第225話 理由 re
深い森に沈む〈スィダチ〉は、つめたい雨にけぶっていた。私は灰色の外套を羽織ると、〈カスクアラ〉を利用した宿泊施設を出る。周囲には雨に濡れた土の匂いと、植物の青臭さが漂っていた。
激しい雨に打たれながら空き地に視線を向けると、
『レイ!』ハクの幼い声が聞こえる。
『どこ、いく?』
雨除けになっているハクの糸の下まで小走りで向かうと、ハクを見上げながら言う。
「サクラの母親が目を覚ましたみたいなんだ。ほら、怪我をしていただろ? それで今からサクラたちに会いに行こうと思っていたんだ」
『あめ、ふってる』
ハクは長い脚で薄暗い灰色の空を指した。
「台風が近くを通過しているんだ」
『かぜ、つよい』
「大丈夫だよ。ちゃんと気をつけていくから」
ハクは音も立てずに着地をすると、脚を伸ばして私を抱き寄せる。
『いっしょ、いく』
「ハクは濡れるのが嫌いだろ?」
理由は分からなかったが、ハクは体毛が濡れるのを嫌う。だからハクの
ハクは水で遊ぶのが好きなので、濡れてしまうのが嫌だったことすら、すぐに忘れるくらいに遊ぶことに熱中してしまう。そもそもハクは水に深く潜って移動できるほど、水に対して適性を持っているので、水を嫌う理由がよく分からなかった。ひょっとしたら、幼い子どもが持つ可愛らしいワガママを言っているだけなのかもしれない。
『へいき、かぶとむし、あう』
ハクはそう言うと、パッチリした大きな眼を近づける。
「サクラのカブトムシに会いたいのか?」
『ん、あそぶ』ハクは地面をトントンと叩いた。
「それなら、これから〈カスクアラ〉に一緒に行こう」
鳥籠の中心に見えている紫黒色の巨大な外骨格を指差した。
「見えるか、ハク。俺たちの目的地はあそこだ」
『みえる』
急かされるようにして白蜘蛛の背に乗ると、ハクは雨の中に飛び出した。
激しい雨と風のなか周囲の大樹が大きく揺れ、枝が
目的の〈カスクアラ〉に目を向ける。普段なら、そこには生物の死骸にまとわりつく羽虫のように、トンボの変異体が飛ぶ姿が確認できたが、今日はその姿を見ることはなかった。雨が降っている
巨大な殻の間を移動していると、九つくらいの幼い子どもが二メートルほどの巨大な甲虫と共に、のそのそと通りを歩いているのが見えた。その子どもは
〈深淵の娘〉であるハクが近くを通ったからなのか、大量の荷物を運んでいた甲虫が驚いて、子どもを置いて通りの先に行ってしまう。子どもは甲虫を呼び止めようとしていたが、無駄だったようだ。その子どもは山芋にも似た野菜が入った重たそうな籠を背負っていて、強く吹きつける風に
ハクは子どものそばに着地する。
「わぁ、大きな蜘蛛だ!」
女の子は驚くと同時に感動していた。
森の民が昆虫に慣れているからなのか、大きな蜘蛛の姿をしたハクを見ても女の子は怖がる素振りを見せなかった。
そもそも鳥籠の中に入ることが許される昆虫は、蟲使いたちと繋がっている昆虫や飼育されている大人しい昆虫だけなので、襲われる心配がないと分かっているのだろう。しかしそれでも、ハクの存在に
『どこ、いく?』
ハクが女の子に
「喋った!」
女の子は大袈裟に驚いて、それから雨音に負けない声で言った。
「私はね! お店にお届け物をするんだよ!」
たしかに彼女は籠を背負っていて、それ以外にも野菜の入った大きな籠を指が真っ赤になるくらいに強く握って持っていた。
『ハク、てつだう』
「手伝う?」
女の子は首をかしげた。彼女の白い頬は雨の冷たさに赤く染まっていた。
私は身を乗り出すと、女の子を籠ごと引っ張り上げてハクの背に乗せた。
「目的地を教えてくれ」彼女は不思議そうな顔で私を見つめてから、丁寧に目的地を説明してくれた。ハクにそれを伝えると、彼女を送り届けることにした。ハクの気紛れに付き合うことにしたのだ。
あっという間に目的地に到着すると、ハクの背から女の子を降ろし、逃げてしまった甲虫について訊ねた。しかし甲虫はこの店が世話している昆虫だったので、放っておいてもいずれ帰ってくるようだ。だから心配しなくてもいいらしい。
「さよなら、白い蜘蛛さん」女の子は笑顔で手を振る。
ハクも
その立派な〈カスクアラ〉は、森の民の間では〝聖堂〟とも呼ばれていると教えてもらったが、その理由が何となく分かったような気がする。激しい雨が降る危険な森にいると、その堅牢な殻が与える印象は――ある種の避難所として与えてくれる安心感は、何ものにも代え難いと感じてしまうのかもしれない。
その巨大な〈カスクアラ〉の前で白蜘蛛と別れることになった。ハクはカブトムシが何処にいるのか分かっているのか、機嫌よく昆虫たちがいる小屋に行ってしまう。
サクラのカブトムシはぼんやりとした大人しい性格の昆虫で、ハクの存在にも慣れていたけれど、おそらく他の昆虫はハクを見ただけで逃げ出してしまいそうだ。ハクがそのことに気を悪くしなければいいのだけれど。
建物に入ると守備隊の青年がやって来て、ぽたぽたと水滴が垂れていた外套を受け取り、代わりに清潔なタオルを差し出してくれた。
「お預かりします」と、守備隊の青年は言う。
「ありがとう」私がそう言うと、かれは丁寧なお辞儀をしてくれた。
青年の声には微かな緊張が含まれていたが、あまり気にしないことにした。それに武器を隠し持つ必要もなかったので、なにか問題が起きても、自分自身の力だけで切り抜けられそうだった。もっとも、武器の有無にかかわらず、つねに注意しなければいけない危険な世界だったので心構えに大きな変化はない。
「レイ!」サクラが吹き抜けになっている広い通路からやってくる。
「ごめんね。こんな雨のなか急に呼び出しちゃって」
「気にしないでくれ」
タオルで顔を拭いたあと、サクラに訊ねる。
「それより、お母さんの調子は?」
「今朝、目を覚まして、それで今は普通に話しができるまで回復してる」
ベルトポーチからもぞもぞと偵察ドローンが出てくると、カグヤの声が聞こえた。
『レイに会うのは、もう少し体調が良くなってからのほうがいいと思うけど?』
「お母さまが直接会って話がしたいって言っていました」
『どうしても話さないといけないことでもあるのかな?』
「それは分かりません」とサクラは赤髪を揺らす。
「……たぶん、助けてもらった感謝がしたいだけだと思います」
『感謝か……真面目な人なんだね』
「命を救ってくれた人に感謝くらい、誰でもしますよ」
『廃墟の街でもそうだったら良かったんだけどね』
部屋の前には守備隊の女性がふたり立っていて、カグヤの操作するドローンを興味深そうな目で見つめていたが、何かを言うことはなかった。
数日前に族長を救ってから、我々に対する扱いが格段に良くなっていた。武器を所持していても、誰かに何かを言われることはなくなったし、鳥籠の住人は我々のことを〝異邦人〟と呼んで
その変化は驚くもので、ミスズとナミを連れて屋台に食事を買いに行ったさいにも、最初は異邦人だからと冷たくあしらわれ、顔も見てくれなかったが、族長とサクラを救ったという噂が流れるようになると、途端に彼らは笑顔を見せ、食事のオマケまで貰えるようになった。
現金なものだと思ったが、それが彼らの部族的な〝気質〟と言ったら、言い過ぎかもしれないが、森の民のやり方だった。なら外部から来た我々が文句を言う筋合いはない。彼らのやり方を受け入れていくしかない。
しかし森の民が門を開いたからと言って、警戒せずに彼らの庭に入るほど私は人間を信用していない。だからつねに注意深く彼らと接している。
ここでは誰からも敵意は感じられない。
「来てくれたか、レイラ殿!」ゲンイチロウが笑顔を見せる。
かれの言葉にうなずくと、侍女が木製のイスを運んできてベッドのそばに置いた。
「どうぞ、こちらに」
彼女に言われるままイスに座る。
族長は侍女たちの助けを借りてゆっくり上体を起こす。
「よく来てくれた」彼女はそう言うと咳込んだ。
元々死人のように青白い肌をしていた族長の頬は、ほんのりと薄桜色に染まっていて、顔色は良くなっていた。〈オートドクター〉の奇跡をまた目にすることになったようだ。
「私を救ってくれたこと、まことに感謝しています」
族長は痛みに顔をしかめながら、それでもゆっくりと頭を下げた。そのさい、族長の
「心配していましたが、大丈夫なようですね」
族長の天色の瞳を見ながら言う。
「さすがサクラの母親ですね。お強い人だ」
「そうですね」彼女は苦笑する。
「スィダチを抜け出して、ひとりで横浜まで行くような娘ですから」
「しかし無理はしないほうがいいでしょう。貴方は死にかけていたのですから」
「わかっています。けれど、どうしてもレイラ殿に感謝をしたかったのです……」
「感謝は充分ですよ」
「そうですか……」族長は目を伏せる。
『そうだ』とカグヤが言う。
『例の植物になっちゃう病気が完治したか、確認させてもらおうよ』
カグヤの言葉にうなずくと、
「診断ですか?」族長のそばに立っていた侍女が困惑する。
「難しいことは何もしません。鳥籠の入場ゲートでスキャンされるのと変わりません。痛みもありませんし、すぐに済みます」
「いけません、族長」侍女が前に出る。
「異邦人の機械は信用できません」
「私は構わぬぞ。もとより、この命はレイラ殿に救われたものだ。殺すつもりなら、
侍女は何かを言いたそうにしていたが言葉を呑み込み、頭を下げると部屋の隅に移動する。どうやら〈森の民〉は廃墟の街で発掘される機械に対しても偏見を持っているようだ。
「信頼に感謝します。診断にはこのドローンを使用します」
カグヤのドローンが族長のそばに飛んでいく。
族長が真剣な面持ちでうなずくと、カグヤの声がスピーカーを通して聞こえた。
『それじゃあ、ちゃちゃっと調べちゃうね』
族長の診断が行われている間、侍女たちが例のワインのような飲み物を盃に注いでいくのが見えた。どこかの家で見た昆虫の腹部を思い出し、思わず嫌な顔をしそうになってぐっと堪えた。せっかくの厚意に対して失礼なことをしたくなかった。それに実を言うと、アルコールの含まれていないあの飲料の味はそれほど悪くないのだ。
「ずっと気になっていたんだけど」とゲンイチロウに訊ねる。
「どうしてあんな遅い時間に族長たちは森をうろついていたんだ?」
「それなんだが……」ゲンイチロウが髭を撫でながら言う。
「本来なら族長会議が行われた鳥籠に留まり、時間を調整してからスィダチに向けて出発する予定だったのだ。しかし族長を護衛していた守備隊の者たちが周囲の異変に気がついて、会合が行われていた鳥籠から急いで出たようだ」
「異変……襲撃の兆候か」
「然り」ゲンイチロウはうなずく。
「けど族長を亡き者にしてどうするつもりだったんだ」
「我々を混乱させようとしていたのだ」
「この状況でこんなことを言うのは不謹慎かもしれないけど、後継者はいるんだろう? 族長が死んだからと言って、簡単に揺らぐような規模の鳥籠には見えない」
「後継者はサクラだ」
それまで石像のように黙り込んでいたマツバラが言う。
「そして我々と敵対している者たちは、サクラがすでに死んでいたと思っていたようだ」
「どういうことだ?」
思わず眉を寄せる。
「サクラが特別な血筋だと知っているな?」
「たしか〈母なる貝〉の声が聞こえる特別な家系だと聞いている」
「そうだ。けれど血のつながりがあるからと言って、全員が〈母なる貝〉の声が聞こえるわけじゃない」
「適性があるのか……それは後継者になることと関係があるのか?」
「〈母なる貝〉の声が聞こえない者には、族長になる資格はない」
「それなら、サクラの母親も声が聞こえるのか?」
「ほんの僅かだが、たしかに聞こえるという」
「それが族長になることと何の関係があるんだ」
「我々を導き守っているのが〈母なる貝〉のお告げだからだ」
「お告げか……それは森の民にとって重要なことなんだな?」
「この森で我々が生きるためには必要なことだ」
多くを語ろうとしないマツバラに対して私は溜息をついた。
「声を聞くことが重要なのは分かった。けどサクラ以外にも声が聞こえる者はいるんだろ?」
「残念ながら、サクラほどハッキリと声を聞くことのできる人間はいない」
「それでもサクラの母親は族長になれたんだろ?」
「呪術師たちの支援があったからだ」
「そう言えば、サクラの叔母が呪術師だったな……彼女は?」
「かなりの歳だ」とマツバラは言う。
「だからサクラが重要なのか……」
「ああ、そして我々と敵対する者はサクラが死んだと想定して行動した。族長がいなくなれば、我々は〈母なる貝〉の声を聞くことのできる人間を失うからな」
「失うとどうなるんだ?」
「森の異変以降、多くの問題を抱えていた我々の心をひとつに繋ぎとめていたのは、〈母なる貝〉に対する信仰心と希望だ。その希望がなくなれば、鳥籠の壁はいとも簡単に崩れ去るだろう」
「内紛か……」思わず溜息をついた。
「このタイミングで族長を襲った理由は?」
「スィダチから滅多に出ることない族長を襲撃できる機会は、族長会議があるこの時期だけだったからだろうな」
「そういうことだ」と、ゲンイチロウが深くうなずいた。
私は盃に入っている濃い赤紫色の液体を飲んでから訊ねた。
「ゲンイチロウはどうして族長のそばにいなかったんだ?」
「森に異変が起きている
「サクラを待っていたってわけか」
「お嬢様は〈母なる貝〉同様に、我々の最後の希望だったのだ……」
「最後の?」
「族長は病にかかっていた」
「植物になるとかっていう、謎の奇病のことだな」
「そうだ」とマツバラが答えた。
「だからサクラが重要だったのだ」
『そのサクラが鳥籠を抜け出して、横浜に向かったのは致命的な失態だよね』
カグヤの言葉に肩をすくめたあと、族長について
「それで、診断の結果は?」
『それなら大丈夫だったよ。族長の病はちゃんと治ってた』
彼女の言葉をゲンイチロウとマツバラに伝えると、ふたりは安堵の息を漏らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます