面で汝があれと接触することになるのかは、我にも分からぬことだが、くれぐれも用心を怠らないようにしてください』


「分裂ですか……あの化け物は増えるのですか?」

『どれほどの時間を必要とするのかは分かりませんが、あれは確かに増殖します』

「だから複数を意味する姿なきものたちなのか……」

『警告はそれだけなのかな?』とカグヤが疑問を口にする。

 私が代わりに訊ねると、輝く豹人はそれだけだと答えてくれた。それを聞いて安心した。これ以上の厄介事は必要なかった。


『提案について話をしても大丈夫ですか?』と輝く豹人は言う。

 すると中庭を囲む回廊から、またしても濃い霧が足元に忍び寄るように近づいてくるのが確認できた。

「問題ありません。話を続けてください」と私は言った。

『イアーラ様は汝らが築いた砦について興味があります。我らイアーラの民にも、混沌の領域を監視している部隊に参加するための許可を与えてはくれないだろうか』

「境界の守り人に……でしょうか?」


『そうです。大樹の森には、我が同胞が多く暮らしています。部隊に参加することは、我らのためにもなるのです』

「もちろん歓迎します。しかしイアーラの民が人間と共に行動することになります。それに関して問題はありませんか?」

『問題など何もありません』


 霧が空を覆ってしまうと、輝く豹人は哀しそうに息をついた。

『さて、まだ話したいことは沢山ありますが、残念ながら時間がありません。しかしその機会がやってくることを我は知っている。ニヤ、あとのことは任せましたよ』

 輝く豹人がそう口にすると、濃霧が豹人の姿を覆い隠していった。


 その濃い霧が何処からか吹き込んだ風に流されるように消えると、そこに玉座に座る豹人の姿は無かった。巨大な獅子に視線を向けると、獅子はのっそりと起き上がり、瞼を閉じ額が見えるように顔を伏せた。


『古き友よ。また会えるときを楽しみにしています』

 何処からともなく優しい声が聞こえると、獅子は顔を上げ、深い霧の中に消えていった。

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