第209話 池 re


 大樹たいじゅの間を歩いていると池が見えてくる。周囲の樹木と比べれば、こぢんまりとした池の水面は日の光を浴びて緑色に輝いていた。その池の向こうがわに視線を向けると、大樹たいじゅみきを登っていく白蜘蛛の姿が見えた。


 時折、強く吹く風が水面を青色に変化させると、巨大な生物の黒い陰が映し出される。我々は水辺に極力近づかないように歩いて、白蜘蛛の姿が見えた場所に向かう。


 空を見上げると、枝の間から白蜘蛛の姿が小さく見える。どうやらハクは樹皮じゅひの亀裂から流れ出る樹液に興味があるのか、亀裂に向かって真直ぐ大樹たいじゅを登っていた。樹液の周りに集まっていた無数の昆虫は、白蜘蛛の登場に驚いて、すぐにその場から逃げ出していた。


「このあたりも随分ずいぶんと様変わりしました」

 声がして視線を落とすと、大樹の根元に座っていた〈ハカセ〉の姿が確認できた。

「不死の子よ、ハクさまを探していたのですか?」


「もしかしてハカセもハクを探していたのか」

 ハカセはゆっくり立ち上がると、まるで修道士が着るようなローブについていた土を払い落とす。その姿だけ見れば敬虔けいけんな信徒に見えなくもない。


「ハクさまの探検に付きっていました。私もひさしぶりに森の姿を見たいと思っていたので、い散歩になりました」


 私は周囲を見回して、それから肩をすくめた。

「危険な昆虫や生物がいなければ、たしかに気持ちよく散歩できそうな森だ」

 ハカセは杖代わりに使用していた兵器を手に取りながら言う。

「そう言えば、このあたりに生息する昆虫も狂暴になっていましたね」


「ハカセの目から見ても、この森は危険な場所になっている?」

 彼はうなずくと、大樹のずっと高い位置にいる白蜘蛛を仰ぎ見る。

「たしかに以前とは何かが違います。空気の密度がいのは変わらないですが、森の奥が不自然に静かなのも気になります」


「ハカセはそんな遠い場所のことも分かるのか」

 私が素直に驚くと、ハカセは微笑んで紺色の頭蓋骨をわずかにゆがませた。

「そうですね……たとえば、すぐそこにとても危険な水棲生物が潜んでいることも分かります」

 それを聞いたナミはミスズの手を取って水辺を離れる。


 ちなみに〈ハカセ〉は廃墟の街を探索しているときに出会い、不思議なえんで仲間になった〈人造人間〉だ。人間に興味がなく、蜘蛛の変異体や昆虫の観察をすることがライフワークで、途方もない年月を孤独に生きてきた。


 文明の崩壊したこの世界には多種多様な生物が存在する。人間や動物を始め人擬きや昆虫、そしてハカセたちのように人々から〈守護者〉と呼ばれる〈人造人間〉もこの世界で生きていた。


 人造人間は基本的に人間と同様の骨格を持っている。しかしほとんどの個体は皮膚を持たず、き出しの骨格で活動している。その身体からだを構成するのは、旧文明期の軽くて頑丈な未知の〈鋼材〉だった。だからなのか、金属製の骸骨が動いているような、そんな不思議な外見をしている。


 また〈人造人間〉には世代があり、ハカセは第一世代と呼ばれる〈人造人間〉だった。〈第一世代〉の他に、戦闘を目的に創造された〈第二世代〉そして専門的な職について人間を助けることを目的に誕生した〈第三世代〉が存在する。


 ちなみに我々の仲間には〈人造人間〉がもうひとりいる。彼女は〈ペパーミント〉の名で知られていて、多摩川沿いにある旧文明の施設〈兵器工場〉の管理をしていた〈第三世代〉の人造人間だった。〈混沌の領域〉と呼ばれる異界をめぐる騒動で、彼女とも不思議なえんで結ばれることになり、それ以来、ペパーミントは私たちの大切な仲間になっていた。


「ハク!!」とミスズが声をあげる。

「もう日が暮れるから、そろそろウェンディゴに戻りますよ!」


 ハクは腹部をカサカサと震わせて反応するが、大樹たいじゅからは下りてこようとしなかった。

『ミスズ』と、カグヤの声が内耳に聞こえる。

『樹液は毒だから、ハクに食べちゃダメだって教えてあげて』


「本当ですか!」ミスズは琥珀色こはくいろの綺麗な瞳を大きくして驚く。

「大変です! すぐにハクに教えないと!」

 彼女は手を振りながらハクに言葉を届けようとする。


 その様子を見ながらカグヤにたずねる。

「あの樹液は本当に危険なものなのか?」


『本当に毒なのかは分からない、他の昆虫は普通に摂取してるみたいだし。ハクを少し驚かせようとしただけだよ』

「そうか……」とミスズに目を向ける。

「ミスズが驚いたみたいだけど」


「不死の子よ」とハカセが青い瞳を明滅させる。

「安心しても大丈夫です。あの樹液はハクさまに無害ですから」


「ハカセはあの樹液の正体を知っているのか?」

「〈大樹たいじゅの森〉は、かつて生物が近寄れないほど汚染されていた都市を浄化するために、人間たちが植林し誕生させた場所です」

「植物の力を借りて汚染地帯の浄化を行っていたのか……昔の人間はすごいことを考えたんだな」


「水の浄化を行う植物の存在は一般的に知られていました」とハカセは続ける。

「人類はそれをヒントにして、樹木じゅもくの改良を行い土と大気、そして水を浄化しようと考えたのです」


樹木じゅもくは成長し森になった……。立派に目的を果たせたんだね』

 カグヤの言葉にうなずいたあと、こちら側にやってくる白蜘蛛の姿を見ながら、ずっと気になっていたことを博士にたずねる。

「別の地域にも、こんな森が存在するのか?」


「存在します。とくに汚染が酷かった地域では、このような森が多く誕生しました」

「昆虫が巨大化したことと、森の存在には何か関係があるのかもしれない……」

「かもしれません。ですがそれは私にも分からないことです」と、ハカセはゆっくり頭を横に振る。「その謎を解明することも当初の私の目的でした」


『ただの昆虫好きじゃなかったんだね』と、カグヤが平気で失礼なことを言う。

 ハカセは頭蓋骨ずがいこつゆがませて笑うと、何もない空間に眸を向けた。おそらくハカセには、〈熱光学迷彩〉を起動して接近してくる偵察ドローンの姿が見えているのだろう。


「しかし答えはまだ出ていません」とハカセは残念そうに言う。

「森だけでなく〈混沌の領域〉へとつながる〈神の門〉が関係していると考えているのですが、それを証明することはまだできていません」


 この星の何処どこかには〈わざわいの地下王国〉につながる回廊が存在すると言われている。その世界は数え切れないほどの〈領域〉につながり、今この時も世界を侵食している。それらの領域が、この世界に干渉している。そしてそれが昆虫の巨大化と関係があるのかもしれないとハカセは語る。


「混沌の領域からこの世界に渡ってきた未知の病原体が関係している可能性は?」

 私の言葉にハカセはうなずく。

「その可能性も考慮しました。それを確かめるために〈混沌の領域〉におもむいたこともありました」


「たしか……〈無限階段〉と呼ばれる場所を通って、あちら側に存在する〈領域〉の学術的調査に向かったんだったな」

「はい。〈ノイル・ノ・エスミ〉を通って地下王国を調査しました」


「夜闇」とナミがつぶやいた。「ハカセは古代の神々が残した言葉が分かるんだな」

「ええ。私は学ぶことが好きなのです」


 ハクの姿がハッキリ見えてくると、ハカセはハクの体毛についた古代紫色こだいむらさきいろの樹液を指差ゆびさしながら言った。

「あの液体は浄化しきれなかった汚染物質の残滓ざんしです。毒性は弱まっていますが、この森に生息する昆虫以外の生命体が摂取した場合、中毒を起こし最悪死に至ります」


「昆虫に汚染物質を処理してもらうシステムになっていたのか?」

 ハカセは指先であごを撫でて、それから頭を横に振る。

「それは分かりません。本来は想定していなかった現象です。森は大きく姿を変え、今では自然の流れと共にありますから」


「そうか……」私はそう言うと、大樹を見上げた。

 ハクの触肢しょくしは粘液質の樹液でネチャネチャに汚れていた。その脚でミスズに抱きつこうとしたが、すぐにナミに注意されてしまう。ハクは少しだけ機嫌を悪くしながら池のそばに向かった。


「ハク」と私は言う。

「池には危険な生物がいるから、あまり近づいたらダメだよ」


『ハク、へいき』

 白蜘蛛は腹部を揺らす。

『ハク、つよい』


 池の水で脚を綺麗にしていたはずのハクが、バシャバシャと水遊びを始めたときだった。池の水面に何かがプクリと浮かび上がるのが見えた。

「カグヤ、あれが何か分かるか?」


 カグヤの偵察ドローンが池に向かって飛んでいくのが見えた。ドローンは〈熱光学迷彩〉で姿を隠していたが、私の網膜には青色の線で輪郭りんかく縁取ふちどられたドローンの位置がしっかりと視認できるようになっていた。


 眼球を覆うナノレイヤーの薄膜に常時投射されていたインターフェースを確認しながら、ドローンから受信する映像を拡張現実で表示させる。池の水面を進んでいたドローンの視界の先、ちょうど池の中央辺りに浮かび上がっていたのは人間の腐り始めた頭部だった。最初はそれが何か分からず、水面にゆらゆら漂う頭髪を海草か何かと勘違いした。


 それは次第に糸で吊るされた人形のように、水面からゆっくり浮上してきた。その不気味な遺体は服を身に着けておらず、ブヨブヨした皮膚はヌメリのある粘液で覆われていた。裂創れっそうのようなモノが幾つも確認できるグロテスクな遺体は、筋繊維や皮下脂肪が傷口から見えていた。遺体には他にも何かに噛まれ、いちぎられた痕が確認できた。


 その異様な光景に困惑していると、もう一体、今度は女性の腐乱死体が浮かび上がり、まるでフィギュアスケートの選手のように水面を滑る。死体の背中には夏虫色のうろこに覆われた触手が食い込んでいて、その触手が死体を動かしていることが確認できた。


「まるで疑似餌だな」

 ナミの言葉を聞いて、ミスズは困惑した表情でたずねる。

「死体を使ってハクをおびき寄せようとしているのでしょうか?」


『そうだと思う』カグヤはそう言うと、水中にドローンをもぐらせた。

 しかし水中にいる何かの存在を捉えるよりも先に、それは凄まじい速さで動いた。


 表面張力で水面が綺麗に盛り上がると、日の光を受けて緑色に輝く水中にカエルの口が――厳密にはカエルではなかったが、巨大な生物の口があらわれる。ハクは驚いたが、素早く後方に飛び退いて難を逃れる。そのカエルに似た奇妙な生物は全身が薄緑よりも淡い夏虫色のうろこに覆われていて、そのうろこにはびっしりとこけが生えていた。


 体長はゾウよりもひとまわり大きく、ヒキガエルのように全身にイボがあった。その巨体にも驚いたが、背中についた二本の長い触手にも驚かされた。その巨大生物は、触手の先についた人間の遺体を使って狩りをしているようだ。


 カエルの変異体はハクを捕まえられなかったのが悔しかったのか、ぶすっとした顔で池に引き返していった。そのさい、背中の触手から粘度の高い粘液が滴り落ちるのが見えた。


「あの粘液を使い、背中に吊るしている死体が腐るのを防いでいるのです」

 ハカセの言葉に私は驚く。

「博士はあのカエルのことを知っているのか?」

「はい。以前はもう少し小さく、小型の哺乳類を食べていましたが」


 廃墟の街で見かけたリスの変異体のことを思い出して、それから溜息をついた。

「今は人間も食べるみたいだな……。森にはあんなのが沢山いるのか?」

「水辺には沢山いるでしょう」

「それは厄介だな……弾薬も節約しなければいけないし、できればあんな巨大な生き物とは戦いたくない」


「水辺に近づかなければいいだけですよ」と博士が言う。

「しかし問題もあります」


「問題ですか?」と、ハクを撫でていたミスズが首をかしげる。

「とてもうるさいのです」

「ああ」とナミが納得する。

「カエルの大合唱はすごくうるさいからな」


 その様子を想像したあと、げんなりしながらハクのそばに向かい、怪我していないか確かめる。

『ん。ハク、けがないよ』

 ハクはそう言うと、パッチリとした大きな眼を私に向ける。


「今度から水辺に近づくときは気をつけないといけないな」

『あぶない、しってる』

「その割には、普通に遊んでいたけど?」


『あそんでない』

 ハクはそう言うと、地面をベシベシと叩いた。

『あんぜん、みてた』


「池が安全か確認してくれたのか?」

『ん。そう』

「そうだったのか……ありがとう、ハク」

 ハクの調子に合わせてあげると、白蜘蛛は腹部を揺らした。


『ハク、すごい?』

「ああ、すごいよ」

『ん、すごい!』


 ハクはそう言うと、濡れた脚でミスズを抱き上げて、ウェンディゴの方角に向かって跳んだ。ナミは肩をすくめると、ハクのあとを追って歩き出した。


「俺たちも行こう、ハカセ」

 彼はにっこり微笑み、それからうなずいた。

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