第357話 多元宇宙 re


 研究室を出ると、ペパーミントを護衛してくれていたヌゥモ・ヴェイと合流して、一緒に〈サーバルーム〉に向かう。


「〈ブレイン〉たちとの研究は、問題なく行えたか?」と彼女にたずねる。

 煤色のニットセーターに黒色のカーゴパンツというラフな服装のペパーミントは、肩に提げていたショルダーバッグの位置が気になるのか、何度かストラップをかけ直していた。


「〈ブレイン〉たちは大人しかったよ」と彼女は私に青い瞳を向ける。

「と言うより、必要なとき以外、私に対して関心を示さなかった」


『必要な時って、たとえばどんな時だったの?』

 カグヤの声が内耳に聞こえると、ペパーミントは腕を組んで考える。


「たとえば、例の遺物を解析するのに必要な装置の使用許可がほしいとき、とか」

『そう言えば、〈ブレイン〉たちが装置にアクセスできないように制限をかけたんだったね』


「かつてこの施設で働いていた研究員からも〈ブレイン〉は信用されていなかった。だから彼らと共同で研究を行うさいには、厳しいガイドラインが設けられていた。それは施設のシステムでも厳重に管理されていた」


『研究に必要な設備を悪用されないための措置が取られていたんだね』

 ペパーミントはうなずくと、ひとつにまとめていた黒髪をほどいて、もう一度丁寧に髪留めを使って黒髪をまとめた。


「基本的に〈ブレイン〉が装置を使用するときには、システムの監視のもとで作業をすることになっていた。そこで〈ブレイン〉が研究員や施設に対して危害を加えた場合――たとえば、本来の作業工程から逸脱した行為を取った場合でも、装置との接続はすぐに断たれるようになっていた」


 ペパーミントの言葉に思わず首をかしげた。

「それを判断するのはシステムなのか?」


「装置を使って行われる操作が研究のためなのか、それとも悪意のもとで行われる操作なのかを判断するのは、科学的実験等の根拠に基づく多くの経験がある研究員と、過去の膨大なデータを参照して、実験の結果をシミュレートしてきたシステムの双方がなければ実現できないことだった」


『でも、その研究員はいなくなってしまった』

 カグヤの言葉にペパーミントはうなずく。


「そうね。研究員たちがいなくなってしまうと、〈ブレイン〉は持て余していた時間を使って、施設の管理システムに存在する穴を見つけだした。そしてシステムをあざむいて、管理システムを支配下においた。それがどれほどの期間を要して行われたことなのかは分からない。でも〈ブレイン〉たちにとっては、それほど難しい問題じゃなかったと思う」


『その管理システムは、今では私たちの支配下にあるけどね』とカグヤが得意げに言う。

「そうね。だからこそ私も安全に作業することできた。もちろん、ブレイン相手に隙を見せるつもりはないけれど」


 ペパーミントは〈サーバルーム〉の出入り口に設置されていた〈シールド生成装置〉の状態を確認したあと、シールドの薄膜を通って室内に入る。

「我々はこの場で待機します」とヌゥモが言う。


「わかった。〈ブレイン〉から研究結果の報告を受けたら、すぐに施設を出られると思う。だから施設内の警備をしている戦士たちを集めて、先に施設の外に退避させておいてくれるか?」


「わかりました。私はこの場に残るので、必要があれば名を呼んでください」


「ありがとう」そう言ってから、ふと思いついたことを訊ねた。

「なぁ、ヌゥモ。異界にいた頃には、あの〈ブレイン〉に似た生き物を見たことはあるか?」


「いえ、あのように醜い姿をした生物は数種類いましたが、いずれも人間の頭部ほどの大きさしかなく、あてもなく空中に漂っている脅威のない生物でした」


「そうか……」思わず困惑する。

「小さいのは存在するのか……」


「しかしいずれの個体も人の言葉は理解できません。古戦場にふらりと姿をあらわして、死者の亡骸に寄生するような、そんな生物でした」


「やっぱり〈ブレイン〉たちは、他にない特別な存在なのかもしれないな……」

 ヌゥモと話をしたあと、ペパーミントのあとに続いて〈サーバルーム〉に入る。


『相変わらず、すごい場所だね』

「そうだな」カグヤの言葉にうなずいたあと、〈サーバルーム〉を見回す。


 シールドの薄膜の向こうは、空間――あるいは次元のゆがみを利用して拡張された広大な場所になっていた。そこでは墓石にも似た黒い長方形の装置が数え切れないほど設置されていて、床は素通しのガラス張りになっていた。その強化ガラスの向こうにも、この部屋と同じような構造の部屋が幾重にも重なって存在している。


 そこには、この空間と同様の景色が広がっている。墓石めいた装置が数え切れないほど設置されていて、それらの装置のそばでは何かの作業を行う大量の機械人形の姿が見えた。 そして立ち並ぶ装置の先に、ブレインたちのための巨大な水槽が設置されている。


『これは珍しい』老婆のしゃがれ声が聞こえる。

『今日は〈不死の子供〉も来ているんだね』


『本当だ』と、幼い男の子の声が何処からか聞こえる。

『レイラも僕たちに会いに来てくれたんだね』


『いいや、違うね。彼は研究に関しての話を聞きに来ただけさ』と青年の声が聞こえる。

『でも、私たちに会いに来たのは事実でしょ?』若い女性が言う。


『ねぇ、レイラ』男の子が言う。

『こっちに来てよ』


『そうよ、姿が見えないじゃない』と女性の声が続いた。


『そんなもの、〈データベース〉のライブラリに保存された彼の顔情報を見れば充分だろう』と、青年の嫌味が聞こえる。


 何処からか聞こえてくる〈ブレイン〉たちの声を無視して水槽に近づく。すると水槽内のあちこちに、脳に限りなく似た姿をした〈ブレイン〉たちがクラゲのようにプカリと浮かんでいるのが見えた。その奇妙な生物の体長はさまざまで、人間の子どもほどの体長がある個体や二メートルを優に超える個体も存在する。


 その生物は脊髄神経のように脳から伸びた複数の触手を持っていて、その触手を合わせれば、さらに大きな生物になる。人間の脳のように皺のある体表は珊瑚色で、青や紫色の毛細状の管が菌糸類のように絡みついていて、身体の一部を青藍色に発光させていた。


 水槽の周囲に視線を向けると、以前は強化ガラスだと思い込んでいた水槽の表面に向かって、いくつもの太いケーブルが伸びているのが見えた。それらは水槽のそばに設置された機材に接続されていて、その装置の画面を眺めているペパーミントの姿が確認できた。


 数台の装置はそれぞれが異なる役割を持っているように見えた。装置の区別はできなかったが、略奪者たちの鳥籠で入手した〈チップセット〉を必要としていた装置は、そこに置かれているいずれかの装置なのだろう。


 水槽に向かって伸びるケーブルは、水面に沈み込む枝のように、水槽の表面を傷つける事なく〈ブレイン〉たちが漂う水槽のなかに入り込んでいた。


 黒や黄色のケーブル束は、水槽内を漂っている一体の〈ブレイン〉の皺の間に食い込むように、無理やり接続されていた。その〈ブレイン〉は二メートルほどの体長を持ち、長い触手は他のブレインの触手と絡みつくようにつながっていた。


 そしてケーブルに接続された個体を中心にして、無数の〈ブレイン〉が互いの触手で繋がっていて、それはまるで脳の神経細胞が形作る集合体を見ているようでもあった。〈ブレイン〉たちが創り出すニューロンを眺めていると、他の〈ブレイン〉と繋がっていない小さな個体がこちらに向かって泳いでくるのが見えた。


『レイラだ!』

 幼い男の子の声が聞こえると、水槽の奥からわらわらと〈ブレイン〉が集まってくる。

「久しぶり」と、小さな〈ブレイン〉に向かって言う。


『久しぶりかな?』

 男の子が言うと、続けて若い女性の声が聞こえた。

『人間の時間感覚だと、久しぶりなのかもしれないわ』


『いいや』と青年の声が反論する。

『数か月ならまだしも、数日は久しぶりだとは言わないね』


『そうかしら。数日ぶりでも、話の切り出しとしては適切じゃないかしら』

『いいや。君は何も分かっていない。人間は会話に困ったら、天気の話をするものなんだよ』


『そんなのつまらないわ。それに、人間は視界に表示されているインターフェースで天気予報や、その日の気温や湿度を確認できる。それなのに、わざわざ天気の話なんてするかしら?』


『君も言ったじゃないか。僕は話の切り出し方について話しているんだ。久しぶりでもない相手に『やぁ、久しぶり』なんて言うのは滑稽だ。それなら天気の話をしたほうがいいって言っているんだ』


『それはナンセンスよ』

『ハクは元気?』と、男女の言い争いの間から男の子の声が聞こえてくる。

「元気だよ。でも今日は来てないんだ」


『そんなことより――』老婆のしゃがれ声が聞こえる。

『研究についての報告はかなくてもいいのかい?』


 彼女の言葉に肩をすくめたあと、質問をした。

「遺物について何が分かったのか教えてくれ」


『それなら僕に任せてくれ』青年の声が聞こえる。

『その前に、君が〈空間転移〉について何を知っているのか、僕に教えてくれないか?』


「〈空間転移〉?」と首を傾げて、それからペパーミントを見つめる。

 彼女は何も言わず、ただ頭を横に振った。


『空間転移、テレポーテーション、ワープ。言い方は色々あるけど、つまりさ、瞬時に空間を移動する術について話しているんだ』と青年は早口で言う。


「残念だけど、何も分からない」と正直に言う。

『なら人類が使用していた空間転移技術に関しても、君は何も知らないんだね』


「ああ。そんなものが存在していたことすら知らなかった」

『それなら、僕がとても簡単に説明してあげる』


「よろしく頼むよ」

 私はそう言うと、近くに置かれていた金属製のコンテナボックスに腰掛けた。


『その空間転移技術は、別の場所に君とまったく同じ元素を――いや、これは気にしないでくれ。とにかく、まったく同じ人間を別の場所に再出力して、そこに精神を転移するような古い技術のことじゃないんだ。この新しい技術は、空間転移のさいに余る肉体をすり潰して肥料にするような面倒なことはしない』と青年は早口で言う。


『いや、そうだな……その技術について話す前に、君が存在している宇宙が……つまりさ、君たちが今現在いる宇宙が、量子物理学でその存在が認められているひとつの宇宙だってことは、当然認識しているよね』


「もちろん」

『それなら、その宇宙が無限に存在する宇宙のひとつでしかないことも、もちろん知っているよね?』


「いや」

『僕たちが電子を観測するたびに、電子の位置によって宇宙は関数的に定義されるけど――』


『簡単に説明すると、彼は多元宇宙について話しているの』と女性の声が聞こえる。

「悪いけれど、物理学に関しては門外漢なんだ。だから詳しく説明されても、話の半分も理解できないと思う」


『それなら、もっと簡単に話そう』と青年は言う。

『人類の使用していた空間転移技術は、無限に存在する多元宇宙に繋がる技術だった』


「もっと分からなくなった」


『こう考えてみて、これは極端な例だけど、君の目の前に他の宇宙に繋がる扉が存在する。その宇宙では、君という人間は、君とまったく同じ元素によって構成される人間でありながら、別の存在として生きている可能性がある』


「俺が存在しない宇宙もあるのか?」

『もちろんその可能性はある。多元宇宙では、ありとあらゆる可能性が存在しているから。だけどそれはあくまでも理論上の話で、確率で言えば僅かなものだ』


「それが〈空間転移〉と、どうやって繋がるんだ?」

『せっかちだね』と青年は鼻を鳴らす。


「言っただろ、科学は苦手なんだ」

『人類の使用する〈空間転移〉とは、無限に存在する宇宙に〝移動〟することを意味しているんだ』


「分かり易く例えてくれないか」

『君が研究施設の外に転移したい場合、君は多元宇宙で無限に存在する可能性の中で、研究施設の外にいる君自身に向かって〝移動〟する』


「辻褄が合わないな」と青年に言う。「その宇宙にいる俺は、同じ人間に見えても違う存在として生きているはずだ。そんな人間が研究施設の外にふらりとやって来るのか? そもそもその宇宙では、この研究施設が存在していない可能性もある。それに、それが可能だとしたら、移動した俺はこの宇宙から消えるってことになるんだろ?」


『いいや、別の宇宙から少しだけ違う君がこの宇宙にあらわれる』

「俺がその宇宙に戻りたいと考えた場合、その宇宙にいる俺はどうなる?」


『戻ることはできないよ。君は無限に存在し、そして新たに誕生する別の宇宙のひとつに君は移動するだけだから』

「新たに誕生する宇宙?」


『君が転移する宇宙は、その瞬間に創られるんだよ。君自身が言ったじゃないか、辻褄が合わないって。例えばだよ。研究施設の外を偶然歩いていた君に、今の君の精神を転移したとする。けど君は、まったく別の意思でそこにいたんだから、君の周囲にいる人間は困惑して、君の存在を疑うかもしれない。それは完全な〈空間転移〉とは言えない。別の宇宙に存在する、まったく別の可能性をもつ君に向かって意識を移動させただけなんだ。君が変化しても、宇宙は別の形で存続し続けているんだから、ある意味では、君は他人の人生をそこで生きることになる』


「つまり矛盾が生じないように、俺が転移するたびに、この宇宙とそっくりな宇宙が創造される。違うのは、俺が存在している位置だけ」


『そう言うこと』青年は嬉しそうに言う。

「そんな映画みたいなことができるはずがない」


『いいや、あり得るんだよ。今この瞬間も宇宙はありとあらゆる世界点で新たに誕生し続けている。まるで泡のようにね。物理学の世界ではそれが当然のように許されている。量子物理学にのっとった宇宙では、何が起きても不思議じゃないんだ。可能性は無限に存在するからね。新たな宇宙の誕生なんて、量子物理学の視点から見れば、すごく些細なことなんだ。問題は、それを完全な形で観測することが極めて難しいということだ。いや、不可能だと言ってもいい。でも、それを観測できる神のような種族がいたらどうだろうか? 宇宙の可能性はもっと広がると思わない?』


「その〈空間転移〉の話は何処に行きつくんだ?」


『新たな宇宙を創造せずに、空間の歪みだけを利用して、自分自身を転移できる技術が存在する。それは人類の持つ技術よりもずっと先に位置する技術だ。君は多元宇宙に干渉することなく、この宇宙を自在に移動することができるようになるんだから』


 その言葉のあと、〈ブレイン〉たちの集合体の中央にいたグロテスクな個体の身体が裂かれるように開いて、例の遺物が姿を見せる。

『この遺物を使えば、その〈空間転移〉が可能になる』

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